2018年3月15日木曜日

愛と幻想のブラック・ミュージック/イエロー・ミュージック後編

『ブラック・ミュージック』と言うモノが確率され始めた頃。



其処へイギリスからビートルズが登場する。世界中が熱狂したし、アメリカも熱狂した。
其の際、黒人公民権運動家の先鋭だったマルコム・Xは

「彼等(白人)は私達(黒人)から大昔から搾取しつ続けた。だが、彼等が喜んでいるモノは私達が作り上げたモノであり、其れは劣化コピーでしかない」

と言っている。

ちょっと冷静に考えるとビートルズに『黒人音楽っぽさ』ってあるか?と思うのだが、ビートルズが大好きだった音楽がモータウンだったので(当時のイギリスのユースカルチャーはモータウン抜きには語れない)そうなのかも知れないが。

マルコムXとしては「俺達からパクリやがって!」と言わなきゃならない立場なんだろし、だからこそ上記のような発言になるのだと思うが『白人が黒人をパクった』と言うのは正しくはない。
厳密ではなく大雑把な意見でも

『黒人が白人文化をパクった』

が正しい。既に存在してた白人音楽に様々な理由(酒場で受ける、客受け、仲間受け。マスを無視した黒人音楽は皆無だ)で、『民族性』『人種』ではない理由で『色付け』したものが、恐らくブルースからヒップホップやデトロイト・テクノである。


前回、書いたようにYMOが「クラフトワークみたいな音が作れない」「紙とか竹の文化」と認識した時こそが、実は『イエロー・ミュージック』誕生だったんではないか?と思う。
イエロー・マジック・オーケストラだし。
『赤い自民服』
『意味のない歌詞』
『ローテクをハイテクに見せる』
『政治的イデオロギー抜きに軍服』
YMOは意図的、または自覚無しに日本っぽさをアピールしたが、其れは黒人音楽による、黒人が『黒人性』をアピールしたのと同じである。


ビートルズやローリング・ストーンズが1911年の黒人音楽事情の逆パターンを行い、いよいよ大御所のジミ・ヘンドリックスが登場する。

ジミ・ヘンドリックスは『非黒人』が考える『黒人っぽさ』を露骨にアピールした。其れは黒人(此の頃には既にヒスパニック系もいるから『白人&黒人』で考えるのは無理があるが)へのアピールではなく、白人である。

最初のマネージャーが『アニマルズ』だし、バンド・メンバーは本人以外は白人。

しかも、ジミ・ヘンドリックスが大好きだった音楽は『ボブ・ディラン』と『カントリー・ソング』であり、ジェームス・ブラウンでも、ハウリングウルフでも、モータウンでも無かった。

カントリーに関してはカーター・ファミリーが好きだったんではないか?と私は思う。カーター・ファミリーには打楽器がいなくて弦楽的な要素が強いが、発表はされなかったがブートでジミ・ヘンドリックスが4trレコーダーを使って『ギターだけ』で『ヴォードゥーチャイルド』を録音している。

『ギターだけで』となるとレス・ポールがやっているが、レス・ポールはカントリー・ミュージックに属する人である(当時のポップスは全てカントリーだが)。


ジミ・ヘンドリックスはブルース畑出身だから、一般論的に『黒い』のだが面白いのがジミ・ヘンドリックスとマイルス・デイビスとの共演が潰れた理由である。

当時、マイルス・デイビスはエレクトリック期だった。其処にジミ・ヘンドリックスを入れたがっていた。加入は無理だとしてもラボ的に試したかったんだと思う。
だが、ジミ・ヘンドリックスは『カインド・オブ・ブルー』のような演奏を要求した。
其れに対して双方が折れずに終わった、と言うのが真相らしい。

ジミ・ヘンドリックスが『カインド・オブ・ブルー』と言う、真っ白な音楽を要求したってのがミソである。
『カインド・オブ・ブルー』と言う名盤はマイルス・デイビスと言うよりも、ビル・エヴァンスの色彩が強い。
『マイルス・デイビス自叙伝』には「あのアルバムは失敗作だった。どうして受けたのか判らない」と言う発言があるのだが、マイルス・デイビスの思惑よりもビル・エヴァンスの思惑の方が強かった。
または、『if』ではあるが「ビル・エヴァンスがカルテッドを結成したら」と言うサウンドなのかも知れない(本家のビル・エヴァンスは、その後、更に過激なサウンドとなった)。


ジミ・ヘンドリックスに関しては多く語っても仕方がないから、そろそろ止めようと思う。
ジミ・ヘンドリックスについて詳しい人は沢山いるし、高円寺には『高円寺のジミ・ヘンドリックス』と呼ばれる人が、私が知る限り5人いる。
ジミ・ヘンドリックスについては『高円寺のジミ・ヘンドリックス』の方が詳しいと思うし。


現在のブラック・ミュージックと言えばヒップホップとデトロイト・テクノである。此の二つはコミニティ無き黒人文化の最後の一手!と言う青色吐息な気もするが。

ヒップホップのベースとなるリリックやリズミックな言葉の応酬は70年代には若い黒人層には存在していたらしい。だから、初期のヒップホップが『ラップ』と言いながらも『歌っている』部分が多く感じるのは、ストリートのラップを『そのまま』にやることは『芸がない』事だったのかもしれない。

初期のヒップホップがオールドスクールとなり、ラップが、其れこそ『ラップです!』となったのは、そのコミュニティでの言葉遊びが廃れて、リバイバルとなったのかもな、と思う。


ヒップホップ・カルチャーで重要な部分はターンテーブル。そのコンテストの『DMCバトル』は第一回を除けば可也、長い期間、黒人ではなく『ヒスパニック系』が優勝を掻っ攫っていた。
だから、私達がヒップホップを聴く際に聴く、ターンテーブルのテクニックや音の選び方、スクラッチ等はヒスパニック系が作った、と言っても過言ではない。
勿論、元々は黒人。
でも、そのターンテーブル2台でループって言うやり方もレゲエをパクったモノだしなぁ。

あと、此処は凄く重要なんだけども。

初期のヒップホップDJ達が愛した音源と言うのが二つある。

『クラフトワーク』
『イエロー・マジック・オーケストラ』

YMOに関しては幾らファンの私としても苦しい処があるのだが『D.J. AFRIKA BAMBAATAA / DEATH MIX』と言うCDでYMOの『ファイヤークラッカー』をリミックスしているので証拠物件と言うか。
YMOの海外戦略に関しては、A&Mが倒産するので『海外進出!』と言ってもHITしたのは『ファイヤークラッカー』だけだと思うが。

しかし、『クラフトワーク』に関してはグランド・マスター・フラッシュが「あんなファンキーな音を、ドイツの白人が作っている事が信じられなかった」と発言。
で、『クラフトワーク』はジェームス・ブラウンやスライ&ファミリーストーンが死ぬほど好き(思えばテレックスもスライが好きなんだよな)。

ヒップホップを黒人音楽、またはブラック・ミュージックと呼べない日は近いと思う。だって、今では小学生ですら父親に機材を買ってもらって歌っているし、エムネミの成功もあるし、もっと言えば『黒人の秘儀』であるトラックも小学生がシンセサイザーで作ってしまう。


最後はデトロイト・テクノだろうか。デトロイト・テクノの大御所のジェフ・ミルズは今はフランス在住で、ジャズを愛した国がフランスで、WW2以降、フランスに移住したジャズ・ミュージシャンは多かったが、似た行動と言うか。

デトロイト・テクノ自体が、デリック・メイだったかジェフ・ミルズか忘れたがシカゴ・ハウスの熱狂を見て「オラの村(デトロイト)でも、こげな熱狂ば作るっぺ!」と言う事で作られた音楽である。

シカゴ・ハウスは元々、ゲイ・コミニティの音楽であり、その排他性による静かな狂気のような熱狂っぷりは純文学作家である山田詠美の記述が非常に面白い。

「告知もないし、チャージはあるが、ドリンク(アルコール)はない。其の代わりに樽にリンゴが山積みしており、其れを食え、と言う。客は皆、ゲイでありドラックを使うのでアルコールが不要なのだ。良い男に限ってゲイだから、非常に寂しい」

だそうで。確か80年代後半から90年代に掛けてNYなどではスマート・ドラックが流行し、アルコールで酩酊することは『ダサい』事になっていた。スマート・ドラックと言っても心療内科が出すクスリなので、アルコールよりダサいんだけど、NYはそうだったらしい(らしい、である)。


デトロイト・テクノを語る野田努は「黒人は宇宙へと向かう」と凄い意見を言う。


少なくともNASAの宇宙観測隊に黒人は現状、居ない。だが、「宇宙へと向かう」と。其れはジプシーでも同じことが言えるやんけ、って思うのだが

「アフリカと言う故郷を喪失し、自らの黒人性(or黒人コミニティ)も喪失した黒人が向かう処は、彼等にとっての宇宙だ」

と言うか。手元に原本があるワケでもないのにスラスラと思い出せるのは当時の『エレキング』『リミックス』と言う雑誌で、親の敵の如く書かれていて、純朴な高校生は覚えてしまったからである。

実際、ジェフ・ミルズは宇宙をテーマとしたアルバムを出しているが「宇宙って感じか?此れまでの作品と変わらんやんけ」と思った。

使っている機材が一時期・・・今でも・・・物凄いプレミアが付いたのだが、実際のデトロイト・テクノの連中の機材ってアナログ・シンセは殆ど使ってないんだよな。リズムはTR-909だが、其れは『たまたま安かったから』であり、Drリズムとかでも良かったんだろうけども。
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恐らく『ブラック・ミュージック』と言う謎の音楽ジャンルが確立されているのは、そのデータの豊富さだと思う。

『ブラジル音楽』と言う言葉もあるが、国を表しているジャンルは多い。『スパニッシュ』や『ウィンナ・ワルツ』

『人種』『肌の色』をジャンル名にしているのは『ブラック・ミュージック』と『ジプシー・ジャズ』位なもんではないだろうか。

だが、そのブラック・ミュージックと言うモノは白人側(私は白人を『権力側』『制圧者』とは呼ばない。州や時代によって違うし、黒人とコミットしない白人も多かったはずだから)が作った

『幻想』

ではあるが、実の処、当事者である黒人が作った

『幻想』

でもある。ブルーノート・レコードがユダヤ系白人のレーベルだったように、『黒人VS白人』と言う単純な対立は1911年、ロバート・ジョンソンが生まれた時には既に皆無だった。
此の頃は白人居住地と黒人居住地が思う存分に分かれていたので関わりようが無かった事も原因かと思う。

しかし、『黒人VS白人』と言う対立図は黒人だけではなく、白人ですらロマンチックとさえ言える程、語っていた。
そして、その『白人VS黒人』と言う『善と悪』『キリストとユダ』『悪魔と天使』『資本家と労働者』のような絵柄となり、それは究極的にはロマンスであり『ロミオとジュリエット』『トリスタンとイゾルデ』のような絵柄となった。

だからこそ、世界中の非黒人が「黒人性なるもの」に憧れる事が出来た。

其れは存在しないモノだからこそ、憧れる事が出来るのである。其れが存在するモノであれば憧れる対象ではなく、研究対象となり、音に敏感な19世紀クラシック音楽家が『黒人っぽい』曲を大量生産していたはずである。
バッハが教会音楽と市井の音楽をミックスしたように。ラヴェルは『子供と魔法』『ボレロ』でジャズをモチーフにしているが、基本的なスタンスとしては「っけ!あんなニグロの阿波踊りが」と軽蔑の対象だった。其れはドビッシューも同じである。

つまり、ラヴェルやドビッシューにとって黒人音楽と呼ばれるモノ(ディキシーランドやブルース、ラグやブギ)は白人には真似が出来ない、特権的黒人性による特殊な音楽ではない事を理解していたはずである。



そんな事を考えながら飯を食っていて。

元々、

『ブラック・ミュージックと言う音楽は存在するのか?』

と言う事と、

『ブラック・ミュージックがあるとすればイエロー・ミュージックはあるのか?』

を考えていたのだがブラック・ミュージックに関してはデータが豊富なので私程度のウンチクは誰でも話せる。
問題は『イエロー・ミュージック』である。

「うーん」と考える。日本の歴史で音楽が重要なポジションを占めたのは平安時代くらいなもんである。
音楽と言うよりもノイズ・ミュージックのような『サウンド』『物語』が渾然一体となっているため、音楽だけを切り取ることが難しい。


其処へ。


坂口安吾の『安吾の新日本地理10 高麗神社の祭りの笛』から抜粋してみる。

能の原点はジャンル名すら付けられてない『舞い』だった。国立の神社で保存委員会がやっているのだが1時間から2時間の舞いと物語をやる。人と獅子が舞いながら音を出す。

「処が、この獅子舞はオスの二匹が取りっこするというけれど、実は隠れたメスを探しっこするのである。つまり、やっぱりカクレンボである。
『もういいかーい』
『まーだだよーオ』
と言う隠れんぼの呼び声は今や全国的であるけどれども、その発祥は武蔵野で、武蔵野界隈にだけ古くから伝わっていたに過ぎないもののようだ。此の獅子舞。笛の音と、繋がりがあるのではないでしょうか」

音楽のジャンルを定義するモノは大半がリズムである。

『隠れんぼ』での「もういいかーい」「まーだだよーオ」だとか、「グリコ、チョコレート、パイン」のリズミックな言葉使い。
軍艦じゃんけんの「せーんーそ!」→「軍艦、軍艦、朝鮮!」→「朝鮮、ハワイ、軍艦!」と言うスピード感。

此れが、実の処、宮廷音楽でも時代の流行でもなく、子供とは言えストリート的なイエロー・ミュージックだったのかも知れない。

音楽とは遊びであり游びである。

遊びとは音楽である。


音楽の発祥を奴隷制度と言う経済問題と絡めて解説されるブラック・ミュージックと言うものは、実の処、当事者にしても、評論家としても、愛好家としても、可也、『胡散臭い』モノなのかもしれない。

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