2018年7月31日火曜日

Queen Brass "ZORRO" ModelⅡ

ついに新しいトランペットを買った。







「ついに買ってしまったか・・・」

と未だに緊張している。新しい楽器を買う、と言うことは未来への投資であり、個人的な革命である。
現状の楽器に不満があるからこそ、新しい楽器を買うわけだし。

エレキ・ギター奏者は違うギターを何本も揃えるが私は一個で十分である。トランペットと言う楽器は

『マウスピースで7~8割』

『本体が2~3割』

と言う塩梅で音色が決まる。マイルス・デイビスの音はダークだが、マーチンと言う現状では数十万円以上の楽器だから、あの音になったのではなくマウスピースに依る処が大きい。

ウィントン・マリサリスの音は時期によって違うが、デビューはBach。次はシルキーだったかな。
Bachでデビューして、シルキーを使う、と言うことはミュート・ビートの『こだま和文』も同じである。
だが、二人とも音は違う。
使っているマウスピースの関係だと思う。
あと、ミュート・ビートの『こだま和文』はミュート・ビート時代は思いの外、音色もテクニックも良くない。
っつーか、全般的に良くないのだが、80年代の金管楽器はああ言う『力一杯に吹く』と言うのがスタンダードだったんだと思う。
まぁ、トランペット演奏のスタンダードは全身全霊で吹くのがデフォだが。





新しいトランペットを買おう、と思ったのは実は下らない理由である。


BESSONと言うフランスのトランペットを使っていたのだが、買った2週間後に落下で凹んで修理。
数カ月後にも何かトラブルがあり修理。
ライブハウスで演奏して機材置き場に置いていたら対バンの誰か知らないがエフェクターケースを上に積まれて凹んで修理。


値段は中古なので高くはなかったが買った途端に『ケチ』がつき始めて「うーむ」と思った。

あと、BESSONは音は良いが見た目がスマートではない。其れまで使っていたYAMAHAは見た目がスマートだった。

『年上の女』

と言う感じで、吹きこなせないのは俺のテクニック不足であって楽器の問題ではない、と言う感じがした。
実際には楽器の問題だったのだが(YAMAHAのTPは思えば非常に癖が強い。演奏方法を間違えなければ素晴らしい音だが)。YAMAHAしか知らないので13年間、金管楽器の店ですら「これほど使い込まれた、このモデルを見るのは初めてです・・・!」と無意味なビンテージになるほど頑張ったもんなぁ。
でも、YAMAHA YTR-3325sは銘器だと思う。




BESSONは『兄弟分』と言うか、買ってから直ぐに減価償却が出来たし、少なくとも楽器のポテンシャルを100%は引き出せた。

100%を引き出せたのであれば、「其れが限界」と言うか。あと、『ケチがついた』と言う処である。
私の感情なんざぁ、その程度である。



で、欲しかった『Queen Brass』を買いに行った。



人気商品って事もあるし、メーカーが別の路線を展開したいみたいで、何故か『ヒノテル・モデル』を売っている。
私が欲しかったのは『Queen Brass C-line』と言うモノ。此れの入荷の為に1ヶ月待った。


購入先はジョイブラスと言う蒲田(ゴジラに破壊された街)にある金管楽器専門店である。
大久保の『大久保管楽器』でも良かったのだが、実は『ジョイブラス』は私の金管楽器生活の決定打を売ってくれた店である。

当時、所有していたTPが『YAMAHA YTR-3325s』と言うスチューデント・モデルだったのだが、大抵の店で所有楽器を言うと

「YAMAHAかよwww」

と言う塩対応だった。何故、YAMAHAが露骨に嫌われなきゃならんのか理由は分からないが(日本人の舶来信仰らしが)、ジョイブラスだけは嫌悪感なんてなかった。

当時は中野富士見町に店があり、まだTPを始めたばかりでマウスピースはBach7Cと言う標準的なモノを使っていたので高音が出ない。

実際にはハイトーンを操れるのは数年では無理なんだけど(其れにハイトーンは余り役に立つ音域でもない)

「高い音が出したいんです」

と言う超初心者が言う事を言うと、店長と言うか社長(とても紳士的な人だった)が「ふむふむ」」と言って、何本かマウスピースを出してきた。

その一本がアイルリッヒと言う千葉県の個人メーカーのモノで、予算を遥かに超える金額だったが、そのマウスピースであらゆる事が可能になった。

あの時、あの日にアイルリッヒと言うメーカーのマウスピースをGETしなかったら私は楽器を止めていたかも知れない。
何しろトランペットなんて『労多く、実少ない』と言う楽器である。

あらゆる楽器の中で、此れほど『ハイ・リスク/リーリターン』な楽器はトランペットだけなんじゃないか?と思う。


その頃は『舶来楽器シアズ』と言う店で、家が近所だったのでオイルを買いに行ったりしていた。だが、店が蒲田に移転してから行ってなかった。


京急線なんて空港に行く時にしか行かないし、殆ど川崎市だし。


舶来楽器シアズの頃は金管楽器でオイルだとか、品揃えは凄かったし、舶来楽器シアズじゃないと買えないモノ(オイルなど)もあったのだが。

舶来楽器シアズが移転してから『スウィング・ガールズ』がヒットし、『響け!ユーフォニアム』もヒットし、管楽器人口が棚から牡丹餅的に増えたので『管楽器』と言うモノの取り扱いが島村楽器でも多くなった事もあるけども。



でも、其れは2004年より前の話しである。


その間にYMAHAのトランペットは13年間の酷使のためメーカーですら修理が出来ないほどになり(デンマークの店に見せたらビンテージ楽器と間違えられた)、マウスピースを紛失したので新調。
BESSONを買って、ケチがついて。


あと、Queen Brassはコスト・パフォーマンスが凄いんだけど、俺にとっては高額な買い物なんだよな。
正規雇用労働者でもないし、GNPも低いし。
あと、やっぱり10万円と言う金額は大きい。


で、1年ほど貯金して漸く購入。

あと、買おうと思ったのは「そろそろトランペッターとして自覚を持つべきでは?」と思ったのも大きいかも。

エフェクトを多用するから「楽器なんざぁ鳴れば良いんだよ」と思っていたのだが、流石に本体の音色や色々な事が気になり始めた。
以前はエフェクターを多用するから気にならなかった。正直、コルネットとかC管TPでもボロでも良かったし、YAMAHAを13年も愛用していたのは、愛着の問題であって、ピッチとか気にしていなかった。

で、10万近い楽器を買う、と言うのは

『トランペット奏者』

として、ちゃんとしなきゃなぁ、って言う。



で、お金が溜まったのでジョイブラスに電話して入荷を待つこと一ヶ月。


漸く入荷されたので店に行く。



で、嘗てと同じように紳士的と言うかジェントルな社長が作った店、と言うか緊張感はあるけどもOPENな店である。

電話していたので直ぐに試奏。


『Queen Bras/C-line』に飛びついて吹いてみる。


と!こ!ろ!が!


この『C-line』はハイトーンは爆発的と言うか、そのハイトーンの爆発的な流出量は福島第一原子力発電所の放射能だとか中国天津市大爆発事故のように出る。

(Queen Bras C-lineによって大量に放出されるハイトーン)



だが、コントロールが難しい・・・と言うか『暴れる馬』と言う異名がある程なので、どんなものか?と思っていたら本当に暴れ馬。
まぁ、其れは頑張ってコントロールすれば良い。

だが、音色が『明るい』のである。ホンっと明るい。軽い、と言うか。軽い音も良いのだけど(改造する事で改善は出来るし)何だかなぁ・・・と思って、C-lineの元のモデルである『Queen brass Zorro』と言う素っ気無いモデル名のモノを試したら、此れが思いの外、素晴らしい。

コントロールも抜群だし、音も落ち着いている(音色なんざぁ聴いてる人には分からないんだけど)。

其れに、ルックスが良い。C-lineもルックスは良いのだが(って言うか2つの違いは微差である)、手に持った時にフィットする。
吸い付いてくるようなフィット感。

試奏していると、此方のイマジネーションをガンガン、引っ張りだしてくる。

「え?俺ってこんなに吹きまくれる奴だったの?」

と思うほど、馬鹿みたいにフレーズや新しい音色が飛び出てくる。唇がバテようが、夏で身体が疲れていようと、全く関係なしに大量のフレーズ、旋律、リフ、音色が食中毒の際のゲロとか、下痢とか、頸動脈を切断したときの血飛沫とか、別れ際の恋人同士の罵倒ように出てくる。

ピストンもまるで羽のよう。



愕然とした。



C-lineを買おうと思い貯金していたのに、違う楽器が良くなった・・・と言うのは何と言うか、

『恋人がいるのに、好きな人が出来てしまった』

『妻がいるのに、恋人が出来てしまった』

『定年間近だと言うのに、娘のような年齢の女性と恋に落ちた』

『厳格なクリスチャンとして修道院にいたのに、突然、聖書の矛盾点に気がついた』

『生まれも育ちもギャングと言うミュージシャンのファンだったのに、実は生まれも育ちも大金持ちと言う事を知った』

『処女だと思って、抱いてみたら結構なテクニシャンだった』

『子供だと思って喧嘩を売ったら、実は極真空手ジュニア部のTOPだった』

『デスメタルのCDを買ったら、アンビエントだった』

『オナニーは身体に悪い、と言う情報を知った』

『憧れのミュージシャンと共演してみたら、意外と下手だった』

『時計の針がおかしくて、3時間も時間を間違えた』

『終電間際に降りる駅を間違えた』

『忍者になりたかったのに、実は忍者は実在しなかった事を知った』

『長年、ジャイアント馬場のファンだったのに、実はジャイアント馬場は新日本プロレス時代には既に全盛期を過ぎており、結構、弱かった事を知った』

『空手バカ一代で極真空手に入ったが、大山倍達は石を割ってない事を知った』

『プロレスラー・スーパースター列伝の全てを信じていた』

『プロレスの技は実戦では全く使えない事を知った』

『全てはユダヤ資本家の陰謀であることを知った』

『全ては民主党の陰謀である事を知った』

『全ては在日朝鮮人のよる特権的な陰謀を知った』

『全てはフリーメイソンの陰謀である事を知った』

『戦艦大和が好きで、何台もプラモデルを作ったが、最近になって戦果が皆無だった事を知った』

『長年、熟女好きだったのに、気がついたらAKB48の握手会で勃起している』

『長年、AKB48のファンだったのに、気がついたら叶姉妹のファンになっていた』

『タイガーマスクの正体が佐山サトルであることに気がついた』

『遊びでSEXしてみたら、思いの外、相性が良い』

『結婚して家を買った途端に学生時代が懐かしくなる』

『同級生の頭が禿て来ているor白髪を発見する』

『猫だと思って飼っていたら、ピューマの子供だった』



とか、無意味な罪悪感が出てくる。


「でも!でも!でも・・!俺はC-lineを買う為に1年も貯金したんじゃないのか?!」

と悶々とする。


で、優柔不断なので、1時間くらい吹きまくって、やっぱり悶々としてしまい、埒があかないし、仕方がないので店員さんに聞いてもらって「どうでしょう?」とか、アホな事をして(ジョイブラスの女性店員さん、スミマセン)2時間も悩んで女性店員さんに「KO.DO.NAさんには、モデルⅡがあっているみたいですね」と言われて決断。
女性の意見は常に正しい事は歴史が証明している。嘘だと思ったら自分の母親や祖母の小言を思い出せば良い。男性たるモノ、女性の小言の『理路整然っぷり』『反論の余地なし』を痛感出来るはずだ。




で、ついに買ってしまった・・・と言う恐ろしさと恍惚で、暑さも気にならない。


帰宅して吹いてみる。

帰宅して眺めるが、金属加工と言うジャンルで「これ程、美しい造形があるか?!」と思う。そのままでは音が軽いし、抵抗感が少なすぎるので改造した。







トランペットを調教するのではない。私が調教されるんだろうな、と思った。

吹いてみると、やはり色々な音が出てくる。「嗚呼、此れは俺が出したかったフレーズだ・・・!」と思う。
まるで魔法のような楽器だ。





2018年7月27日金曜日

生産率0.000001%

杉田水脈と言う自民党議員が新潮45において

《例えば、子育て支援や子供ができないカップルへの不妊治療に税金を使うのであれば、少子化対策のためにお金を使うという大義名分があります。しかし、LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供をつくらない、つまり「生産性」がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか。にもかかわらず、行政がLGBTに関する条例や要綱を発表するたびにもてやはすマスコミがいるから、政治家が人気取り政策になると勘違いしてしまうのです。》

と発言して問題になっている。


此れについて

「人間に『生産性』だけを求めるのか」
「LGBTBを馬鹿にしているのか」
「生産性がない人間は死ねと言うのか」

と色々な御意見がfacebookにせよ、ツイッターにせよ、正義感を持った正しい人々が逆鱗している。



私も生産性が非常に低い人間なので「ふざけるな」と思う。だけども、こう言った事を瞬間湯沸かし器的に激怒して良いのだろうか?と思う。

この怒りは杉田水脈と言う特定人物だけが所有する思想なのか?。




ちょっと、考えたいのだけどもさ。



この人は『みんなの党』出身だけど、事実上、『日本維新の会』からデビューしてんだよな。
その後、自民党議員となっている。

この来歴だけで分かると思うのだけども『日本維新の会(ex大阪維新の会)』の成り立ちから考えないと不味い。

大阪維新の会が、常に馬鹿げた事を発言していたのに、支持されてきたのは『橋下徹』と言うカリスマである。

この『橋下徹』は都民は「クソ」と言う評価だけども『大阪府』とは言え『東京以外』である『地方時自治体』の代弁者だった、と思う。

311で露見したはずなんだけども(何故か皆、忘れているよね)東京都と言う特殊な都市は地方を搾取する事だけで成り立っている。
その地方時自治体には雀の涙のような公共事業を渡すだけで、江戸時代の大名よりも激しい搾取を地方時自治体から行っている。

此れが大前提である。

地方の風景がぶっ壊れるのは、地方時自治体が馬鹿だから、って言うワケではなく、ぶっ壊すのは飽く迄も『東京都』である。


そう言った状態に戦前から戦後、今に至るまで我慢していたのが地方の人達であり、橋下徹と言う人物は(物凄く的外れだったが)、その中央集権にNONを突きつけた(ポーズだが)ってのが大きい。

だから、橋下徹と言うのは地方在住者の代弁者だったし、その彼が設立した『維新の会』も、そう言うモノである。


だから、何が言いたいか?って言うと杉田水脈の「生産性がない奴がのさばるな」と言うのは、杉田水脈だけが主張している事ではなく、私達が余り出会わない地方在住者達の『一般論』となる。

LGBTBと言う運動が盛り上がっていて、稲田朋美と言う元防衛大臣もパレードに参加したりしている。

此れは非常に『自民党的』なんだよな。

稲田朋美がLGBTBを人権の問題だから!と叫ぶ背景には、其れを味方にすれば、または其れを活用すれば国益として良い(儲かる)からであって、人権なんぞはクソの足しにもならん(日本と言う国が人権を尊重した事は有史以来、一度もない)。


言ってしまえば自民党が考える事なんざぁ、そんなもんである。


其れに対して『身も蓋もない』事を言ったのが杉田水脈と言うだけである。長期的な投資ではなく、短期的な投資に対してリターンがない!と言う発想だと思う。

稲田朋美はLGBTBをプッシュするのは腐っても大臣なので長期的なリターンを考えてである。
其れに対して田舎者である杉田水脈の考えは短期的なリターンである。


だから、二人共、『生産性』と言うモノを念頭に置いていて、其れに対してのアティチュードが違う、と言うか。



正直に言えば、LGBTBや同性婚が認められる日は、遥かなる甲子園と言うか、地球の次の氷河期が終わる頃じゃないか?と思う。

何故かって言えば日本と言う国は有史以来、『多様性』を認めた事がない。

探れば縄文時代だとか弥生時代だとか古墳時代は違ったかも知れないが(とは言っても弥生時代は内乱の時代だが)、取り敢えず『多様性』を認めた事はない。

此れは農耕社会の成立や、武家社会の成立が関係しているのかも知れないが、農耕社会にも武家社会にも『多様性』は不要だ。

其処からハミ出した人達が、どうしていたのかは分からない。

少なくとも、自分達が義務教育を受けていた施設を思い出せば良い。あの施設で『多様性』が認められる事があっただろうか?

マルクス経済学にせよ、ケインズ経済学にせよ、『教育』と言うものは産業、効率的な生産性の為に存在する資本主義にせよ、共産主義にせよ、生産性の延長なのである。




あと、LGBTBをプッシュして「多様性が認められる」と喜ぶ人もいるけど、LGBTBをプッシュしている人達は、何かの小さな切欠さえあればLGBTBを殺しに来る人達である。

日本人にとって『多様性』と言うのは、それだけアレルギーなのだと思う。

例えば、だけど。

関東大震災の際に「朝鮮人が井戸に毒を入れた」と言う事で彼是とあった。朝鮮人部落と言うものがアチコチにあったし、彼等なりの暮らしがあったのだが、「彼等は違う」と言う内在していたアレルギーがあったんだと思う。

つい最近だと311にせよ、西日本豪雨で「中国人が酷いことをしている」と言うデマを流す人が多い。


だが、デマを流した人達はアジテーターだったんだろうか?
今で言う『インフルエンサー』だったのだろうか?


そうではない。


この国に住む人達の誰もが、そんな事を言い始める可能性があるのである。

そして杉田水脈の発言は『人権意識を持っています!』と言う人にすれば格好のエサであり、杉田水脈の発言は的を得ていないので、エサを撒いただけである。
そのエサに群がるのは如何なモノか?と思うのだけど、エサを食う前に考えるべき事は


『杉田水脈は日本国のマジョリティである』


と言う事だと思う。LGBTBが盛り上がろうと、BL漫画が盛り上がろうと、禁煙運動が盛り上がろうと、杉田水脈的な人達が日本の圧倒的多数なのである。

杉田水脈みたいな人は、世の動きでコロコロと意見を変える。

だから、杉田水脈がLGBTBマンセーになる可能性も高い。其れが長期的ではなく、中期的だとしてもリターンがあるのであれば。


俺は思うのだけど、音楽だとか演劇だとか大雑把に言えば『芸能』と言うモノの関わる人達は『多様性』を受け入れなければならないと思う。
バンド・メンバーが覚醒剤中毒とかだと困るが、其れが喫煙者、LGBTBX、その他、性癖や嗜好。

それらを受け入れる作業こそが作曲だったり、戯曲や演じたり、描いたり、書いたり、演奏だったり、ダンスだったり、デザインだったりするのではないか?と思う。



勿論、多様性を受け入れるのは難しい。


ただ、芸事に関わる人は(多分、だけど)その『多様性』があるからこそ、存在し得るワケで。

だからこそ、『杉田水脈的なるモノ』と戦わなければならないのではないか?と思う。其れは杉田水脈と言う個人ではなく、都心にもいるし、日本中の風呂場、台所、電柱、TUTAYA、コンビニ、ヤンキー、時計、石ころ。

多様性を受け入れない人達、環境、文化以外、日本にはない。

多様性を受け入れるのは本当に難しい。例えば長年、連れ添っている夫婦だって理解出来ない事があるだろうし、私自身も友人や家族の事は理解出来ない部分が沢山ある。

日本語と言うクソ面倒臭い、欠陥言語を母国語にしている事も関係しているんだろうけど。


LGBTBXに関しては男性は潜在的にホモだし長年、生きていて『同性』に惹かれた経験が皆無である男性は少ない。其れは女性もそうだと思う。
誰かが、誰かを愛する事に制限があることは宗教的にも道徳的にも認められてない。
誰もが、誰かを愛する権利はある。
其れを阻止することは法律上、違法だ(幸福追求権)。

だから、LGBTBXが云々と言う事自体がおかしいのだけど(当然の権利を主張しているだけだ)、其れをNONと言う人達は『法を犯している』ワケである。

犯罪者達の言う事に従う事自体が無茶苦茶だ。


障害者や高齢者、精神障害者はどうか?彼等・彼女達には生産性はない。


だが、私達は24時間フル稼働の工場で働いているワケではない。生産性だけで生きているワケではない。

『働くもの食うべからず』

と言う言葉は新約聖書から来た言葉だが、其れは『働ける能力があるにも関わらず』であり、病人や高齢者、障害者は含まれてない(新約聖書の時代だと病人や高齢者は直ぐに死んでいたと思うが)。

ってか新約聖書もイエス・キリストは30歳まで大工だったが、あとは無職だから「あれ?」って感じなんだが。


私の郷里:暗黒大陸『北九州市』では生活保護打ち切り餓死事件と言う凄まじい事件があった。

時代は小泉首相時代でハッキリと覚えているのだが、其の前に「日本が(嘗てに比べて)貧しくなったとは言え、餓死者はいない」と自民党議員が書いていたのだが、餓死者が出た。

俺は未だに「あの餓死者を殺したのは北九州市民全員だ」と思う。
それと同時に「あの餓死者は殺したのは日本国民全員」だと思う。
それと同時に「次の餓死者は我々だ」と思う。

ほっておけば日本国と言う国、それは地方時自治体を含む、この国は『多様性』を求める人達、其れは病人、LGBTBX、精神障害者、障害者、喫煙者、無職者、低学歴者を殺しに来る。

スラング的に「殺しに来る」と言っているのではなく、物理的に殺しに来ると思っている。


だから、自称でも他称でも良いのだけどアーティスト達が戦わなければならないのは時代だとか金銭ではなく、『杉田水脈的なるモノ』なんだと思う。


戦いなんだと思う。

2018年7月15日日曜日

空飛ぶ役者と、消える鳥

昨日、唐組の大先輩が店に来た。



其れで、唐組時代に御世話になった2人が亡くなった事を知った。
可也、ショックで、仕事を切り上げて帰ろうかと思ったほどだったのだが無理なので一人で悶々としていたら、同僚の20歳の男の子(コピーバンドでギター、勤怠悪し、発達障害っぽい)

『人生相談』

を持ち掛けてくる。その内容が無茶苦茶で

①女にモテたい
②バンドを続ければモテモテになるのだろうか?
③音楽一本で行く生活と成功の人生を選択するか?
④平凡な人生を選択するか?

と相談してくる。二十歳のバンドは『コピーバンド』であり、コピーバンドに成功も失敗もないし、客は高校時代の同級生だけである。

モテるとか、成功とか無縁の話である。

暑いし、ウザいし、ウンザリして

「成功、成功って言ってるけど、君にとっての『音楽で成功』って何を指すの?」

と聴いてみた。『成功』を矢鱈と連呼する辺は経済誌とかSIPA!的と言うか。音楽に失敗も成功もねーよ、と思うのだが。

5秒ほど考えたようで

「好きな事をしながら経済的に食える事です!」

と言う。しかし、「好きな事」と言うのは『コピーバンド』である。だが、目指しているのは『オアシス』と『クリープハイプ』とか『ワンオクロック』である。

私は『オアシス』も『クリープハイプ』『ワンオクロック』にも詳しくないが、少なくとも『コピーバンド』ではない、事は知っている。

因みに彼はグラフィックデザイナーにも成りたくて学校に通いたい、らしい。


人が喪に服したいのに、何で俺が第二次成長期のガキの『人生相談』』を受けなきゃならんのだ。


その日の仕事は、とても、とても、とても、疲れた。




堀本能礼さんは3年前に死んでいた。
知ったのは昨日だった。

堀本能礼さんには思い入れが凄い。


私は1997年に劇団唐組の公演を見ている。それで感激、感動、衝撃を受けて入団するのだが、その時に公演は唐十郎の傑作

秘密の花園

だった。今でも覚えている。

オープニングの堀本さんの台詞。

「・・・日暮里は・・・キャバレーの多い・・・街です・・・」

この呟きのような、詩から始まる抒情詩演劇は身体中が震えた。最高っての遥かに超えていた。


堀本さんは自己破壊的な演劇がメインだった。
ぶっ壊れるか、またはぶっ壊れているのか?と言う激しい演劇スタイルだったし、堀本さんのズングリムックリな体型と、小鳥の歌声のように伸びる声質が素晴らしかった。

自己破壊的な演劇をする人が、主人公を演じ、抑圧的な演技は官能的でもあり、二十歳の私は死ぬほど憧れた。

「あんな役者になりたい」

と思っていたし、「あんな役者になりたい」と思ったから唐組に入ったようなモンだったし、入団したら、何故か可愛がって貰った。

堀本さんの入団の経緯はチョット、複雑って事もあり先輩風を吹かす事も稀だった。

勿論、厳しい人だったのだが、唐組の先輩達は「厳しい」を遥かに超えた人達ばかりだったので(厳しい、と言うより『理不尽』)堀本さんに懐いている人は多かった。

私が座員だった頃の公演は『眠り草』と言う、唐組低迷期に相応しい「どうでも良い」作品だったのだが、其処でも堀本さんは爆発的な、破壊的な登場、演技を行い、最高だった。


退団した時。


私の部屋には風呂が無いので銭湯に行くのだが、堀本さんとは良く会っていた。退団したので会わせる顔がなかったのだが、ある日、夜中に高円寺の家に来た事があった。

「オマエが辞めた理由も分かるし、俺は其れを批判したりしない。だから、俺を見て逃げたりするなよ。オマエはオマエで、俺は俺だろ?」

と言ってくれた。嬉しかった。

その後に

「・・・で、悪ぃんだけどさ。ちょっと金がなくてな。300円、貸してくれないか?」

と言われて貸した。貸したが、返されてない。



堀本さんは伝説が多い人だった。

当時、唐組は停滞的で唐さんもヒットが出せなかったし、時代は平田オリザであって、テント芝居は過去の遺物になっていた。
客層も団塊世代が多く、数少ない若い客は「演劇の勉強をするために」と言う『過去の遺物』と言うか、

①原爆ドーム
②お城
③幕末時代の旅館
④博物館
⑤B-29
⑥ラスコー洞窟の壁画
⑦吉野ヶ里遺跡
⑧前方後円墳
⑨クフ王のピラミッド
⑩妙な地方の、妙な街の、妙に古い、意味不明なお祭

と言う感じだったと思う。

時代は平田オリザであり、ベケット再評価であり、一人芝居や小スケールの芝居がメインだった。
其処に『紅テント!』と言うのは、確かに無理があったと思う。

唐さんは「今こそテント芝居だ!」と言っていたけど、もしかしたら自分に言い聞かせていたのかも知れない。

それでも、堀本さんは世の事なんぞ関係なしに爆発的で、破壊的な芝居を続けていた。

世の流れの云々は関係なしに、堀本さんの演技は何時も最高だった。


「一体、どうやったら、あんな芝居が出来るんだろう・・・?」


と思っていた。

私の憧れの役者だった。ホンっと憧れた。真似が一切、出来ないのだから困った。盗めるなら盗むが、全くのオリジナルであり盗める部分が皆無と言うか、堀本さんにしか出来ない演技だった。

自己破壊的な演技だったけども、日常生活も自己破壊的だった。状況劇場、唐組は伝説的な人が多いのだが、堀本さんは別格だった。

もう、亡くなっているから書くのだけども堀本さんは一度、入団したのだが辛すぎて退団している。
だが、その後に唐さんの公演を見て「やっぱり俺には此れしか無い!」と思い、唐さんの自宅に行き、土下座して再入団が許された、と言う経歴の人だった。

そんなワケで唐さんに酒が入ると「コイツぁ(堀本さん)はいつ、逃げるか分からないからなぁ!」と嫌味を言われると

「も!も!も!申し訳御座いませんっ!」

と額から出血するほどの土下座をし続けるのが常だったらしい。

あと、唐さんの元に、まぁ偉いヒトから『伊勢海老』が3匹送られてきた。
それを唐さんの家に届ける任務を堀本さんが請け負った。

自転車で伊勢海老を確認するために蓋を開けると3匹の伊勢海老が2匹しかいない!
其処で堀本さんは勢い良く川に自転車と共に落ちた。
泥まみれになって唐さん宅に向かい、土下座しながら

「申し訳ありません!途中、川に転落してしまい伊勢海老を1匹、逃してしまいましたー!!!」

しかし、伊勢海老は事務所の浴室で見つかった。新鮮と言うか生きていたので逃げ出していただけだったのだが、堀本さんと言う人を象徴するような逸話だったなぁと思う。








 辻孝彦さんは今月、亡くなった。癌だったらしい。

辻さんには本当に可愛がって貰った。その怪優っぷりは職人芸としか言いようがないのだが、誰かが辻さんのような演技を出来るか?と言えば不可能だった。

一体、どう言う経歴を積めば、あんな演技が出来るんだろう?と思っていた。


唐組は(当時は)やっぱり色々な意味で『濃い』『破綻』『理不尽』な劇団で、多分、日本一、ハードな劇団だったと思う。

其処に福岡県の小劇場でやっていた小僧が入団するのだから右も左も分からない。

東京と言う街も分からなしい、街に慣れる前に唐組だったし、テント芝居の経験は『全くの未経験』では『なかった』が(劇団野戦の月を手伝った事があった)、色々と「ワケの分からない掟」があって、戸惑った。


座員の問題もあったのかも知れないが私は春公演のツアーに同行した。その前の年は同行できなかった座員もいたらしいから、ラッキーだったのかも知れない。

でも、唐組の事も、演劇の事もよく分からない私をナントカ、サポートしてくれた。
理由は分からないけど、可愛がってもらった。

その後、唐組は夏に『座内公演』と言う内輪の発表会と言うか、そう言う公演があるんだよな。
其れは唐さんが温めている戯曲の軽い公演だったり(2000年公演の『鯨リチャード』は、その際に30分程度の形で発表された)。
だが、基本的には『内部オーディション』と言う感じで、唐さんの旧作(主に唐組時代)を新人が演じる・・・と言うモノだった。

その際、現在の座長である久保井研氏に頼むか、当時の看板役者だった鳥山昌克氏に頼むか、辻さんに頼むか新人同士で話し合った。

で、久保井研氏は「良い評判が取れるとは思うけど・・・」と思いながら外した。理由は簡単で、久保井研氏は新人や若手と殆どコミュニケーションすることがなかった事と、何処か得体の知れない不気味さがある事もあって駄目だった。
その不気味さには、『女癖の悪さ』と言うモノもあったと思う。
新人は皆、20歳の子供であり、久保井研氏の事は理解が出来ない処があったし。あと、怖かったって言うのが一番だった気がする。

鳥山昌克氏も候補にあがった。唐組で最強の腕力と、最強の演技力と、怪優からスタンダード・プレイまで出来る素晴らしい役者だったし、舞台監督と言うポジションの為か全体のまとめ役もしていた。で、勿論、鳥山さんも過去に座内公演で演出を担当した事があったが、その時は一幕目の途中で唐さんが激怒して終わった、と言う過去があったので有りえなかった。座内オーディションなので一幕目の途中で唐さんを激怒させる事は絶対に避けたかったから。

辻さんは、コミュニケーションもあったし、何処か信頼出来たし、何しろ役者陣では最高にCOOLと言うか看板役者だったし、支持が具体的だったからお願いした。
ある意味、中性的とも言える優しさがあり、同時に厳しい人でもあったし、『唐十郎の戯曲をどう演じれば良いのか?』を具体的に教えて貰える人だと思ったから。




唐組はバイト禁止の劇団なのだが、座員は夏と真冬に稼いで公演に挑むしかなく(ツアー中は月給が出るのだが、それでは食えない。何しろ月給1万円)辻さんもバイトなんぞをしたかったと思うのだが、快く引き受けてくれた。

その際の戯曲は『動物園が消える日』が選ばれた。
何故、傑作とは到底、言えない『動物園が消える日』が選ばれたのか分からないが、確かアレは書籍化されていたのかも。
当時、唐十郎の戯曲は嘗てと比べて殆ど書籍化されていなくて、唐組時代は『電子城』くらいしかなかった。
多分、誰かが戯曲を見つけてきたんだと思う。


座内公演は一応の建前としては「新人達が自主的に行うモノ」と言う規定だったので(当然だが自主的ではない)稽古場などは新人達が探してくる。
セットはダンボールで作る。
衣装や小道具はナントカ、調達する。または衣装は劇団内で保管してる場合もあったので、其れを使う。


座内公演の稽古は『其処に唐十郎が居ない』と言う事で気が楽だった。気が楽、と言うか部活的な感じだった。
本公演の稽古の緊張感はトラウマとなるレベルだったし、唐十郎と言うのは『座長』と言うより『』に近く、恐ろしかった。
だが、座内公演の稽古は恐ろしい先輩方もいないし、自分達(新人)でやる、と言う事もあり楽しみでもあり(演じたくても、春公演は役がなかった)、辻さんの演出も最低限だったし、具体的だったし、ユーモラスでもあり、遣りやすかった。

堀本さんは「黒木の、あの台詞がなってない」と言う事で何故か、岩倉さん、と言う私の一世代上の先輩が付きっきりで、毎日、2時間~3時間の練習をさせられていた。

正直、岩倉さんの指示や演出は意味が分からず

「えーっと、俺は多分、台詞を言えているはずですが・・・」

と思いながらも「もう一回!」が蚕糸の森公園に連呼した。



あの頃の思い出と言うか、引越の為に部屋を掃除していたら1998年公演『眠り草』の台本が出てきた。
汚さないようにファイルに入れていたのだ。

其れを今、読んでみると客観視と言うか冷静に分析出来る。
唐さんの戯曲は『文体』であって内容ではない。
基本的に『台詞劇』なので、台詞を噛まずに言えれば、其れだけで成立する完成度である。
だから、戯曲が出来た時点で99.99999999%は完成されており、『当て書き』と言う「役者に合わせて書いている」と言うのは実は違っていて

『誰がやっても8割は完成する』

と言う完成度なのである。だから、小学生でも上演は可能である。派手なセット(大量の水やテント崩し等)は、其れこそが唐十郎の演出であり、基本的には

①台本を覚えられること
②台詞を噛まずに言えること

が可能であれば上演可能である。唐十郎の戯曲と言うのは其れだけの強度があった。シェークスピアやチェーホフ、ベケットやイヨネスコと並ぶ程の強度と骨格がある戯曲であり、その戯曲と言うものは『唐十郎の文体』に依る部分が多く、あの文体で唐さんが『ソウル市民』や『ゴドーを待ちながら』、『セールスマンの死』、『マッドマックスⅡ』を書けば、それは唐十郎の作品になるのである。

唐十郎と言う天才戯曲家はテント芝居でも水しぶきでも、アングラでもなく、其れは明治文学から続く純文学的な『文体の発明と開発』だったんだと思う。


あれから20年の時間が経つから、そんな事を言えるけど当時は分からなかった。

岩倉さんの素人演出もワケが分からなかったし。堀本さん、日高さん(今は世界中を飛び回る役者になっている)、大垣さんに相談するが、心半分は「駄目なんじゃないか?」と思い、心半分は「此れ以上、何をやれと?」と思っていた。

戯曲以上の事をやるスキルはなかったし、そもそも唐さんの戯曲は役者が戯曲を超えるスキルを求めるモノでもない。
それは『状況劇場』での『風の又三郎』だろうと、岸田戯曲賞を受賞した『少女仮面』でも、そうだったと思う。

演出の辻さんからは、特に何か言われた覚えはない。辻さんは、その事を分かっていたんだと思う。

辻さんから駄目出しされたのは1幕目が終わる際に、重要人物を私が目撃して

「あ!」

と言う台詞は何度もダメ出しされた。たかが「あ!」だが、されど「あ!」である。
書きながら笑えてくるのだが「あ!」だけで何度、やり直させられたか。


私が座内公演で演じた役は久保井研氏が演じた役だった。「似ている」とは言われたが、久保井研氏のような演じ方は出来ないし、唐組の先輩達は皆、叩き上げの強者で、真似する事は不可能だったし、ビデオを見て盗むって事も出来なかったし(そもそも劇団内にビデオがなかった)。


『辻組』だった新人公演は途中で逃げ出したオオツカと言う奴(私と同期)を捕まえに言ったり、泣いたり、笑ったりしながらも、神様:唐十郎の前で演じる。

好評ではなかったが、少なくとも全員が全力だったし「終わった・・・・」と言う事でグッタリした覚えがある。

その後に、新人達だけで打ち上げを行い、中袴田克秀さんと言う3世代上の先輩だけを先輩として招いて呑んだ。二次会でオオツカがトイレでゲロまみれなって倒れた。

後日、辻さんに感謝会と言うことで呑んだと思う。辻さんが嬉しそうだったし、その表情で「なんとか、なった」と思った。




座内公演が終わってから秋公演の準備が始まった。



3回目の上演となる『秘密の花園』だった。初演は本多劇場だったが、改訂版はテント。主演は飯塚澄子様(当時の唐組のクィーンである)。主演は堀本能礼さん。
春公演が終わって、当時の看板役者だった金井良信さんが退団したので、大久保貴さんが客演。

1年前の公演なので役に過不足がなく新人には役が回ってこなかった。


その頃から退団を考え始めていた。


退団の事を最初に話したのは日髙啓介さんだった。日高さんには、何処か「全てを受け入れてくれる」と言う感じがあった。
確か、日高さんも退団を考えいてた頃だった。


退団を考え始めたのは、やっぱり『堀本能礼』、『辻孝彦』『唐十郎』だった。


劇団が辛くて、って言うのも大きかったけども、其れは経済的な問題であり私は最終的に親に仕送りをお願い出来ていた。

劇団生活は思えば楽しかったんだと思う。物凄く辛い部分もあったけども、毎日が最高に『濃い』し、集中力のピークを維持される毎日は20歳の私には、何処か楽しかった。


だけども、自分が『堀本さん』『辻さん』のような役者に成れるのか?と言う疑問が湧いて来た。


当時、憧れていた役者は

『堀本能礼』
『辻孝彦』
え~りじゅん』(ex野戦の月)
『金井良信』
『稲荷卓央』

だった。唐組は年功序列だから、長く在籍すれば役は付く。其れは問題ではない。
自分が憧れる、または何時かは乗り越えなければ生らない役者のレベルの高さと、自分が伸ばせるスキルの長さを考えると、無理だった。

言ってしまえば上記のような役者になれないんだったら、意味がない、と思っていた。

九州と言う封建的な土地の、福岡県と言う封建的な県の、北九州市と言う封建的な市から、東京に出てきたので、0か100か、と言うか。
そう言う覚悟じゃないと、当時は出れなかった。


堀本さんや辻さん、金井さんみたいには成れない。


それは時間が解決するのか?。例えば10年間在籍すれば彼等のような演技が出来るのか?
よしんば10年と言う時間が解決するとしても、20歳にとって10年は長すぎた。

「待ってられない!」

と思った。

もう一つは、20歳特有なんだと思うけど、唐さんに憧れて上京した。唐さんの元に入団と言うか潜り込む事には成功したけども、やっぱり唐さんは天才過ぎる。
20歳のクソガキですら畏怖、畏敬してしまうほど、天才だった。

「天才!」

とはネットでは、よくある形容詞だが唐十郎と言う人は掛け値なしに天才だった。戯曲家としても破格だったし、演出家としても破格だった。
マイルス・デイビス自叙伝に「バード(チャーリー・パーカー)は天才だった。間違いなくな」と言う記述が多いのだが、唐さんはチャーリー・パーカーのような大天才だった。

上記のように10年間、在籍して私が在り得ないけども堀本さんや辻さんを凌ぐような(ホンっと在り得ないが))「素晴らしい役者」になったとする。だが、それは私の手柄ではなく『唐十郎の元にいる黒木一隆』でしかない。

唐十郎に憧れて、唐組に在籍するのではなく、唐さんがやってない事で頑張るしか無い・・・と思った。


で、私も逃げちゃうのだが。


唐組には「退団します。有り難う御座いました」と言う物はない。逃げるだけである。逃げるのだから、座員が追手として来る。
今の『一般社団法人』としての唐組は違うかも知れないが、私がいた頃はそうだった。

だから、3日ほど逃げた。



辻さん、堀本さんと再会せずに20年。


思えば、当時、上京して新宿で迷子になっていた頃とは何もかも違う。
演劇は辞めてしまった。

私にとって唐組、唐十郎、堀本さん、看板役者達と言うのが『演劇』であり、其れがTOPだった。
だから、最高峰まで行ってしまった以上、次はないって言うか。

唐組の頃は全く吹いていなかったトランペットを吹いている。

集団行動である演劇ではなく、ソロ演奏になっている。

45kgだった体重は60kgになっている。

松屋や吉野家を高級食店と思わなくなっている。

唐さんが「アウンサン・スーチーの家の前で公演をやりたい」と当時、言っていたのだが、アウンサン・スーチーではなく、NYとかCPHで吹いている。

新宿や雑司が谷ではなく六本木。


20年前と共通項が一つもない。


退団して、2年程してから唐組を観に行った。以来、観に行ってない。


堀本さんは家族葬。

辻さんは役者として葬儀。


役者バカが役者バカとして死んだ事は乾杯出来る事だと思う。本当に馬鹿げた、馬鹿☓1000みたいな奴が九州のクソガキの人生を変えちゃう演技を続けながら消えていった。

そんな馬鹿野郎な人達が、馬鹿野郎なりの最高の最後だったんではないか?と思う。




俺は、俺は、俺は此れを書きながら堀本能礼、辻孝彦、と言う人物について考えている。
彼等は音楽家ではない。
だが、芸事者として俺は彼等に少しでも追いつけているのだろうか?と思う。

俺は、20年間、必死でやってきた。

18歳で芝居を初め、21歳で退団するまで必死だった。其れからの20年間も必死だった。

出来ない事を行い、無理のあることを行い、失敗を成功に変え、言葉も分からない国に行ったり、演奏中に骨折したり。

でも、私の40年と言う人生で『重要なエポックメイキング』は1998年の『唐組/秘密の花園:鬼子母神特設テント』であり、其処で見た堀本さん、辻さん、金井さんに憧れて郷里を後にした。

人生に「もしも」は無いんだと思う。

だけど、一年に1~2回は「あの頃、あと一年でも唐組に在籍していたら」とか考える。

郷里で親の稼業を次いで、呑気にDJなんぞをやっていたら、とも思うし、『秘密の花園』ではなく『動物園が消える日』を観ていたら、とも考える。



追悼ってワケじゃないんだけども。


私の人生に決定打を与えた人が消える、ってにのは想像以上に辛いな、と思う。


俺は、1998年の堀本さんや辻さんに近づけているのか?全く駄目なのか?


どうなんだろう。

どうなんだろう?

どうなんだろ。


そんな事を思う。