2019年10月24日木曜日

音楽にミスを認めない男/エリック・ドルフィー

漸く、長年の苦労だった



『God Bless This Child』


をマスターした。トランペットのスコアはあるのだが大抵、スコア化されている譜面は間違いが多く、使えたものではない。

以前、『グッド・マイ・ラブ』のスコアを取り寄せたが、スコア化した人の『思い入れ』が多すぎて、結果的に装飾音が過剰となり、吹けたものではなかった。
シンプルにメロディーだけが良い。


原曲は此れである。



ビリー・ホリデイが親と喧嘩した際に作った曲で、歌詞は非常に皮肉と言うか嫌味な内容である(そりゃ、喧嘩してキレて作った歌詞だし)。



で、此れがピアノになると、こうなる。




ジャズになると、こうなる。



(やっぱ、リー・モーガンは最高過ぎる。この人が使っているマウスピースもトランペットも当時の水準だと安物だし、マウスピースは田舎の楽器屋でも売っている奴なんだよな。マーチンのクソなモデルとバックのクソなマウスピースで、どうやってこんな音が出るんだ)





問題は此れである。



エリック・ドルフィーの名演だが、上記の曲がどうなったら、こうなるのか。

トランペットで似たような事が出来ないか?と思ったが不可能だった。不可能と言うか


「あの曲の何処を取り出したら、あーなるんだよ!」


と言うか。理解の範疇を超えている。


原曲は静かな、と言うかゴスペル的なニュアンスなのに、エリック・ドルフィーの演奏だと無音恐怖症、無音神経症のように音を敷き詰める。

コルトレーンのバンドに居た頃も、フルートを吹いても過剰なまでにブレスして、音を歪ませたフルートを演奏していた。

ブッカー・リトルとのディオなんて、考えてみればノイズ・バンドみたいなモンである。

ブッカー・リトルはブロウし過ぎて音が歪んでいる。モッサリとした・・・高音楽器なのにヘヴィー・メタルである(マイルスやチェット・ベイカーとは全く違う。後年のウィントン・マリサリスとも違う歪ませ方である)。

其処にエリック・ドルフィーが、ノイジーとしか言いようがないサックスやフルートを叩き込む。



考えてみると、菊地成孔曰く「サックスとは不可逆的であり、ノイジーな楽器」らしいのだが、晩年のチャーリー・パーカーのサックスは、アルト・サックスから倍音を取り除こうとした・・・と言うか。
純粋に美しい音色であり、それはクラリネットのような音色になっている。


金管楽器で木管楽器のようなエレガントさ。


だが、考えてみると、その『木管楽器のようなエレガントさ』は非常に『白人っぽい』んだよな。
戦前ブルースは録音環境が酷かったせいで、全てノイジーだが、既にスウィング・ジャズは登場していたし、そのスウィング・ジャズでの大御所達はオーケストラと言わんばかりのエレガントである。

チャーリー・パーカーは、その系譜と言っても過言ではない気がする。

アルト・サックスだけでスウィング・ジャズの音の全てを表現したら、超絶技巧、超音速の演奏になった・・・と言うか(勿論、カンサスシティ・ジャズの影響もあるが、カウント・ベイシーの黒さに比べて、パーカーの演奏は非常に白い)。


チャーリー・パーカー以降は「白くて、エレガントなサクソフォン」の系譜は消えて、ラヴィ・コルトレーンまで待つしか無い。



ラヴィ・コルトレーンは菊地成孔が共演したときに「モニターを使っても聴こえない程、小さな音量だった。終わってから音量について尋ねると『大きな音じゃ駄目なんだ。だって・・・濁るだろ』」と言う話が好きだ。

確かにラヴィ・コルトレーンの音量は小さく、音はエレガントだ。




然し、話は元に戻るがエリック・ドルフィー。



彼の頭の中では『音楽』と言うモノは、どう鳴っていたんだろう?と疑問が耐えない。エリック・ドルフィーのアルバムは大半は聴いているのだが、理解に苦しむフレーズや音作りが多い・・・多いなんてモンじゃない。

『Out to Lunch!』なんて、最初に聴いた時は耳から泡が出そうだった。

フリージャズのように「感じたままに演奏」ではなく、音楽理論に則った演奏なのは分かるが、其れは旋律だけであり、既に現代音楽の領域。
音はノイズ・・・非常にノイジー。

アレほどノイジーな音は、恐らく当時だと現代音楽くらいしかやっていなかったのではないか(ロックは、まだクリーン・トーンの時代である)。


wikiによると

『基本的には音楽理論に則りアドリブを展開していくスタイルである。』

とあるが一体、どう言う音楽理論だったんだ。音楽理論を追求したら現代音楽になってしまいました、と言う感じなんだろうか。



伝記によると、エリック・ドルフィーは練習の鬼だったらしく、移動中でも楽器を持って運指の練習を延々としていたらしい。敬愛するのはセロニアス・モンク・・・(思えばセロニアス・モンクも非常にノイジーなピアノを弾く人だ。

セロニアス・モンクとの共演を心から待ち望んでいたのに、其れが叶う前に死んでしまったが。



音楽理論の歴史は、私が思うに

「音楽的にNOを減らしていく」
「あらゆる音に対してYESを与え続けてきた歴史」

だと思う。

モード奏法なんて、西洋はテキスト文化だから、モード奏法の為に書籍は山のようにあるが、実際の処は実に簡単な演奏方法である。

だから、エリック・ドルフィーにとっての音楽理論は全ての音に対して「YES」を与え続けてきた音、と言うか。

エリック・ドルフィーの師匠になるのかな。チャールズ・ミンガスは演奏中に

「ガンガン、吹け!音楽にミスなんて有り得ねーんだ!」

と怒鳴っていたらしい。音楽にミスがあるとすれば、それは演奏者が「あ、ミスったな」と思った時だけである。
観客が決める事ではなく、演奏者が決める事である。

そのためには「何がミス」で「何がミスではないか」は知るべきだが、Bのコードに対してB♭のスケールは音楽理論ではアウトだが、「いやいや、アウトじゃないですよ」と言えばOKとなる。



とは言え。


エリック・ドルフィーの『God Bless This Child』は、どういう考えで作ったのか全く理解が出来ない。
ゴスペルが、なんで幾何学的な音に変換されるのか。

エリック・ドルフィーに、音楽と言うのはどう聴こえていたんだろうか。違った聴こえ方だったんだろうか。


どうしようもなく謎である。