私の作品に『振動ピアノ』と言うのものがある。
之を「面白い」と思う人もいて、六本木スーパーデラックスでライブをやる、と言う話があったのだが
「ピアノが壊れる」
と言う理由で流れた事がある。その後、ラ・グロットと言う店で上演したが今、思えば殆どゲリラ的にやったようなモンでハコのオーナーは「ピアノをどう言う風に使うのか」を全く知らないし、知っていたらNGになった気がする。
構造は単純で8~10個のピンク・ローターをピアノの内部弦に取り付けて、サスティン・ペダルを踏んだだけのモノである。弦の音、モーターの音、その他がピアノの内部で共鳴して途方もない音が出る。
同じシリーズで『振動ドラム』『振動ギター』もあるのだが出来はピアノかも。恐らく『ピアノ』と言う楽器は『楽器』と言うより『機械』に近いと思う。そう言う相性だろう。
之を「ジャム・セッションで使えないか?」と思った。
丁度、中野のピグノーズでフリーセッションがあったので行った。「丁度良いいや」と思ったのである。
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一時期、『サウンドアート』『実験音楽』と呼ばれる作品ばかり聴いていた。
1)砂浜にアコースティックギターを30台~50台置いて、風に吹かれる音を収録したもの(之は世界各地で行ったらしく福岡県の玄界灘でも行ったらしい。当時、ニュースになった)。
2)79分間、ズーっとグラスハープの音
3)ヤマビコが延々と入っている
4)涸れた井戸(地下30m)で3人のトロンボーン奏者が演奏(天然エコーの持続音が30秒も続く)
5)10mの針金にピックアップを付けて、サイン波を聴かせて共鳴させる
6)グランド・マスターフラッシュにDJをやらせて、その脳波を拾い、シンセサイザーで変調
7)狼の鳴き声を収録して、其れを引き伸ばしたり
8)エレキ・ギター10台以上に大音量で『レーニンの演説』『毛沢東の演説』を聴かせて、其れにより振動したギターの音を収録
沢山あったし、素敵だったし、途方もなかった。
その頃、丁度、『フリーミュージック』と言うかエヴァン・パーカーやフレッド・フリス、デレク・ベイリー、向井千恵も一寸、好きだった。向井さんとは個人的な付き合いもあり音源を改めて聴く、ってのはなかったけども向井千恵さんの方法論は非常に面白い。真似は出来ないが。
其処で思うのは「即興」と言ってもガチな「即興」は殆ど不可能ではないか?と思った。嘗て、山下洋輔がフリージャズについて「出鱈目と言えば出鱈目かもしれない。だが、毎晩、出鱈目をやれる人間がいるのかよ!」みたいな事を書いていたが、当時の事情も考慮すれば山下洋輔はジャズをやっている自覚はなかったと思うが、其れは「其れまでのジャズではない」と言う事を言語化する事が難しかった、という事だと思う。
そう言う事を言語化したのはデレク・ベイリーの著作『インプロヴィゼーション』が始めてだったと思う。ジョン・ケージの著作は本人なりのユーモアもあるのだろうが難解だ。
ピアノでもギターでも良いのだけども『A』と言う滅茶苦茶なフレーズを2秒ほど演奏したとする。その後、0・0001秒後に『B』と言う滅茶苦茶なフレーズを弾く。其れが連続して合計30分の演奏になったとする。
しかし、人間の指は10本である。ピアノは88鍵盤。そして大半はキチンと調律されている。『A=440Hz』だ。
結論から言ってしまえば『人間』と言うシステムの中で生きる動物に『出鱈目』な演奏は不可能なんじゃないか?と思うのである。
音楽は自由である、となっている。其れは違うと思う。
音楽は制限と制約と規則と様式である。
例え楽器を改造しようと其れは同じだと思うのである。「自由」と思われがちなジョン・ケージの作品だが彼の代表作である『プリペアド・ピアノ』には入念な指示表(スコア)がある。ピアノの弦に挟むモノ(消しゴムや螺子、木の破片)、それらを何処に挟むのか、其れを挟む位置すら厳密には決まっている。
初演の際、『ノイズ』と評されたストラビンスキーの『春の祭典』も想像を絶するようなスコアがあるように(しかし、余りにも面倒過ぎるスコアはストラビンスキー自身ですら無視していたらしいが)。
で、『振動ピアノ』。
元々は『サウンド・アート』として作った。ノイズ作品だと思って頂ければ話は早い。
実は高校生の頃、3年間、ピアノを習っていた事がある。最後の1年間は音楽理論だったけども(大半は忘れちゃったけど)。
時折、ピアノと言う楽器を弾きながら不思議に思っていた。
ピアノと言う楽器の構造である。
17歳の終わりの頃にシンセサイザーを買ったが、シンセサイザーの中身はメモリーに記録されたデータを鍵盤を叩いて呼び出す。そのデータを変える事が出来る。そのデータをメモリーに記録させて自動的に鳴るようにも出来る・・・と言うか。
只、ピアノの内部を見ると途方もない『工業製品』である。
弦は約1トンの張力で張られている。後ろに見える金色の板は実は『共鳴板』である。当然、鉄板。それだけではなく木製の木箱も同じく共鳴箱。足元にはペダルが2本~3本あり、音色を変える事が出来る。
それ以前に優雅なイメージのピアノだが「弦をハンマーで殴りつけて音を出す」と言う暴力的な構造が不思議だった。
弦を引っかく、と言う事ならギターもそうだし、弦楽器は全てそうだが「殴って」ってなると打楽器だ。打楽器のワリには構造が異常に複雑で、演奏出来る曲目も異常に幅広い。
当時、エレキギターを所有していたが「何て構造が単純な楽器なんだろう。土人の楽器だよな」と思った。
とても18世紀後半から19世紀に作られた楽器とは思えないし、其れを全国の子供達が「教育」「情操教育」「ピアニストを目指して」と演奏している、と言うのもシュールだな、と思う。
ピアノは楽器じゃなくて『機械』だ、と思う。
そう言えばピアノの構造が完成した頃に『産業革命』って起きているんだよな。
『工業音楽』
の誕生だったんではないか?って思う。その後、『未来派』がノイズ・ピアノを作った『らしい』が、それ以前にピアノと言う『機械』自体が、来るべき産業革命の為のサウンドトラックだったんではないか?と思う。
振動ピアノだが、「機械なら機械らしい音をさせてみよう」と言うか『鍵盤を叩き、ハンマーで殴りつける』と言う以外の方法でしかピアノの音は出せないのではないか?と思った。
で、ピンク・ローターを使っているのだが250円の一番、安いもの(同時に最も普及したもの)を使っている。之は一応、幾つか試した挙句に、一番、安いピンク・ローターが最も良かった。
近所にスタジオがあって、其処にアップライトピアノがあるので「ぶら下げる」と言う方法になった。その為、リモートコントロールが出来るピンク・ローターが一番、良かった。
因みに『マッサージ器』も試している。だが、マッサージ器だと力が強すぎてピアノが壊れてしまうのである(実家のピアノはそれで実は不調になった)。
やってみて面白かったのは
「全く制御出来ない」
のである。せいぜいピンク・ローターをぶら下げる位置を決める事で、ある程度の最初の音は決められるが、ピンク・ローターは揺れるし、位置もガムテープで固定してもズレる。ついでに言えば
ピンク・ローターが壊れるのである。
演奏時間はスタジオで試した結果2時間が限界。ピンク・ローターを改造して壊れ難くしても最終的にはモーターが焼き切れるのである。
モーターが焼切れるので、『焼切れる臭い』もする。なんとも形容し難い臭いなのだが、出来上がった振動ピアノは
音と香りを楽しむサウンド
になった。で、私はピアノの前に居る事はいるが、その役割は
『壊れたピンク・ローターの回収』
『多少の位置修正』
だけ。どちらかと言うと『見守る』と言うか、そんな感じに近い。演奏を終える為にはピンク・ローターのスイッチを切れば良いのだが、ダイヤル式のピンク・ローターなので「即時」には終わらない。10台なら10秒~数分の時間が掛かる。
あらゆる意味で演奏者不在であり、同時に制御不可能なモノだった。
其れを発見したときに「之は凄い」と思った。
作る前までは其処までは考えていなかった。
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以前、知人の電子音楽家と話したのだがデビット・チューダーと言う電子音楽家について話したのだが(ツイッターで、だけど)、デビット・チューダーは電子音による即興と言うか、電子音楽家なのに、氏のセッティングを写真で見ると殆どが自作電子楽器。それとエフェクターである。
コンピューターが発達してなかったからアルゴリズムを自分で作るしかなかったんだと思うが、出音からして制御が出来てない。
と言うか『制御が出来ない音』を『制御しようとする』と言う行為がライブ・エレクトロニクスなのかなぁと思う。
だが極論かもしれないが「音を止める」事は出来るワケである。電源を落とせば音は勝手に止まる。そう言う意味では『制御は出来た』と言っても過言ではない。
だから『安定した電気の供給』があってこそ始めてライブ・エレクトロニクスは成立するのである。計画停電地区では不可能な行為だ。
その『計画停電』すらも演奏の一部(演奏終了時間は計画停電発動の時間とか)だとすれば面白いが。
『即興演奏』にしろ『フリーミュージック』にしろ『偶然性音楽』にしろ、『音を止める事が出来る』と言う時点で、「完全なる制御」が出来ていると思う。
『即興演奏』をどう言う風に捉えるか人其々だが言葉を変えると『即席音楽』であり、冷蔵庫の余りモノで作るカレーライスと大して変わりはない、と私は考える。
出来上がるものは入念に仕込もうと、余りモノだろうとカレーはカレー。
『即興演奏!』
と見栄を切るようなモノではないと思う。大半は興行の呼び込みの為の決まり文句だが。
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『振動ピアノ』のライブは確か10個のピンク・ローターで行った。リハで2個が壊れたので、本番は8個。
本番中にどんどん壊れる。
演奏終了の際、動いていたのは4個だけだった。鳴りながらボトン!と落ちたり、動かなくなったり、その場で修理しながらで4個である。可也、面倒だ。
只、やっぱり制御は出来ないワケで個人的には面白かった。『ピアノが勝手に鳴っている』と言う『自動性』と言うか『機械臭さ』は演奏、と言うより『操作』だった。
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で、今日、中野のピグノーズでグランド・ピアノでやったのだが、「やっても良いですか?」と聴くと主催者が「いや、あの」と言う。駄目かなぁ~と思った。過去に何度も「ピアノが壊れる」と断れた経験があるからである。
「遊びじゃ駄目よ。真剣にやるんだったら」
とOKがでた。驚いたのは此方だった。
「勿論ですよ。・・・真剣じゃなかったら、こんな事しませんよ」
と言って演奏スタート。コントラバスとドラムと『振動ピアノ』と言う編成。
グランド・ピアノだとアップライトピアノと違い固定が出来ないので更に『制御不能』となった。結構、面白い音がしたのだが録音を忘れてしまった。
あとでピアノストの中年男性が「あの演奏(振動ピアノ)と私(ピアニスト)一緒にやる、ってのはどう?」
と言ってきた。
只、「音がバシ!っと止まる処が欲しい」と言う。其れは不可能であり、其れが出来ない事が、このシステムのコンセプトである事を説明すると、ビミョーな顔をした。
その後、「鳴りっ放しってのが一寸、キツイな」と言われた。その男性のピアノはとてもロマンチックで、フランス印象派みたいな感じがして私は好きなんだけども、その一言が、面白かった。
もしかすると人は『制御出来ない機械』と言うのは本能的に嫌、と言うか怖いのではないか?
と。
原発事故の際、原発が放射能を撒き散らした、と言うより「制御不可」と言う状態が私は恐ろしかった。原発で「直ぐに止まります」と言うモノは物理的に『皆無』なんだけども(柏原発も実は冷温停止状態は数ヵ月後)、あの事故の時に皆が自覚したのは
「原発は何かあると制御が出来ない」
と言う事だったのかも、と思う。放射能を撒き散らす、と言うよりも、その事が恐ろしかったのではないか、と。
「原発と、あれ(振動ピアノ)を比べるなんて」と笑っていたギタリストがいたんだが、例えば自分のギターが得体の知れない音を出し続けていて、電源を抜いても音が止まらない、と言う状態になると多分、不安になると思うんだよな。
其れと私はピアニストではない。
だからこそ、こう言うシステムを考えちゃうのかもしれないが、ピアノに人生を捧げてきた人にとってピアノの『機械性』を露見させるシステムは嫌かもなぁと思った。と言うかピアノの人は一寸、
「変な違和感」
と言う表情だったし。私だって自分のトランペットが勝手に鳴り始めて、しかも音が止まらない。そして「制御不可能」と言うのは嫌だしなぁ。
実は『制御不可能トランペット』と言うのも一度だけ作った。
『ダブル・リード付きトランペット』
である。オーボエで使うダブル・リードを管に突っ込んで吹くのだが、音列の制御は不可。ピストンなどで多少の変化は可能だが、『制御』と言う意味では無理だった。
只、リードが音速で駄目になるのと(意外と値段が高い)、体力的に結構、辛いのと、
用途がない
ので、今はやってないが。
後半はTPを吹いた。
「やっぱり制御出来るのって便利やねぇ」
と思った。妙な事を再確認した夜だった。