純粋に信仰心で読むと堅苦しい書物なんだろうが、テキトーにダラダラと読んでいると面白い箇所が出てくる。
2週間前に飯を食いながら読みなおしてみると「あれ?」と言う箇所があった。
ナザレのキリストは布教中に何度も死者を蘇らせている。
①会堂長ヤイロの娘を生き返らせる(マルコ 5:21)
②ナインという町の門に近づくと、ある未亡人の一人息子が死んで棺が担ぎ出されるのを見る。イエスはこの母親を見て憐れに思い、「もう泣かなくてもよい」と告げ、棺に手を触れ、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言うと死人が起き上がってものを言い始める。(ルカ 7:11)
③ベタニヤでイエスは涙を流しラザロを生き返らせる。 (ヨハネ 11:1)
この部分である。
キリストの活動の布教する際のテクニックとして、ある程度(桁外れの?)の医学的な知識があったかと思われる。
聖書では「触れただけで治る」みたいなモノがあるのだが、何しろ2000年以上前の書物なので実は医術が得意だったのではないか?と言う気もしてくる。
勿論、キリストと言う人物に不思議な力があった事は確かだろうが、ゲームの『チート・コード』みたいに「なんでもかんでも」と言うワケではないだろう。
それにキリスト教が難解でストイックさではハードコア過ぎる内容なのに庶民の支持を得たのは
『病気などの祈祷が無料』
『効果てきめん!』
の2点である。しかも、食事付き。
其の頃にも病気はあって、其れは祈祷師が彼是と呪文を唱えて治るのか、治らないのか。しかも、高額だった。
だが、キリストのコスパの良さは最強である。
何しろ無料だ。
中には香油で髪を洗った女性もいるけど、こいつはキリストのカノジョだからな。
じゃあ、その庶民達がその後もキリストを信仰していたか?っつーと、誰も信仰してない(キリスト教がヨーロッパで定着するのは11世紀〜13世紀頃)。
私の見解ではキリストの言葉や、性格、その能力や宗教的狭義を直系の弟子の中で唯一、理解し、信じていたのはユダだけだ。
12使徒達はキリストの命令で布教を「ソロ」で行う事もあり『奇跡』と言う名の医療知識を授けられたのではないか?と思う。
キリスト自身が持つ超能力みたいなモノを誰もが受け継げるワケではない。
『キリスト=医学者』
と言うのは日本で言えば戦国時代に活躍した錬金術師である『パラケルスス』が
『賢者の石』
を多用した、と言うが実はペニシリンだった説ってのがあってだ。ペニシリンと言うか『世界で初めて抗生物質』を使った、と言うのが大きい(医学も科学も錬金術の一種だ)。
だが、キリストの『最強無駄伝説』は『死体を蘇らせた』だろう。
何しろ、此れほど『無意味』で『意味が分からない』奇跡は此れしかねーんだわ!。
其のくせ、「なんで貧乏人ほど奇跡を見たがるのかねぇ。俺はマジシャンじゃねぇよ」とボヤいている。
だが、死体を(クソ暑い中東で死んだので4日目で腐って、死ぬほど臭くなっている死体)蘇らせる。
此れは可成り、重要な部分なんだよな。
此れは恐らくキリストと言う『人物』の『神への挑戦状』と言うか唯一の『反逆者』なんだよな。
何故なら人の死、破壊、もろもろは予め神が決めている事だからキリストに死者を蘇らせる権利はないのである。
生前のキリストは『神の使者』であったかも知れないが神ではない。聖書には
「私が来たのは聖書の教えを完璧にするため」
と聖書完全攻略のためである。だから、あくまでも『預言者』どまりで、もっと言えば『牧師』みたいなもんである。
キリスト教以外にも、当時は旧約聖書(ユダヤ教)をベースとした宗教はゴマンとあっただろう。その多くは宗教団体と言うよりもテロリスト・グループだった可能性が高い(熱心党のシモンが良い例)。
だから、キリストと言う人は「数多くのグループの一人」でしかなかった。
で、死者復活ですよ。
此れが何がヤバイか、って言うと『死者を蘇らせる』と言うのは神から選ばれた人だけの、神だけが持つ特権なんだよな。
だから庶民を蘇らせる、ってのは『神の特権』を勝手に行使した事になる。
新約聖書を読めばキリスト自身は「俺は神だ」とは一度も言ってない。ユダヤの王とも言ってない。ただ、「神に使わされた」としか言ってない。
じゃあ、なんでキリストが人を勝手に蘇らせたのか?って考えると、此れも面倒なんだけども、どう考えてもキリスト自身の「神への疑心」「神への反抗」としか考えられない。
理由としてはキリスト自身は『書物』『文字』を残していない。キリスト教が本来、言葉だけの宗教であるにも関わらず、だ。
キリストが『何かを書いた』事は聖書では一度しか無い。だが、誰も「キリストが何を書いていたか」を記述していない(文字が読めない弟子が多かった可能性が高いが。文字と数学が出来たのは弟子の中でユダだけ)。
キリストは「神から遣わされた」事を疑う事はなかったが、キリストは『神の名前』を教えてもらってない可能性が高い。
神の名前は旧約聖書に少しだけ出るが『聖四文字』と言う『ヤハウェ』『ヤーフェ』『ヤハヴェ』である。
この神の名前は旧約聖書にはモーゼだけが知っている。だから、モーゼは『神に呼びかける』事が可能だった。
しかし、キリストは「名前を知らないから呼びかける事」が不可能なのである。だからこそ、磔になる前に
「主よ!私を見捨てるのですか!」
と嘆くのだが(多分、罵倒に近いんだろうが)もしも、神の名前を正確に言えたのであれば磔でも「無痛」とか色々と出来たはずなんだが(磔の刑って当時の処刑方法としては、最大の苦痛と、その苦痛が長続きする事で最強最悪の刑だった)、やっぱり痛い。
だから、キリストと『神』って緊張感がある関係性と言うか、距離を置かれている、と言うか。
その緊張関係の中でキリスト自身は
「じゃあ、俺も神の真似事をやってみるか」
「ほれ、俺でも出来るだろ?」
と言うか。
キリストは布教活動をやり始めた頃・・・もっと言えば幼年期から自分がどう生きて、どう死ぬのか分かっていた。
だから、苦行中の悪魔の誘惑へも悠々と断ることが可能だったはずで。
神の名の下に死ぬこと、フルボッコにされる事は喜ばし事である、と言うのがキリストだが、その第一号が自分なのである。
遠藤周作の『沈黙~サイレンス』や坂口安吾の『イノチガケ-ヨワン・シローテの殉教ー』を読めば
『神の名による大々的な死』
が、布教においてどれだけ効果的か、または効果的だったか分かるが、キリストは第一号だから、其れがどうなるのか分からない。
しかも、磔の刑って言うロシアのKGBでも裸足で逃げ出す凄い処刑方法なのである(何しろ死ぬのに長くて1週間、早くて3~4日かかる。磔されると、まずは関節の脱臼って言う嫌なスタート)。
それが前提としての「わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか!」なんだよな。
この言葉はキリストが盲目的に神を信じていたワケではない、と言う事を暗に示している。
『神への反逆者』
と言う事で言えば、キリストと言う人は『ヨブ記』における『ヨブ』自身とも言える。だが、ヨブと違ってキリストには生きているに『良い目』に合うことがないのである(2000年前の30歳が20代のカノジョが出来る、と言うリア充な時間はあるが)。
ヨブが神へ恨みつらみを言うように、キリストだって、そりゃ言いてぇさ。
恐らくキリストが「神」の存在を確信するのは其の直後だろうな。死ぬ直前に
「・・・終わった・・・」
と言うのだが、其の際に漸く自分が与えられた役目が終わる(神「おつかれーっす!」)事を知る、と言うか。
新約聖書は『聖人キリスト』ではなく、やはり『ナザレのキリスト』の物語なんだよな。
キリストは聖人君子でも、人一倍、強い人でもなくて、其のへんのオッサン(35歳)と変わらないんだよな。