2020年7月13日月曜日

白石民夫

先日、白石民夫さんの路上パフォーマンスを聴いた。





白石民夫さんの演奏は20年くらい聴いている。

最初は月本正さんから教えてもらった。
「面白いと思うから行ったら?」と言う感じである。

どんな人か分からなかったし(当時、インタネットは黎明期だった)、フリージャズの人なのかなぁと思いながら新宿に行った。


初めて聴く白石民夫さんの音にビックリした。
凄く感銘を受けた。

感銘を受けた、と言うか当時

「高音には神が宿るのではないか?」

と思っており只管、trumpetで高音の練習をしていた。
中音域や低音ではなく、超高音には何かが宿る・・・と思っていた。

まだ、trumpetは上手くなくて高い音と言っても3分も出れば良い方だった。
でも、高音域には何かが宿る・・・のではないか?と志は熱かった、と思う。
それが現状、実現不可能だとしても。



そんな自分が考えていた音楽の在り方を白石民夫さんは既に実現していた。

其処に感銘を受けた。

自分の考えている(まだ実現できない音)音は間違っていないんだ!と言うか。

白石民夫さんは当時、私のマイルストーンだった。




今はKO.DO.NAと言うスタイルで音楽をやっているけど、オクターバーを多用するので超高音とは言い難い。
それに高い音はtrumpetよりサックスの方が出やすい。trumpetだとプロでも20分が限界だ。
高音域だけに神が宿るのではなく、音楽や美に宿るのだ、と今は思う。


演奏時間は10分程度だから遅刻はしたくない。
2年前に引っ越したばかりなので、少し早めに家を出た。

そうすると30分も早く着いてしまった。

白石さんは既にセッティングと言うかボンヤリと立っていた。


仕方がないので何処かで時間を潰して再度、向かう。




白石民夫さんの演奏は時間になっても中々、始まらない。
白石さんがカリヨン橋に立つと風が強くなる。
いつもだ。

新宿駅前の音だけが耳に入ってくる。

新宿は音が良い、と思った。

新宿は好きな街なんだけど、その理由としては『音の良さ』なのかもなぁと思った。
『音楽』に聞こえる。
それに対して渋谷、原宿、下北沢は音が悪い。音楽的とは言い難い。
歩いていて、苦痛だもんな。

皆、あんなに音が悪い場所によく行けるモンだ。




暫くして、白石民夫さんがサックスを吹き始めた。


景色がガラリと変わる。

その瞬間、



「嗚呼、音楽って神聖なんだな」



と思った。何を今更、言っているんだ?って感じだけど『音楽は神聖』と言うのは演奏者ですら時折、忘れてしまう。

音楽に携わっていると、音楽は日常に近くなるので判らなくなって来てしまうのである。
とくに私みたいな自主企画もやって、自分も演奏もして・・・だと忘れがちだ。

『美』は神聖なモノだ。



以前、知人と舞踏家の公演を観た。その時の公演は酷かったのだけど、知人女性が
「今日のNさんの公演は酷かった。だけど、舞台はやっぱり神聖なんだな、と思った」
と言っていたのを思い出す。

舞台は神聖なモノだし、美は神聖だ。



でも、時折、忘れがちになる。

『美』に対しての畏怖、畏敬を。

その畏怖や畏敬はキリスト教や仏教のように『戒め』『ルール』があるワケじゃないから、忘れたとしても問題はない。
しかし、忘れてはならない事なのである。



だけど、今日の白石民夫さんの演奏は『神聖』だった。何かが降りてくる、と言うか。

白石民夫さんはいつも通りの演奏なんだけど、私はそう思った。


00年代初頭に観はじめたのだけど、その頃は音を叩きつけるような演奏だった。

真冬で、しかも雨の日に演奏していたのだけど、40分以上延々と演奏し、聴いているのは私と、当時のカノジョだけだったのだけど

「いつ、終わるんだろう?」

と思う程、長丁場だった。あの日は特に寒かった。
白石民夫さんだけが寒さなんぞ気にならない、と言った感じだった。

「すっげー!」

と思って演奏後に話しかけたら「サックスを預かってくれないか?」と言われて何故か白石民夫さんのサックスを数か月ほど預かった事があった。

返す際に新宿のファーストフード店でお茶をした。

白石民夫さんは口数が少なく、あまり会話らしい会話にならなかった気がする。その時、私は

「白石さんはサックスはやっぱり超絶技巧なんですか?」

と聞いたことがあった。思えば馬鹿な質問だが「こう言う演奏は超絶技巧の果てにあるのでは?」と思ったからである。

「いや・・・3曲くらい吹けるけど、サマータイムとか簡単な曲しか吹けない」

「練習はやっぱり物凄くやっているんですか?」

「いや・・・部屋で吹いていたら同居人が『うるさい』って言ってきて・・・。確かに自分でもウルサイなぁ、って思うし」

と、20代前半の私は思えば失礼な事を聴いたもんだ。多分、自分が興味がある事しか話さなかったからだと思うけど。


私は白石民夫さんの過去には余り興味がない。
不失者のメンバーだったとか、吉祥寺マイナーとか、私はあまり興味がない。
だから、聞くこともない。



2回目に預かったときは、私が携帯電話を止められており白石民夫さんの着信に気が付いたのは路上演奏の前日だった。
当時は3千円程度の電話料金すら払えない程、貧乏だった。
以来、私にサックスを預けてこなくなった。

そんな事がありながらも、聴き続けていた。

真冬だろうと、真夏だろうと、白石民夫さんは「世界の淵」「この世の果て」のような風体で演奏していた。
観客がいようと、いるまいと、そうだった。
まるで、何かの罪の贖罪のような後ろ姿だった。

20年前は演奏時間は1時間程だった。


それから20年経過して演奏時間は10分になった。

年々、短くなった。

だが、音は、さらに鋭い・・・何というか長い間、ずっと溜めていた音のような熟成と言うか、何というか。

鳥の声、または鳥類の求愛の歌のようだ。

どうしても『感動』と言うのを言葉に変換するのは難しい。言葉に出来ない事柄こそが「感動」なんだもの。


音楽は神聖なんだ、と言う事を再確認した。


それは、とっても大事な事なんだと思う。