2017年1月22日日曜日

ストラディバリウスっていたろ

風が強何処か湿っぽい。

風の日は何だか憂鬱になる。思い出したくない事を思い出しそうになるが、思い出せない。

こんな風が吹く日。私の脳裏には何時も、ある情景が浮かぶ。



薄暗いランプの元で年老いた男性二人が静かに呑みながらボソボソと話し合っている。手元には酒のツマミなのか細切れのパン。


チェーホフの『ワーニャ叔父さん』のような情景、と言うか。外に出ようにも風が強くて出る事が出来ない。
昔話ばかり。昔話しか出てこない。

昔話に登場する人物達は既に他界しているか、その地に居ない。

そんな連中の事ばかり話している。



「ストラディバリウスっていたろ」

「ああ」

「バイオリン職人の」

「ああ」

「変わった奴だったよ。家に閉じこもりっきりで」

「ああ」

「ニスがどうした、塗料がどうした、って」

「ああ」

「年中、呟いていたなぁ」

「ああ」

「五月蝿かったよ。毎日、毎日。ぎーぎー鳴らしてなぁ」

「ああ」

「俺にはアイツが作るバイオリン・・・だったけ?」

「バイオリンだ。アイツは笛や管楽器には興味がなかったからな」

「バイオリンか。俺にはアイツのバイオリンと他のバイオリンの区別が付かなかったが」

「俺もだ」

「アイツが死んだ時、息子のパオロがバイオリンを売っていただろ」

「そうか」

「俺の息子が欲しがってな」

「買ってやろうかと思ったら値段が高すぎるんで買えなかったよ」

「オマエの息子は今は水夫じゃないか」

「水夫は辞めたってよ。孫が病気で水夫の給与じゃ食えないんだと」

「何処も似たようなもんだな。俺も水夫で食えた事はなかったよ。・・・借金してばかりだった」

「俺もだ」

「オマエの息子は何しているんだ」

「今は競艇で食ってるんだとよ」

「ギャンブルか」

「そっちの方が稼げるらしい」

「・・・俺もそうすりゃ良かったな」

「俺たちの頃は競艇はなかったしな。麻雀も弱かったしな」

「ああ」

「ストラディバリウスだけどよ」

「アイツが死んだ時、葬式には出たか?」

「招待状は届いたがな。面倒だから居なかったよ。仕事もあったし」

「俺は嫁が四男を産んだばかりだったしな」

「しかし嫌な奴だったな・・・」

「ああ」

「麻雀で負けてもツケてばかりだ」

「ああ」

「清算する前に死にやがって」

「ああ」

「本当に嫌な奴だったよ」

「全く嫌な奴だったなぁ」



二人の会話は最後は必ず「嫌な奴だったなぁ・・・」で終わるのだ。
パン屑で机も手も汚れている。二人の身なりは貧しい。貧しいと言うよりは普段着と言うか。朝から晩までパジャマと言うか。

二人は不眠症。

どちらかが「寝よう」と言えばベットに潜り込む事も出来るが、ベットの中で不安な闇夜を過すのが怖い。お互いが言えない一言が
「もう、寝よう」
だった。

仕事はない。既に引退している。国民年金で遣り繰りしている状態だ。
2ヶ月に一度、12万円。月6万円。

部屋に隙間風が入るが寒くはない。湿った空気が憂鬱な夜を加速させる。
安眠の日は遠い日の出来事。


眠れたのは何時の日だったのか。思い出せない。
真夜中が楽しかったのは何時までだったのか。朝までドンちゃん騒ぎをしてグッタリとしながらも仕事をし、夜には寝る。
そして翌日にはドンちゃん騒ぎ。妻は激怒するが、子育てなんぞ男のする仕事じゃない。
妻を怒らせたくて、やっていた気もする。

妻は寝ている。昔と同じパジャマを着てナイトキャップ。彼女の寝息は昔と変わらない。
最後に性交したのは何時だったか。

妻はいつも猫と寝ている。




風は止みそうにもない。話も終わりそうにもない。

「嫌な奴だったなぁ」

と呟く。何回目だろう。

0 件のコメント:

コメントを投稿