皆様へお願いがあるのです。
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前略
「お前は30歳まで生きられない、と言う気がする」
と高校時代、よく言われておりました。実際、何度も生命の危機には遭遇しましたが不思議と生きています。
先日、自宅に『エホバの証人』が来て「人間が生きる意味とは何だと思います?」と聞かれて「生きている意味なんてないでしょう。理想としては野良犬みたいに生きる事でしょうね。そうは行かないのが人間の面倒臭さでしょう」と答えたのですが、野良犬にしろ人間にしろ『生きる』だけでも実は精一杯。
欠陥人間である私が生きている事も思えば奇跡みたいなものです。
あと、数時間で36歳になります。
30歳まで生きられないはずだった私が6年も長生きしています。
全て皆様のおかげです。私はいつも皆様に生かされている。私は皆様が居なければ死んでいます。
毎日、毎日、助けられています。
皆様、本当に有難うございます。私は何とか生きています。本当に有難うございます。
35歳の誕生日は高知県の山岳地帯で迎えました。36歳の誕生日は埼玉県の最果ての地で迎えています。
どうも『都内』で誕生日を迎えられないようです。
35歳から今日まで。
NYで小規模なツアーをやり、東京で演奏し、韓国で小規模なツアーをやり。言葉も風習も判らない場所を25kgの機材とトランペットを抱えて行わせて頂きました。特に韓国ではトイレの習慣が日本とは可也、違った為、驚きました。
海外に行った理由は色々とあります。
私は役立たずな人間です。トランペットがなかったら之ほど迷惑な人間はいないと思います。
118回も転職しているのですが、それにしても118社と会社の関係者に途方もない迷惑をかけているのですから最悪です。社会人としては「どうしようもない」どころか「害」そのもの。
私が人様に何か与えられるとすれば『音楽』だけです。
仕事や生産、経済と言うモノは全く駄目ですが『音楽』だけには誠意をもって尽くせるから。
しかし、皆様に提供している私の音楽がどう言うモノなのか?
私の音楽は実は東京ローカルと言うか、単に『SDLX』『BULLETS』と言う場所のブランドなのか?
私は、私が皆様に与えたいモノを本当に与えられているのか?
それだけではないですが、それも理由。
明確にはなりませんが少なくとも『全く駄目』ではない事は判りました。
ただ、当初は『全く駄目』だった私が『全く駄目、ではない』になる為には皆様、と言う存在が10割です。
若い頃は「一人で生きていくさ!」「駄目になったら死んでやらぁ!」と豪語していましたが、三十路を過ぎると、自分と言う存在が皆様の助けと愛情と優しさと厳しさの中でしか有り得ない事を思います。
本当に皆様、私を生かせてくれて有難うございます。
誕生日には誕生日プレゼントと言うものがあります。此処で皆様にお願いがあります。
大切な人に「あなたが大切だ」と言ってください。
好きな異性には「愛している」と言ってください。
仕事をしている方は残業をせずに帰宅してくだい。
美味しいモノを食べてください。
お酒が呑める方は美味しいお酒を呑んでください。
音楽が好きな方は一番、好きなCD(またはLP)を聴いてください。
絵画が好きな方は一番、好きな絵を見てください。
映画が好きな方は一番、好きな映画を1シーンでも良いから見てください。
音楽を演奏する方は自分の為に素敵な音を奏でてください。
窓の外から見える空を眺めてください。
季節が変わる時間の空気を沢山、吸ってください。
鈴虫のラブソングに耳を傾けてください。
野良猫達の求愛を邪魔しないで下さい。
政治に、国に怒っている方は今日だけは政治や国ではなく『自分』と言う国を愛してください。どの
道、政治なんて腐っているのですから、腐った部分から目を逸らし、休む時間も必要です。
『大切』と言う言葉はキリスト教の牧師が作ったそうで。『愛』と言う言葉は恥ずかしいから言えない。じゃあ、って事で『大切』と言う言葉に置き換えたそうです。
私は皆様を大切に思っています。愛してます。
私のフレンドにはアメリカ人、韓国人、日本人、無心論者、政治運動家、精神的に不安定な人、仕事をしている方、無職の方、結婚している人、独身の人、寂しい人、楽しい人、いろいろな人がいます。
皆様の全てを私は愛しています。若干、面倒だなぁと思う事もありますが、私にとって、とても、とても大切な人です。
皆様、糞面倒な私ではありますが、これからも宜しくお願いいたします。
黒木一隆
兵庫県神戸市産まれ
福岡県北九州市小倉育ち
現住所は東京都杉並区。
36歳
O型
乙女座
身長160cm
体重56kg
職業:無職
好きな言葉は
『なんとか、なる』
あらあらかしこ云々。
トランペットを吹いています。『ミシシッピニオイガメ』と言う亀を飼っています。曲も作ります。『KO.DO.NA』と言うユニットをやっています。ジャンルは人に言わせると『音響』なんだそうで。 http://kodona.web.fc2.com/ CDR『KO.DO.NA:小人の科学』 高円寺『円盤』 中野『タコシェ』 江古田『フライング・ティーポット』 で細々と販売しています。または非オンライン・レーベル『Musical for Kitchen Records』からDL出来ます(DL無料)。 http://mfk.blog.drecom.jp/archive/9 最近、もう一枚出しました。ルクセンブルグの「soundzfromnowhere」と言うネットレーベルから音源が出ました。 http://www.soundzfromnowhere.com/ デンマークからCDがリリースされました。 http://kodona.web.fc2.com/btn/compactdisc.html
2013年9月4日水曜日
「美しい ending」
思えば古い付き合いである門眞妙の個展に行ってきた。
■ 2013年8月30日(金)~9月18日(水) 12:00~20:00 (最終日~17:00) ※木曜日休廊
■ 門眞妙個展
■ 「美しい ending」
http://www.gankagarou.com/sche/201308monmatae.html
そう言えば彼女の初めての個展に私は足を運んでいる。2009年らしい。
当時の事を日記に書いているが、作品よりも彼女の内面を垣間見たような気がして、其処にだけ「ふーむ」と思っただけだった。
確か、まだ美大の学生だったはずである。
それから5年。
諸所の事情があり彼女の個展には行っていなかった。久し振りに観る個展。
画廊に入り最初に受けた感情は
『ショッキング』
『衝撃』
だった。作品の前で立ち竦んでしまう程だった。そのクオリティと完成度の高さに愕然・唖然とした。
その次に嫉妬すら覚えた。
其の位、彼女の作品のクオリティは高かった。
私は音楽をやっているが諸所の事情でソロとして演奏を始めるのが遅かった。『KO.DO.NA』の最初のライブは27~28歳だったはずである。其れまで何していたか?って言えば何もしていないに等しい。友人のライブに参加させて貰ったり、と言う程度である。
だから彼女の27歳と、私の27歳を比べる事は出来ないのだが、矢張り「修練してきた」と言う部分での嫉妬心と言うのは大きい。
創作が年月を得て完成度が高まっていく。そのスタート地点からして私は遅かった。彼女は早かった、と言う部分で。
其れと自分が『音楽』である事への落胆、と言うか。
彼女は絵画だ。で、『視覚』と言うのは可也、強い。人間の感覚で
1:視覚
2:嗅覚
3:味覚
は甲乙付けがたいTOP3だ。だが『聴覚』は可也、下になる。TOP3に比べれば可也、下だ。
「あらゆる芸術の中で音楽だけが時間軸の中で自由になれる唯一の手段なんだ」
とダモ鈴木は言うが、私はそうは思わない。
音楽は多分、漫画や演劇に近い。
その時間を追わないと物事がわからない、と言うか。もっと言えば音楽は
①紙芝居
②漫画
③パラパラ漫画
④演劇
⑤映画
と言ったモノに近いのではないか?と。紙芝居の1ページだけを見せられても困るし、映画を一瞬だけ見せられても意味が無い。
音楽も同じでルイ・アームストロングがどんなに偉大だろうと3秒程度では判りにくい。
音楽は此方側の自由を奪う。最初から最後まで聴いて下さいな、と言うのが音楽。最初辺りで帰ってしまう人もいるが、其れは演奏者側の不手際である。
で、45分とか25分とか、一定の時間を演奏者側と観客側で共有する、と言えば聴こえは良いが、平たく言えば『其の時間の拘束』なワケで。
絵画は違う。
此方側の自由を余り奪わない。クリスチャン・ラッセンにせよ、ゴッホにせよ、クラナッハにせよ、一瞬で観る事も、長時間掛けて見ることも可能で。
尚且つ、保存が出来る。だからラスコー洞窟の4万年前の壁画も観る事が出来る。
だが、音楽の保存は譜面が登場するのも可也、後年。しかも初期の譜面は「再現する為」と言うよりは演奏の為のヒントでしかなく、「其れを演奏できる人のメモ帳程度」でしかない。
音楽メディア自体の登場が20世紀からで、其れまでは譜面か『言い伝え』程度である。
音楽の脆弱さ、と言うのは他ジャンルと接すると嫌になるほど判る。其の作品のクオリティが高ければ、高いほどウンザリする。
音はストップボタン、または演奏するのを止めれば消えてしまう。風みたいなモンだ。
門眞妙さんは27歳。恐らく絶頂期に向っている処なんだろうなぁと思う。年齢的にも体力的にもそう言う時期だと思う。
女性の27歳と、男性の27歳は可也、違うから簡単に比較は出来ないが多分、一番、良い仕事が出来る時期ってのは、男女ともにそんなに変わらない気がする。
此れからも此方が愕然とするような作品を残し続けるだろう。
観なかった奴は人生を大幅に損していると思っても良いと思う。
諸所の事情があり、自分が20代後半の時に作った曲を聴き直した。「若気の至り」と思っていて、余り聴きたくなかったのだが、聴いてみると悪くない。
「あれ?俺、意外と出来ている・・・」
と思った。と言うか当時と今のコンセプトやアプローチの仕方等は余り変わってない。録音方法が違うだけで、そんなに悪くない。思えば再度、取り組みたい曲もある。
ライブでは殆ど理解されなかったけども、其れは『録音』と言う事だけに重点を当てていたからだと思う。ライブで再現するような曲は多くなかった。
確か、其の作品を作ったのも28歳の頃だった気がする。遅いスタートだ。
「頑張らなくっちゃね・・・」
と思った。最近は音楽を聴いて「俺も!」とは余り思わなくなってしまった。寧ろ他ジャンルのモノに触発される事が多い。
良い刺激だった。
■ 2013年8月30日(金)~9月18日(水) 12:00~20:00 (最終日~17:00) ※木曜日休廊
■ 門眞妙個展
■ 「美しい ending」
http://www.gankagarou.com/sche/201308monmatae.html
そう言えば彼女の初めての個展に私は足を運んでいる。2009年らしい。
当時の事を日記に書いているが、作品よりも彼女の内面を垣間見たような気がして、其処にだけ「ふーむ」と思っただけだった。
確か、まだ美大の学生だったはずである。
それから5年。
諸所の事情があり彼女の個展には行っていなかった。久し振りに観る個展。
画廊に入り最初に受けた感情は
『ショッキング』
『衝撃』
だった。作品の前で立ち竦んでしまう程だった。そのクオリティと完成度の高さに愕然・唖然とした。
その次に嫉妬すら覚えた。
其の位、彼女の作品のクオリティは高かった。
私は音楽をやっているが諸所の事情でソロとして演奏を始めるのが遅かった。『KO.DO.NA』の最初のライブは27~28歳だったはずである。其れまで何していたか?って言えば何もしていないに等しい。友人のライブに参加させて貰ったり、と言う程度である。
だから彼女の27歳と、私の27歳を比べる事は出来ないのだが、矢張り「修練してきた」と言う部分での嫉妬心と言うのは大きい。
創作が年月を得て完成度が高まっていく。そのスタート地点からして私は遅かった。彼女は早かった、と言う部分で。
其れと自分が『音楽』である事への落胆、と言うか。
彼女は絵画だ。で、『視覚』と言うのは可也、強い。人間の感覚で
1:視覚
2:嗅覚
3:味覚
は甲乙付けがたいTOP3だ。だが『聴覚』は可也、下になる。TOP3に比べれば可也、下だ。
「あらゆる芸術の中で音楽だけが時間軸の中で自由になれる唯一の手段なんだ」
とダモ鈴木は言うが、私はそうは思わない。
音楽は多分、漫画や演劇に近い。
その時間を追わないと物事がわからない、と言うか。もっと言えば音楽は
①紙芝居
②漫画
③パラパラ漫画
④演劇
⑤映画
と言ったモノに近いのではないか?と。紙芝居の1ページだけを見せられても困るし、映画を一瞬だけ見せられても意味が無い。
音楽も同じでルイ・アームストロングがどんなに偉大だろうと3秒程度では判りにくい。
音楽は此方側の自由を奪う。最初から最後まで聴いて下さいな、と言うのが音楽。最初辺りで帰ってしまう人もいるが、其れは演奏者側の不手際である。
で、45分とか25分とか、一定の時間を演奏者側と観客側で共有する、と言えば聴こえは良いが、平たく言えば『其の時間の拘束』なワケで。
絵画は違う。
此方側の自由を余り奪わない。クリスチャン・ラッセンにせよ、ゴッホにせよ、クラナッハにせよ、一瞬で観る事も、長時間掛けて見ることも可能で。
尚且つ、保存が出来る。だからラスコー洞窟の4万年前の壁画も観る事が出来る。
だが、音楽の保存は譜面が登場するのも可也、後年。しかも初期の譜面は「再現する為」と言うよりは演奏の為のヒントでしかなく、「其れを演奏できる人のメモ帳程度」でしかない。
音楽メディア自体の登場が20世紀からで、其れまでは譜面か『言い伝え』程度である。
音楽の脆弱さ、と言うのは他ジャンルと接すると嫌になるほど判る。其の作品のクオリティが高ければ、高いほどウンザリする。
音はストップボタン、または演奏するのを止めれば消えてしまう。風みたいなモンだ。
門眞妙さんは27歳。恐らく絶頂期に向っている処なんだろうなぁと思う。年齢的にも体力的にもそう言う時期だと思う。
女性の27歳と、男性の27歳は可也、違うから簡単に比較は出来ないが多分、一番、良い仕事が出来る時期ってのは、男女ともにそんなに変わらない気がする。
此れからも此方が愕然とするような作品を残し続けるだろう。
観なかった奴は人生を大幅に損していると思っても良いと思う。
諸所の事情があり、自分が20代後半の時に作った曲を聴き直した。「若気の至り」と思っていて、余り聴きたくなかったのだが、聴いてみると悪くない。
「あれ?俺、意外と出来ている・・・」
と思った。と言うか当時と今のコンセプトやアプローチの仕方等は余り変わってない。録音方法が違うだけで、そんなに悪くない。思えば再度、取り組みたい曲もある。
ライブでは殆ど理解されなかったけども、其れは『録音』と言う事だけに重点を当てていたからだと思う。ライブで再現するような曲は多くなかった。
確か、其の作品を作ったのも28歳の頃だった気がする。遅いスタートだ。
「頑張らなくっちゃね・・・」
と思った。最近は音楽を聴いて「俺も!」とは余り思わなくなってしまった。寧ろ他ジャンルのモノに触発される事が多い。
良い刺激だった。