2016年6月11日土曜日

公共性

杉並区の保育園反対運動についてなんとなく思ったのだが、この地区、と言うより日本自体に「公共」という観念が乏しい、または皆無なんではないか?って気がする。

かつては自治体と言うより寄り合いがあったが、寄り合いが公共性を持っていたか?って言えば持ってない。
村社会と言うが昭和の中頃までは都市部を除けば村しかなく、自分の村さえよければ他の村が潰れてもOKだったわけだし。




高円寺といえば風物詩的に『高円寺阿波踊り』がある。
だが、これも第49回目までが高円寺の阿波踊りで、50回目からは商業的な、それこそ劇団四季のような、お祭りでも何でもない、非常に糞面倒な日々になってしまった。

元々は商店街が主催だったから「儲からない」と言う理由でやめよう、と言う意見は多かったのだが、やはり好きでやっていた。

ただ、決定的に『廃止』が決まりかけたのは





『地域住民の苦情』






だった。


阿波踊りの連(グループ)は練習会場に困らなかった。近所の公園や、路上で好きなだけ練習が出来た。

そのため、本場:徳島県と並ぶほどの腕前を持つ連も少なくはなかった。

ところが49回目辺りから「練習する音がウルサイ」と言う苦情を言う人が激増した。
殆どが地元住民ではなく、他区や他市から引っ越してきた

『新規住民』


達だった。





それで存続が危ぶまれたがNPO団体が継続させた。
練習場所を指定し、練習時間も限られたものになった。
50回目から一気にレベルが落ちた。



高円寺阿波踊りが存続となったのは嬉しかったが年々、腕前や嘗ての熱狂と興奮が消えていくのは中々、悲しい物がある。

芸術は祝祭の中にある。

その祝祭は公共観念をベースとしたものである。

その公共観念が皆無な場所に芸術も祝祭もねぇよな、って。

だから、高円寺阿波踊りは49回目で終わってしまえば良かった気もする。

一年を通じて何のイベントもない街にしたかった人が多く、と言うか、その意見に従おうとしたのだから。

少なくとも、その公共観念を否定する人達に対しての言葉を持たなかった事は確実なわけで(話しあはされたと思うが、その結果が連のレベルの低下を招いた)。




岡倉天心曰く人間は花を捧げることで禽獣から脱した。
祝祭や美、芸術を愛でること。それが人間である、と。
だが、それを完全否定する人達がいる。
禽獣な人達。
禽獣に飲まれてしまう論理なんぞ論理ではない。
この世を砂漠とコンクリートだけにしたい、と思う人達がいる。
その人達を私にはアイドルを刺し殺そうとした犯人との相違が私には判らない。


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