2018年10月25日木曜日

100年後の君へ


以前、呑み屋で「憲法9条は改正すべきだ」「軍隊を持たなきゃ駄目だ」と言う人がいて「うーん」と思った。
あと、友人でも「憲法9条とか現実性がない」「実質、軍隊なんだから軍隊にした方が良くない?」と言う意見もあって「うーん」と思った。

私は憲法9条改正に反対である。

理由は戦争なんぞに刈り出されたくないし、戦争なんぞしたくないからである。

だが、此れはキチンと言葉にしないと駄目なんではないか?と思う。

政治的な事柄を書くことは避けているのだが、このへんは避けられない。



憲法9条があるからこそ現状、日本は軍隊を持てない。自衛隊と言う組織は軍隊に限りなく近いが、最強と呼ばれるレンジャー部隊ですら訓練は国内に限る。
此れは自衛隊が海外での活動を前提としていないからである。
例えば米軍は世界各地に訓練所を設けている。
米軍の場合は本土決戦の経験がない国だし、国外での活動がメインだから。

軍隊と言うのは国防、内乱の鎮圧に使われるが『国防』をどう捉えるか?で考えると国外での活動も『国防』になるだろう。実際、米軍が中東でゴチャゴチャとやっているのも『国防の為』である。
実際には中東でゴチャゴチャとやっているのは米軍だけではなく、先進国と呼ばれる国の軍隊は大抵、参加している(殆ど第三次世界大戦)。

軍隊と言えば『徴兵』である。

軍隊と言えば徴兵である事は日本だと『防人』と平安時代からお馴染みの徴兵があった。第二次世界大戦中は学徒動員と言う事で大学生が派兵されたが、小学生の頃から色々とやっている。
第二次世界大戦末期は流石に極端な時代だが、此処で考えたいのは『徴兵』である。


世界最強と呼ばれながらも世界最弱の米軍は2008年のリーマン・ショックまで兵士不足に悩んでいた。徴兵制ではなく志願制度だったから。

リーマン・ショックが始まり、生活苦に悩んだ人達が軍に駆けこんだ。
其れまで兵士不足に悩んでいた米軍が「人は足りています」と断るっていたほどである。

あれは『経済的徴兵制』だったと思う。

お金があれば軍に行かなくても良いが、銭がないなら軍に行け。

そう言うふうに考えると『自衛隊』を『日本軍』にすれば新たな雇用先が出来るし、良いのではないか?とすら思えてくる。



しかし、果たしてそうなんだろうか?


『軍』と言う組織は有史以来、律された事がない組織である。従軍慰安婦問題、ソミン村、南京、色々と兵士の暴動は多いが、兵士や軍と言うのは政治団体ではなく、純粋な『暴力装置』である。
私は北九州市小倉南区と言うヤクザとシャブ中が闊歩する街で育ったが、自衛隊の駐屯地もあったんだよな。で、まだ冷戦の頃だから自衛隊ってのはヤバい組織だった。

ヤクザやDQNは怖いもんだが、訓練帰りの自衛隊の顔つきのほうが遥かに怖かった。

子供心に「兵士ってのは恐ろしい」と思ったもんだし。


自衛隊が常に広告を打っているように、自衛隊も人出が欲しいのかも知れない。だが、現状は志願制である。
『軍』と規定すれば念願の徴兵制が復活出来るかも知れない。

しかし、徴兵制の問題点は韓国が良い例なのだが、企業としては最高の『低賃金』で働かせられる最高の労働者を失う、と言う事である。入社1〜2年なんて「此処は新大陸アメリカですか?」と言うほどの労働量である。だが、この新卒達が企業としては最高に美味しい労働者であり、其れを失う事は経済的な損失はオリンピックを何度も開ける程ではないだろうか。


其れと。


例えば皆が大好きな安倍シンゾーと、その仲間達(官僚)が『2018年10月31日』から自衛隊を『日本軍』とします!となったとする。
まぁ、議会もあるし、国民投票もあるから、時間的に(在り得ない程、早く考えて)2年後になるだろう。選挙もあるから3年後かな。

名称が変わることで、其の時は何も変わらないと思う。

「日本も軍隊を持たなきゃねー」
「日本軍かぁ。70年ぶりに復活だねー」

と会社の昼休みに話せる程度のネタかもしれない。


此処で先ほど書いたように『徴兵制』である。其れが復活するのは、また議会の問題もあるし、選挙もある。
だから、『徴兵制』と言うのが復活するのは、現実的に見積もって10年後とかだろう。
もう少し早まるかも知れない。

自民党と言う圧倒的多数与党が本当に独裁的に行えば違うだろうし。

『多数決』と言う民主主義の原則にNOを言うワケではない。多数決のお陰で消費税10%(理想は30%)、地方は疲弊し、少子高齢化に格差で低学力。
多数決なんぞクソだと言う事は小学生の「多数決」で嫌と言うほど知っているはずだが、民主主義の原則なんだから仕方がない。

で、自民党がファシズムよろしく、頑張ったとしても物事には時間が掛かる。

だから、10〜15年後かもしれない。



此処からが問題なのである。



私は甥っ子と、姪っ子がいる。子供がいる人もいるだろうし、其のへんを走り回っている小学生を眺めている人もいる。
10〜15年後に『徴兵制』が復活するとなると、自分達の『孫』『子供』『甥』が戦場に行く可能性がある、と言う事になる。

結婚していない人もいるし、子供を持つ予定がない人もいる。

だが、私達は未来に対して責任を持つべきではないか?と思う。

その、今は木の棒にウンコを装着して走り回っているアホなガキを戦場に送りたいか?と。戦場に送る、と言う事は戦死者が出る、と言う事である。
戦死者は、日本国憲法では裁けない。

どんな兵士も戦場で死ぬ以上は『野垂れ死に』である。


『未来に責任』と言うと胡散臭い。


自分で書いていても「嗚呼、日本語は胡散臭い」と思うほどである。大体、『未来』と言う言葉は胡散臭い企業が使いすぎた。
本来は営利目的でしかないのに「未来」とか。
田舎のクソ万博とかな。

だが、俺は胡散臭い事を覚悟して言うのだけど、

『私達』は『未来』に『責任』を持たざるを得ないんだよな。

2011年の3月11日に震災が起こった。震災は自然災害だから仕方がないが、原子力発電所が爆発した。
福島県の原子力発電所を誘致した市長は「奇形児が一人や2人、産まれても別に良いではないですか!?街の発展の為には仕方がない」と発言していた。
原子力発電所と言うモノに楽観的だったのかも知れないが、戦中育ちとしては「多少の奇形はOKだろ」と言うモノだったのかもしれない。

だけど、あの時に恐れ慄いたのは私達である。

其れまでエネルギー産業や、その出処に対して全く無知で、全く無理解だった私達や私達より上の世代が起こした事件でもある。

と言うか、あの頃から産業、企業、仕事、社会が殺人鬼として若い労働者を殺すようになった気がする。東京五輪のボランティアで何人が死ぬのかなぁ〜と思ったりするが、既に日本と言う国は『国家』として体裁を捨てている。

脱原発派のアイドルである小泉純一が首相時代にやった事だけども。


今後、自分達が生きる時間の中で誰も殺してはならない、と思う。
私達が所属するシステムの中で死者を出すことは駄目だと思う。

私達は幸いな事にサヴァイブ出来た。其れは運かも知れないし、サヴァイブ出来てない気もするが、取り敢えずは生きている。

そのシステムで死ぬのであればシステムは根本から変えなくてはならないし、其のための変化は大いに受け入れるべきだし、それは私達が改革していなくてはならない、と思う。

私は41歳である。

だから、第三次世界大戦が起きても戦場に送られる年齢ではない(地獄の黙示録/カーツ大佐みたいな例はあるが)。

だけども、自宅周辺で走り回っている子供だとか、親戚のガキなんぞを戦場に送りたくはないし、サブマシンガンをぶっ放して欲しくもないし、F-2戦闘機は美しいフォルムだが乗ってほしくない。



『未来に責任』って、第二次世界大戦の時にも言われていたと思うのだけども、いつの間にか皆が忘れてしまっている事な気がする。



なんと言うか、俺は胡散臭い事を書いているなぁって思う。

仕方がないんだが。

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