2012年4月29日日曜日

名前のない私たち



『名前のない女たち』
と言う本を読んだ。

内容は『企画モノ』のAVに出演する女性達へのインタビューである。一応、壮絶な半生となっている。
義父、親族、身内からの虐待、レイプ、孤独など。

「企画AV女優達から「死」を予見させる発言や行動が増えていった。僕自身もだんだんと精神が疲弊するようになって、自分がおかしくなりそうになった事も何度かあった」

と前書にある。確かに内容はそんな感じである。



最初に読んだときは、嫌な気持ちになった。
2回目に読んだときに、ちょっと違和感を感じた。
登場するAV女優に対してではなく、著作者に対して。


書き手は男性である。


「死を予見」し「精神が疲弊」したのは単に彼が『男性』だからじゃないか?って。
多かれ少なかれ『女性』は出産・妊娠と言う構造があるし、言ってしまえば男性よりも『生死感』と言うのは可也、違うベクトルがあると思うのである。

もっと言えばインタビューした人物がAV女優じゃなくて『舞台女優』『地下アイドル』『映画女優』でも同じだと思うのだが、其れを感じたのは本人が「彼女は企画AV女優」と言う認識があり、同時に「AVと言う階層の低い業界」と言う認識があるからじゃないか?


本著に登場するAV女優達の生き方や人生は醜く、酷い。


だけども人間が本気で生きている姿は誰だって醜いと思うのだ。其れを『醜い』と思うのは、「自分は階層が違う」と言うか、『日本カースト』の上の方だと思う。



老人介護をしていたとき。思ったのだが老人達にとって『死』は身近なモノだ。で、その半生は時代背景もあるが、普通に壮絶である。戦争で家族を亡くして、闇市で働き、モノを盗み、屍を踏み越えて、って言う。

だが連中は変な言い方だが『死ぬ気で生きている』んである。

金払って見ず知らずの奴にケツの穴に指を突っ込まれて糞をひり出し、糞不味い飯を食い、その状態になるまで夫や医者など数人にしか見せた事がなかったであろう裸体を晒し、生きている。




『名前のない女たち』を読んで壮絶で、死を予見して、孤独で・・・と思うのは「生きた事がないから」思えるんじゃないか?って。

本気で生きてて、其れが壮絶だ、と簡単に言うなよ!って。


虐待にレイプに孤独と金、って言う事だけなら、そう言う奴は誰だってAVや風俗に行くのかよ?って。じゃあ、俺が女だったらAV女優になってケツの穴にウナギを突っ込んのかよ?って。

虐待にレイプに孤独と金がそうさせた、みたいな書き方なんだが冗談じゃない。



この本が悲劇的なのは登場人物ではなく書き手が実は強烈な『マッチョイズム』と言うか『男性的目線』しか持ち合わせてないからじゃないか?って思う。エロ本業界に居ながらも、何故かそう言う視線である。



風俗嬢の何が悪くて、AV女優の何が悪いのか?


納得できる理由を説明された事が一度もない。私の中学の同級生はソープで働いている。其れを聞いて「でも、ちゃんと働いてんだから偉いよ」と私は言ったし思うんだけど、普通は違うらしい。

「汚らわしい」

と母や世間一般は言う。だが、第三者とセックスをする、と言う行為だけを抜き出せば誰だってやっている。


俺だけかもしれないが、私はAV女優やAV男優、風俗嬢を本気で尊敬するんだよな。同時にマイルス・デイビスも尊敬するし、ジョン・コルトレーンも尊敬するし、細野晴臣も尊敬するワケ。

『身を切り売り』


と言うんだったら音楽家も小説家も映画監督も映画女優も舞台女優もAV女優も同じだ、と思う。


単に人前でセックスすりゃ金になるワケじゃないし、単に第三者とセックスすれば金になるワケでもない。
音楽もそうだが、其処には『特殊な技術』がある。


アメリカの全てがそうだとは言わないがアメリカの『ポルノ女優』は可也、凄い事をするが世間一般の評価は日本と比べて桁外れに高い。
USポルノは一時期、60~70年代に『反逆の映画』として一時期はカンヌ映画祭にまで対抗していた位だから、歴史が違いすぎるが(その頃の映画祭については寺山修二が詳細なレポートを出している)。

日本のAV業界や風俗業界が、どうしても「裏の家業」と言う自虐的意識を拭えないし、歴史的にも違うし、風土もあるんだろうけども、嘗て

『風俗嬢』

ってのは世間の憧れだったのである。『芸者』や『花魁』じゃない。戦後の日本の女性ファッションに最初に強烈なインパクトと流行を作ったのは


『風俗嬢』


『売春婦』


だったんである。実は『サザエさん』のファッションも、その当時のファッションである。当時、米軍と交際があった彼女達のファッションは其れまでの『和風』ではなく『洋服』であり、派手な色と派手な格好だった。

其れが日本のファッション史の最初。戦後と行っても経ったの60年前である。

なのに何で?みたいな。




日本の『ジェンダー問題』って実は相当に暗くて多分、『日本カースト』に対抗出来るモノなんて『インドのカースト』とかしかない気がする。インドのカーストと言っても、『ブッタ』が生きていた頃レベルで。

105回も転職していると『女性上司』と言うのも居る。

不思議なんだが『女性管理職』の人って、相当に出来が良いんだよな。「ここじゃなくてゴールドマン・サックス社にでも移ったらどうですか?」みたいな。男性管理職って意外とマヌケが多いんだが(少々、マヌケくらいが丁度良いのかもしれないが)、女性が『管理職』となろうとすると、男性の3倍以上は有能でないと駄目なのか?って気がする。

例えば小和田雅子って天皇家に嫁入りするまで『国内TOP5』のキャリア・ウーマンだった。『TOP10』じゃなくて『TOP5』である。殆ど頂点と言っても良い。

だが、その役職は今で言えば『外務省のOL』程度である。官僚の一人、でしかなかった。


幼年期はソ連
帰国子女
その後、ボストン
帰国して東大卒
ハーバード大学卒
オックスフォード大学卒


こんな桁外れの経歴を持つ怪物のような女性ですら『官僚程度』だったんである。其れが当時の『働く女性の限界』と言うか。

信じられるか?90年代で、それだったんである。
そして末路は『天皇家』である。最悪だ。

天皇家に人権はないんだから。




きっと『皇太子徳仁親王妃雅子』も企画モノのAV女優も笠木忍(私はファン)も同じように孤独だろうし、死と近いだろうし、壮絶だと思う。

だが、其れを壮絶だと思うのは、単に『生きる』事をサボっているだけだ。
『生きる』事をサボっている、と言うのは『日本カースト』の中でTOPだから許される事だ。
『特権階級』からは何も生まれない。

『特権階級』がロックを演奏し、ストリート文化を語り、哲学を語り、労働問題を語る。

之がどれほどアホ臭いか何故、誰も指摘しないんだ?



今は『生きる』事をサボれる状態じゃない。真剣に生きるべきなんである。


俺は思うんだが『脱原発!』と叫ぶ連中が、どうしても『お花畑』と言うか『マヌケ』に見えてしまうのは、デモのやり方とかじゃなくて、単に

『特権階級』



『下層階級者』

の真似をしているからじゃないか?って気がする。『アースデイ』とかな。
金持ちが貧乏人の真似をするのはアホ臭い。
早稲田大学経済学部のガキがヒップホップをやってもサマにはならない。


俺は『笠木忍』や『AV女優』、風俗嬢、水商売の連中が「脱原発」と叫んだ時こそが『原発』の本質が露見されて、其れが認知される日だと思う。

今のところ『反原発』を叫んだのは北海道・札幌市の『オリーブガーデン』だけだが。
http://rocketnews24.com/2011/09/14/130649/



職業に卑賤はない。
総理大臣も日雇い労働者も同じ事


そう教えてくれた私の父親はソープランドの経営者だった。




2012年4月21日土曜日

Everybody needs someone to Love


19日はライブだった。珍しくファンク系。


今回は

「お客を踊らせる」


と言う事を念頭に新高円寺UFOクラブへ。「よっしゃぁ!」と気合十分。会社を1時間半早めに早退して会場へ行く。いつも着ている白シャツが流石に駄目になったので前日に新たに購入までして。

で、会場へ着いたら直ぐにリハで、そのままライブだった。

演奏開始、って事でカーテンが開くと「ガンガンに躍らせまっせ!」と思ったら








踊るはずの客がいなかった





と言うか。私も余り宣伝しなかったし(スタジオに入るまでイベントの詳細は分からなかったし、そもそもイベントの詳細は当日になって知った感じだったし)、他の出演者もそうだったし、仕方がないんだけども、お客さんは15人位(10人位?)だろうか。

キャパ150のライブハウスはガラ~ンとしている。

こう言う状態で「踊らせる」なんて芸当が出来るのは多分、ジェームス・ブラウンでも無理だと思う。皆、椅子に座っちゃってるし。


カーテンが開いた瞬間に行き成り『暗礁』に乗り上げた。

と言うか「糞!」と逆にファイトと言うか「ヤケクソ」と言うか、当初の予定では余り吹かない予定だったのだが(演奏時間40分のうちtpを吹く時間は10分以内にしようと思っていた)、ヤケクソでブロウし捲くり。
エフェクターも控えめにしようと思ったのだが、フルテン。
音もマイクを調整して歪ませ捲くった。


当初の予定ではこんな風にする予定だった。



(ウィルソン・ピケット先生)


だが、ライブと言うより公開リハーサル。


既に客席が想定外だったので、可也、野蛮なステージになったかも。



あと、UFOクラブとJAMは一番、通った店だったし出演者からも聴いていたので覚悟はしていたのだが



モニターが全然、聴こえない



予想以上に聴こえなかった。モニターアンプの向きもあるだろうし、店の作りだから仕方がないが之ほどとは思わなかった。
とは言え、こう言う劣悪な環境は慣れている・・・とは言え聴こえない。エフェクトをフルにして漸く、って感じだった。

PAじゃなくてギターアンプに繋げば良かったなぁと思った。昔はそうしていた(PAがない店でライブをやっていたので)。だから店のモニターが云々と言うより私の判断ミスである。

ちょっと反省。


ヨシノトランスさんが録画してくれていた。会社から帰ってきて観てみたが、


『ハカラづしも電気マイルス』



と言うか、そんな感じが・・・しないでもない。しかし電気マイルスとはやっぱり違うな。同じ事なんて出来ないし、やれるけど、やったら馬鹿ですよ。それは。





そう言えば『エレクトリック・マイルス』のコピーバンドを『俺はこんなもんじゃない』の子がやっているのを見かけたことがある。あれはやっぱり笑っちゃうんだよな。高校生が文化祭で『ラルク・アン・シェル』のコピーをやっているのを見るのと同じで、やっぱ笑ってしまう。 
利害関係もないから言っちゃうんだけど『俺はこんなもんじゃない』のリーダーの子ってミュージシャンと言うよりリスナーなんだろう。体質的にも。だから、演奏しているサウンドが、ダサかろうと、アホだろうと、パクリと言うよりコピーだろうと、関係ない、って言うか。其れを好む人もいるだろうけども、私だったらTUTAYAで300円で借りる方を選ぶ。


で、終わってから『噂のDJ』である


『ラリーズDJ』


が登場。このDJ。幼い頃にPOSO紛争に巻き込まれた経験があり、其れがトラウマとなり、


『裸のラリーズしか掛けないDJ』


と言う特殊なDJとなり、そして世界紛争撲滅を目指している、と言う狂った青年である。

「そういう変なDJがいる」と言うのは噂には聞いていて「どんなDJなんだ?」と思っていたのだが、会ってみると「俺ぇ、サ~イケー!」と言うより普通に好青年

傍らに猫。



「その猫はどうしたの?」

「捨て猫だったんですよ。見てください。片目が潰れていて・・・。ほっておけないから拾ってきました」



と言う。そんなワケで彼の自宅は猫や犬が合計30匹も居り


『江古田のムツゴロウ』


と近所では言われているらしい。『裸のラリーズ』のブートから公式盤(?)まで『ラリーズ漬け』。


思えば私も『蓄音機DJ』なんて言う愚行を年に数回やっているので、人の事は言えない。猫は拾わないが、今日も会社の近くの野良猫に求愛を受けて

『愛の甘噛み』

の連続攻撃にて手が未だに少し痒い(猫アレルギーなのだが野良はねぇ)。



確かに噂に違わぬ凄まじいDJだった。やっぱ良かったなぁ。ああ言うハコで大音量で聴くとドロンドロンで。MIX CD作ったら3000円だったら買うな。

終わってからヨシノトランスさん、ヨウジ氏、私、ラリーズDJ(大江君)と


『バッキー事件』

『梶原一騎の娘』


について語り合いながら帰宅。



そう言えば今日、帰宅して、上記の動画をチェックする前に『熊牧場の熊が逃げて老婆2人を食べて逃走』のニュースをチェックし捲くった。

熊が人を襲う(食る)事件系に私は、特に最近はテディベアを作って一緒に寝ている事もあり胸が躍る。

何ら生産性もない熊に対して『牧場』と言うのもヒットでもある。『熊牧場』って何だよ?っていう。

食べられた人には申し訳ないが(しかし気になるのは熊と言う危険な動物の飼育を高齢の女性がやっていた、と言う事である。何故なんだろう?)やはり

熊が脱走して大暴れ

は「野生の証明」と言うか、素晴らしい。


そう言えば戦前に上野動物園から黒ヒョウが檻から逃げ出した事があるらしい。で、東京中が大パニックとなったんだとか。226事件や515事件があったと言うのに、何だかほほえましい。しかも、その事件は後年『映画』にまでなったんだとか。澁澤達彦は「既に時代は戦争に向かって暗い時代のはずなのに、何と言うかマヌケと言うか」と書いている(その頃、澁澤達彦は子供だったが)。


で、6匹の熊が猟銃会のメンバーにより熊達は無念の銃殺となったらしい。リーダー各の熊が新人に言ったらしい。熊語で。



「お前の目の前にいるのは英雄でもなんでもないただの熊だ、撃て!!」


「落ち着け、そしてよく狙え。お前はこれから一匹の熊を殺すのだ。」



嗚呼、熊・・・。

ちょっと、そこに憤慨している。





何故、カラテ家が向かわなかったんだ!!!!




『カラテ』と言えば『牛』と『熊』だろ!?違うか?!一時期、間違いなく世界最強だったウィリー・ウィリアムはグズグリーと戦ってんだぞ?小熊だけど。『梶原一騎』の『空手バカ一代』でも大山マスタツは熊と戦った、と言う事になっている(フィクションだが)。

こう言う事だから総合格闘技でカラテは常に負けるんだよ!

熊の一匹も倒せないで、何が『カラテ』だ!

多分、木村政彦が生きていたら、即効で熊退治に行っただろう。
塩田剛三でも多分、やったな。うん。
あとはカール・ゴッチ先生だろう。ゴッチ先生さえ生きていれば、世界初の『熊にジャーマン・スープレックス』を、あの美しいアーチを描いて決めた事だろう。
そして言うのだ。ジャーマン・スープレックスで倒した熊を横に

「それともカール・ゴッチは偉大ではない、と言うのかね?」

と!(by『プロレスラー・スーパースター列伝』より抜粋)


嗚呼、最強と言う名は何処へ・・・。



因みにイベントの主催者が作った『裸のラリーズ』のWEB。20代とは思えないほど物凄く良く出来ていて、私も時折、見ている。
http://lesrallizesdenudesexperience.web.fc2.com/top.html

2012年4月17日火曜日

最近、『脱原発運動』と言うか動向に凄く違和感を感じる。 

何ていうか凄い『違和感』って言うか初めてスーツを着て会社と言う組織で働く、とか小泉総理の登場の時とか、911の時も『物凄い違和感』を感じたんだけども、『脱原発』と言うのも最近になって、強烈に違和感を感じるんである。 


原発が爆発した後、気合の入った左翼系の人に「どうなるんだろう?」と相談したことがある。その人はこう言った。 

「うーん。でも、被ばくとか原発って色々な思惑があるんだけども、でも、敢えて皆、被ばくすべきなんだよね。だって、これまで原発の事とか考えたことなかったじゃん?って。皆、無視し続けたし、地方に原発とか基地とかを押し付け続けてきたワケじゃん。そのしっぺ返しは皆、受けるべきなんだよね」 

と言っていて腑に落ちた。 



『脱原発』と叫ぶのは簡単である。なんだったらツイッターやmixiのHNに『山田花子@脱原発』とか付け加えるだけでOKだ。 

しかし、『脱原発』と叫ぶ事が出来る、と言う時点で其れは『都市部の特権』と言うか、そんな気がするのである。 

『原発』『核施設』がある土地での雇用、と言う部分を全く無視している、と言う気がしないでもないから。勿論、違う人もいると思うんだけどさ。 



私事で恐縮だが私の故郷は工場街である。もう、兎に角、一事が万事、最悪だった。 

常に曇り空 
黒い海 
奇病 
知的障害者(矢鱈と多かった。だから北九州市の障害児への福祉は手厚かった) 
ヤクザ 

もう、全然、メリットよりもデメリットの方がデカい。だが北九州市民は奇病や奇形・障害者よりも 

『目先の金』 

を選んだし、最近は瓦礫も受け入れるってワケで『常に金を選ぶ』ワケですよ。 


で、黒い海に、煤けた空に、奇病と障害者を引き換えに今日のキャバクラ代の方が欲しかったワケ。テメーの嫁のヴァギナから奇怪な人間が産まれちゃう事よりも、プリウスのローン費用を稼ぎたかったワケ。 

其の為に海沿いが奇怪な工場と、あからさまにヤバそうな煙突の煙はOKなワケ。 

子供の頃、親父と一緒に海に魚釣りに行くと大抵、奇形の魚が釣れたもんである。他の土地の事は知らなかったから、そう言う事は普通の事なんだ、と思っていた。 
常に曇り空なのは北九州市が海沿いだから、と思っていた。 
海が黒いのは此処だけじゃなくて日本全国だと思っていた。綺麗な海はTVだけだった。 



何が言いたいか?って言うと福島原発がぶっ壊れて「『ふるさと』を失った」とか「原発さえなければ」とか「おはかにひなんします」とかあるんだけども、原発を誘致したときに其の危険性を知らなかったと言うのだろうか? 

「東電に騙された」 

と言うが、本当に東電は騙したの?って。本当に騙されたの?って。あの事件の前から福島第一原子力発電所周辺の噂、ってのは可也あって、他県に比べて例えば家畜の奇形率が尋常じゃない、とか『原発ぶらぶら病』もあったワケですよ。 

そう言うのを見ていて「騙された」はねーだろ?って。 


同時に原発誘致の際に『反対派』『賛成派』って別れたらしんだよな。で、反対派は賛成派から相当な嫌がらせを受けたんだよな。 

反対派だった高校教師は家を放火されたり、村八分になったり。究極としては『福島女性教員宅便槽内怪死事件』で、被害者は『原発反対派』で利権などの流れをケーサツにチクってたんだよな。 

誰が殺したか?ってのは誰だって分る話だ。 





私は知りたい。 

「ふるさとを奪われた」と言う人は、2011年3月10日までそんな事、考えたのか?って。 
誘致した当時、大喜びで賛成した人達は今、どう思っているのか? 
福島女性教員宅便槽内怪死事件の加害者達は今、どう思っているのか? 
『原発全廃』と言う人は原発がある地方の経済状態を考えたことがあるのか?って。 
原発は福島だけじゃなくて全国の原発は過去に重大な事件を起こしている。東海村JCOにしろ『地獄のもんじゅ』にしろ。 
これらは全てニュースになったしTVでも報道されたし、新聞でも紙面を飾ったし。 
それでも「安全神話が崩れた」「東電に騙された」と言えるのか?って。 
皆、知ってたんだろ?って。 
「安全神話」なんて作ったのは東電や政府じゃなくて、日本国民全員じゃないか?って。 
『脱原発!』『全廃!』『ふるさと』『東電に騙された』『東電は潰れろ』『政府は何をやっているんだ?』『御用学者』と叫ぶ事は実は 

免罪符 

になってないか?って。 



私は遠藤周作が好だから、そう思ってしまうのかも知れないんだけども「裏切り者」は東電でも政府でもなく、 

全員だ 

と思うんだよな。だけども、時折、『脱原発』と叫ぶ人達を観ていると「俺は裏切ってない」って言うか必死で、手を汚さないようにしている、と言う気がするんだよ。 


こんな事を言っても仕方がないし、実も蓋もないんだけど『私も裏切り者である』と認識しているのと『免罪符』を所有しているのは本質的に違う、って気がする。 



『派遣村』が出来たときの世間の反応は尋常じゃなかった。圧倒的なバッシングだった。『自己責任』って言う言葉が流行語だった。 
ホームレスが爆発的に増えても『自己責任』だったし、電車へ飛び込む奴等に対しても『自己責任』だったし、精神を病む人に対しても『自己責任』だった。 

其の頃に『負け組』を批判していた人達は、今はどう思っているんだろう?って。 

今、原発の処理を必死にやっている人達は嘗て、世間が激しく罵った『負け組』の人々である。連中が「じゃあ、やめます」ってなったら其れこそオワコンなワケ。 

罵った奴等は、罵った連中に何とか助けられているワケ。 

どっちが勝ち組なんだよ?って。 


当時、派遣村やホームレス、ネカフェ難民を非難した奴等がとるべきスタンスは 

「原発作業員は今すぐに燃料棒を素手で引っこ抜いて来い」 

だろ? 

「資格もないし、将来の事を考えなかったツケだ」 

って。 

「其の位しかお前達には役割は無いんだ」 

ってさ。『ARIGATO』『絆』って、そりゃ無理が無いか?って。 



日本人の特徴としては『本音と建前』って言うのがあるが311以降、これほど『本音と建前』が醜く露見したのも珍しい。 

日本は中国や韓国を只管、呪う。地理的に近い、ってのもあるんだけども「中国は民度が低い」「韓国は民度が」と言う。 

しかし、311で証明されたのは実は日本人の民度も相当に低い、って事だったと思う。ジンバブエの貧民以下、って言うか。 


確かに双葉町とか、其の周辺の人達は可哀想だとは思うよ。中には汚染地区なのに『原発給付金』(だっけ)を貰えない連中も大勢いるワケだし。 

でも、さ? 

って思うんだよな。 


ツイッターで『藤波心』と言うU15アイドルが原発問題に対して可也、シニカルな発言をする。この『藤波心』って根っからのグラドルで、小学生低学年の頃から水着で「M字開脚」なグラビアやってたんだよな。 
物心付いた頃から世間の極め付けみたいな場所に居る位だから、発言は学者や社会派よりも鋭いし、根性である。 

其れに対しての『脱原発派』に反論が結構、マヌケと言うか『馬脚が現れる』って言うか。 

「発言するのは良いが、言葉使いがなってない」 
とか 
「君の職業で何かいえる立場か?」 


とか。ネットの良さ、と言うのは回線の向こう側と此方側は基本的に平等、と言う事だと思うのだが、其処へ下らん大人の常識(非常識)が飛んでくる。 

U15アイドルで可也、露骨なグラビアもあるんだが、それに対しての「職業が」と職業差別、って言う。 


じゃあ、お前達は「言葉使い」と言うなら『野田豚』とか『政府は何やってんだ!』と言わずに「野田首相は」とか言っているのかよ?原発は大人の問題で、ガキは黙ってろ、ってか? 

グラドルの何が悪い?。じゃあ、藤波心がグラドルじゃなくてAKB48だったら良いのかよ?風俗嬢やAV女優は『脱原発』と言う知的レベルが高ぁ~~~~いお話に首を突っ込むな、ってか? 

死ねよ。本当に死ねよ。 




再度、私事で恐縮だが私の故郷は北九州市である。4大工業地帯である。夜になると工場のランプが綺麗だった。 

北九州市の公害っぷりは中々のモノだった。 

周りの障害児や奇形、私自身の皮膚病、母親の喘息、その他。 


其れが『普通』だと思っていた。『普通』と言うか北九州市の工業街は戦前から続くモノだったし、戦前~戦中は、あの糞みたいな土地が戦局の要だったワケで。 

だから、本当に『あの光景』『あの連中』が日本全国のデフォルトだと思っていた。 

じゃあ、北九州市民は公害や奇病を持ち出して「国に騙された」「財閥に騙された」と言うか?って言うと言わない。だって、それを望んだのは自分たちである、と言う事を熟知していたし、もっと言えば、其の後の結果、または目の前の結果を知ろうともしなかった。 

無知は奴隷時代の産物 
知識こそが自由 

だけども皆、奴隷で居たかったんだと思う。汚れた手を見たくなかったんだと思う。 


今は汚れた手を嫌でも見せ付けられる。其の手を見て、どう思うんだろう、と思う。 

2012年4月8日日曜日


『OM-2日韓コラボレーション企画 チェ•スンフン×日本人俳優「希望」』


を観にいった。『OM-2』は何度か観にいっているのだが最近、組んでいる『劇団チャンパ』の方は観たことがなかった。
『劇団チャンパ』と言うよりは、その劇団の主催者チェ・スンフンとOM-2の劇団員とのコラボレーションである。



仕事を早めに切り上げて日暮里は『d-倉庫』へ。



思い出したんだが、私が初めて『OM-2』を観にいったのは『d-倉庫』だった。友人に連れられて何の予備知識もなく(名前は聞いていたが)劇場に行くと、会場には


『公演中止』


とある。で、劇団スタッフがペコペコと謝りながら殆ど無意味となったパンフや折込チラシを配っていた。
仕方がないので友人と食事をして帰った。


話によると劇場を作る際と、近隣住民の反対だとかナンダカンダがあったらしい。


次は日暮里のホテルの劇場みたいなのを借りてやっていた。そこで初めて観たのだが私は『激憤』した。

「台詞がないじゃないか!!!」

「大体、登場人物の登場の仕方が駄目だ!
静かに登場しやがって!
演劇ってのは『登場こそが演劇である』んだよ!
唐組なんて登場の仕方とか『これぞ劇的』だぞ!
『劇団野戦の月』なんて『テントの天井から登場』とか『地面から登場』とか『燃える松明を持って登場(松明の火が衣装に燃え移って役者はヤバかったが)』とかな!
『つかこうへい劇団』だったら役者が客席からマイクで『マイ・ウェイ』を歌いながら登場とか、
野田秀樹だと客席から『自転車でかっ飛ばしながら登場』とか!
あと、10年以上前に観た『新宿梁山泊』はバイクで登場ですよ!客席からぁ!演劇っつーのは


登場シーンこそが演劇


なんですよ!」

「俺は福岡の劇団に居た頃は褌だけでダッシュで登場したもんだ!」


と思ったのだが、不思議と魅力がある。激憤したは良いが、不思議と観続けている。

「そもそも、あの劇団には『台本』があるのか?」

と思っていたんだが、一度、劇団員の人に台本を見せて貰ったが大凡『台本』『戯曲』と呼べるようなモノではなく、何と言うか現代音楽の『図形楽譜』とか、そう言う感じだった。




昨年は観てない。震災があったからだ。




あの震災の時、公演やライブを中止した人も多い。私もライブが2個ほど流れた。到底、出来る状態じゃなかったし。


因みに『OM-2』はこんな感じの舞台である。

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彼是とストーリーを書いても仕方がないし、文字で伝わるなら苦労しない。なので行き成り感想。



個人的に『震災後』と言うか、其れを『鎮魂』させるような舞台だった気がする。

役者一人一人の『震災』『原発』って言うモノを見事に昇華しているような、って言うか。勿論、そうせざるを得ないから、そうしたのであってテーマと言うより必然に近い。


開演前に演出を担当した『チェ•スンフン』の文章を読むと演出なのに滞在期間は二十日間。で、日に3~4時間しか演出出来なかった上に、言葉が通じない(韓国語)と言う事に関して不満と言うか、不安が書かれていた。

「え?!」

と思ったのはチェ•スンフン氏の文章に『アヴァンギャルド』と言う単語が2回も出ている。アヴァンギャルドなんて言葉を読む、聴くのは久し振りである。


だが、今回の『チェ•スンフン×日本人俳優「希望」』もそうなんだけども『演劇』と言うジャンルは、古典をやろうと、新作をやろうと、どうしても其れはアートと言うモノでの

『最前線』
『最前衛』

と成らざるを得ない、と言う気がする。似たようなモノで映画とか暗黒舞踏もあるんだけども、やっぱり映画はテーマとするものから100年後でも良いと思う。『タイタニック号の沈没』とか、『戦国時代』とか、無駄に古い方が映画ってのは上手い気がする。

暗黒舞踏やコンテンポラリーダンスは個人的に思うのだけども00年代に急速に駄目になった、って気がする。ホンッと糞みたいになった。ハードルが非常に低いモノになったし、当事者も桁外れに低いレベルで満足するようになった、って言うか。
凄い奴は凄いけど。



観にいった日は仕事で死ぬほど疲れていて、鏡で顔を見たら凄く疲れ果てていて、恐らく脱原発デモとかに参加している私を池袋中央公園に眠る『英霊』達が呪っているんだと思うが、兎に角、疲れ果て居てた。
友人と待ち合わせしている間に日暮里駅の本屋で『ココロが楽になる言葉集』なんて言うアホな本を読もうとしていた程である。
実際に読んでみたら『ココロが楽になる』どころか「こんなアホな言葉だと逆にムカつくんだが」と思ったが。


『OM-2』がやっている事は前衛劇ではない、って気がする。上記にも書いたが『演劇』と言うジャンルはどうしても、その時代の『最前衛』となってしまうから。其れは『チェルフィッチュ』や『東京セレソンDX』も『唐組』も『SCOT』も『文学座』も同じだ。手法が違うだけで、最前衛になることに変わりはない。

だから『OM-2』の舞台を見て正直、「前衛劇」と言う気はしない。ビジュアル的に前衛だとするならば、しかし、そのビジュアルは90年代にダム・タイプが遣り尽くしたし、『ダム・タイプ』登場以前にも80年代小劇場ではメディア・イメージを使っていたし。



殆どの事は遣りつくされている


ワケで。若しも「新しい!」と思う奴がいたら、其れは単に勉強不足なだけである。



舞台の出来は非常に良かった。OM-2の看板役者である『佐々木敦』氏は登場しなかったが、それでも素晴らしい出来だった。

凄く疲れていた私は、とっても幸福だった。

子供の頃に東京ディズニーランドの『エレクトリカル・パレード』を始めて観た時みたいにドキドキ、ワクワクだった。
もう、言葉なんて要らない、って言うか無駄である。

ホンッと良かった。


因みに、今回の公演に使われるとは思っていなかったのだが、依頼を受けて一曲提供しているんだよな。実はその事をスッカリ、忘れていたんだが公演中に流れて、役者が歌っているのを観て、もうクリエイターとしての幸福感はMAXを超える、って言うか。

依頼が来て『演劇』に対して曲をリミックス(作曲じゃなかったけど)をするのは初めてで、結構、難航して

「ギゃーーー!どーすりゃいーのさーーーー!」

となって、断ろうかと思った程だった。まだ『震災後』と言うか数ヶ月しか経っていない時期で、精神的に音楽に携わるのが結構、苦痛だった。
あの日から何もかもが変わった。其れに付いていけない自分、と言うか。誰もがそうだったと思うけども、キツかった。

「もう、無理!」

とPCでの作業を止めて深夜0時に近所の『ジョナサン』へ食事に行った。確かその日はリミックス作業で一日中、食事をしていなかった。


食事が来るのを待っていたら前の席に『大友良英』が座っていた。ノートPCを前に彼是と話し合いをしている。丁度、大友良英氏が『プロジェクトFUKUSIMA』をやろうとしていた頃だった。

「だからドミューンはこー言ってんだけど」
「でも、経済産業省が」

と言った会話が耳に入る。何だか自分がマヌケに思えた。大友良英はノイズ屋なのに、既に行動と言うか音楽から離れてない。寧ろ其れ以前よりも激しくコミットしている。

俺はコミット出来てない。


其処がショックだったし、ムカついた。食事が来て急いで書き込んで自宅に戻り、作業の続きを行い3曲の依頼だったが5~10バージョンで25バージョンを徹夜を繰り返しながらやって、何とか一曲だけ採用された。

思い出の曲である。

その曲が自分が考えていた状態とは可也、懸け離れた感じで使われていて、其れがホンッと嬉しかった。

自作曲は子供みたいなモンなんだろうか?だとすると子供がいる人ってのは日々、こう言う喜びを得ているんだろうか・・・と思った。



最近は恋人には捨てられるし、仕事は面倒だし、花粉症だし、泣きっ面に蜂なんだが全てに置いて「良かった・・・」と思える一夜だった。

良い舞台は、癒しになる。




終わってからロビーで一服していると、知人舞踏家が居た。既に酔っ払っていたが「こんなもん、俺がやっているWSの子達の方が遥かに良いぜ」と言っていた。「はぁ?」と思った。

この本人の舞踏は見ているが、レベルとしては結構な低さである。散々、舞踏というストイックな表現から逃げてきた奴のダンス、と言うか。只、イベントのプロディースやWSは堪能らしい。WSと言うか国内ではなく国外が殆どが其れは単に『英語が喋れる』とか、英語での言語感覚に長けているんだろう。
しかし舞踏家としては最悪である。

大抵の舞踏家は自分より優れているモノを観る、または知らないモノを観ると罵詈雑言である。

そう言えば最近、セッション(?)した舞踏の女の子がいた。終わってから「何処かに所属とかしたことはないの?」と聴いたら

「いや・・・集団でやるほどぉ・・・わたし、馬鹿じゃないんで」

と言っていて途方に暮れた。舞踏家として面白いか?って言えば寧ろ逆なんだけども。



なんだろうなぁ。2000年頃から『舞踏』『コンテンポラリー』って若手でも、桁外れに面白くなくなった気がする。レベルが一気に下がった、と言うか。でも、口だけは達者、と言うか。


舞踏にしろコンテンポラリーにしろ、ダンスである。日本舞踊やバレエが良い例で、ダンスだけどもストーリー性がある。と言うかなければ成り立たない。
ソロの舞踏家だと、もう完全に『一人芝居』『無言劇』の様相を呈してくる。古参の舞踏家が持つストーリーって、年齢もあるのか何処かセンチメンタルでロマンチズムなんだけども、古参じゃなくても、何らかのストーリー性ってあるんだよな。

バレエも日本舞踊もヌバ族のダンスも『ある種のストーリー性』と言うのは同じだと思う。

共有すべきストーリーが今はないのかもしれない。でも、共有すべきストーリーがないなら現場から身を引くしかない。

311以降のパフォーマンスはそう言うもんだ、って気がする。


チェ•スンフン×日本人俳優「希望」では私と舞台上の役者達が持つストーリーと言うか、心情と言うか、そう言うモノが共有出来た気がする。
恐怖にしろ、其の後の再生しなければ、って言う気持ちにしろ。

感情やリビドー、はたまた恐怖にしろ第三者と共有出来る、と言うのは幸せだ。


音楽で其れを行うのは至難の業、と言うか不可能に近い気がする。