思えば古い付き合いである門眞妙の個展に行ってきた。
■ 2013年8月30日(金)~9月18日(水) 12:00~20:00 (最終日~17:00) ※木曜日休廊
■ 門眞妙個展
■ 「美しい ending」
http://www.gankagarou.com/sche/201308monmatae.html
そう言えば彼女の初めての個展に私は足を運んでいる。2009年らしい。
当時の事を日記に書いているが、作品よりも彼女の内面を垣間見たような気がして、其処にだけ「ふーむ」と思っただけだった。
確か、まだ美大の学生だったはずである。
それから5年。
諸所の事情があり彼女の個展には行っていなかった。久し振りに観る個展。
画廊に入り最初に受けた感情は
『ショッキング』
『衝撃』
だった。作品の前で立ち竦んでしまう程だった。そのクオリティと完成度の高さに愕然・唖然とした。
その次に嫉妬すら覚えた。
其の位、彼女の作品のクオリティは高かった。
私は音楽をやっているが諸所の事情でソロとして演奏を始めるのが遅かった。『KO.DO.NA』の最初のライブは27~28歳だったはずである。其れまで何していたか?って言えば何もしていないに等しい。友人のライブに参加させて貰ったり、と言う程度である。
だから彼女の27歳と、私の27歳を比べる事は出来ないのだが、矢張り「修練してきた」と言う部分での嫉妬心と言うのは大きい。
創作が年月を得て完成度が高まっていく。そのスタート地点からして私は遅かった。彼女は早かった、と言う部分で。
其れと自分が『音楽』である事への落胆、と言うか。
彼女は絵画だ。で、『視覚』と言うのは可也、強い。人間の感覚で
1:視覚
2:嗅覚
3:味覚
は甲乙付けがたいTOP3だ。だが『聴覚』は可也、下になる。TOP3に比べれば可也、下だ。
「あらゆる芸術の中で音楽だけが時間軸の中で自由になれる唯一の手段なんだ」
とダモ鈴木は言うが、私はそうは思わない。
音楽は多分、漫画や演劇に近い。
その時間を追わないと物事がわからない、と言うか。もっと言えば音楽は
①紙芝居
②漫画
③パラパラ漫画
④演劇
⑤映画
と言ったモノに近いのではないか?と。紙芝居の1ページだけを見せられても困るし、映画を一瞬だけ見せられても意味が無い。
音楽も同じでルイ・アームストロングがどんなに偉大だろうと3秒程度では判りにくい。
音楽は此方側の自由を奪う。最初から最後まで聴いて下さいな、と言うのが音楽。最初辺りで帰ってしまう人もいるが、其れは演奏者側の不手際である。
で、45分とか25分とか、一定の時間を演奏者側と観客側で共有する、と言えば聴こえは良いが、平たく言えば『其の時間の拘束』なワケで。
絵画は違う。
此方側の自由を余り奪わない。クリスチャン・ラッセンにせよ、ゴッホにせよ、クラナッハにせよ、一瞬で観る事も、長時間掛けて見ることも可能で。
尚且つ、保存が出来る。だからラスコー洞窟の4万年前の壁画も観る事が出来る。
だが、音楽の保存は譜面が登場するのも可也、後年。しかも初期の譜面は「再現する為」と言うよりは演奏の為のヒントでしかなく、「其れを演奏できる人のメモ帳程度」でしかない。
音楽メディア自体の登場が20世紀からで、其れまでは譜面か『言い伝え』程度である。
音楽の脆弱さ、と言うのは他ジャンルと接すると嫌になるほど判る。其の作品のクオリティが高ければ、高いほどウンザリする。
音はストップボタン、または演奏するのを止めれば消えてしまう。風みたいなモンだ。
門眞妙さんは27歳。恐らく絶頂期に向っている処なんだろうなぁと思う。年齢的にも体力的にもそう言う時期だと思う。
女性の27歳と、男性の27歳は可也、違うから簡単に比較は出来ないが多分、一番、良い仕事が出来る時期ってのは、男女ともにそんなに変わらない気がする。
此れからも此方が愕然とするような作品を残し続けるだろう。
観なかった奴は人生を大幅に損していると思っても良いと思う。
諸所の事情があり、自分が20代後半の時に作った曲を聴き直した。「若気の至り」と思っていて、余り聴きたくなかったのだが、聴いてみると悪くない。
「あれ?俺、意外と出来ている・・・」
と思った。と言うか当時と今のコンセプトやアプローチの仕方等は余り変わってない。録音方法が違うだけで、そんなに悪くない。思えば再度、取り組みたい曲もある。
ライブでは殆ど理解されなかったけども、其れは『録音』と言う事だけに重点を当てていたからだと思う。ライブで再現するような曲は多くなかった。
確か、其の作品を作ったのも28歳の頃だった気がする。遅いスタートだ。
「頑張らなくっちゃね・・・」
と思った。最近は音楽を聴いて「俺も!」とは余り思わなくなってしまった。寧ろ他ジャンルのモノに触発される事が多い。
良い刺激だった。
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