2019年7月31日水曜日

サウンド・ピクニック:金子 由布樹

私達がいる音楽界隈は色々な事を言われる(複数形にするな!とお叱りを受けそうだが)。
曰く

『音響系』
『ポスト音響系』
『ポスト・ノイズ』
『前衛』
『オルタナティブ』
『現代音楽』
『アンビエント』
『電子音楽』

等など。『ポスト』という人もいるが何がポストなのか分からない。
『音響系』と言っても青山オフサイトには年齢的に行けなかったので分からない。
ノイズ・ミュージックには敬意は払えど、彼等・彼女達と共に歩けない。
『現代音楽』と言うのはアカデミックであり、私達は『野良犬』みたいなモノである。

であれば、前衛だろうか。


『前衛』は戦場用語であり、その戦場の最前線を『前衛』と言う。私達の『後衛』が何処にあるのか分からないが、少なくとも『何処かの戦場』の『前衛』に居続けている。

前衛だから二等兵、または一般兵である。
そして歩兵である。

何処まで行っても歩兵でしかなく、将軍や少佐と言ったポジションではない。

ただ、一点。

その戦場の最前衛で戦っている、と事。その戦場の激しさを知っており、同時にそのスリルや興奮、アドレナリン・ジャンキーである。



金子 由布樹氏について書いてみようと思う。



どうしても氏については書いておきたい、と思うから(削除しろ、と言われたら削除するしかないが)。



フリージャズ、シカゴ音響系、クラブ、アヴァンギャルド、現代音楽と言った音楽の先を考えていた。
既に音源化されているミュージシャン達は『前衛』から降りていた。

何故か、此方も最前戦に行こうと思った。

だが、どう言う手段を選択するのか難しかった。だから、色々な手法を講じた。



金子 由布樹氏との初対面は2009年である。


その頃、六本木Super Deluxeと言うイベント・スペースで『TESTOTONE』と言うイベントが開催されていた。

私も似たような企画をしていた事もあり、オーガナイザーのキャル・ライアル氏と親しくなった。

その際に酒の勢いなのか、話の流れだったのか分からないが

「一度、セッションしませんか?」

となった。それで高円寺『円盤』でイベントを主催する事となった。



その時にキャル氏が紹介してくれたのが初対面である。




腰が低くて、やんわりとした口調。



事前情報がなかったのだが、直ぐに親しくなった。氏は素晴らしい音楽を出す可能性の塊であり、他の共演者の演奏に左右されない強さがあった。

その時はカセット・テープ(ループ式のカセット・テープだったと思う)と水中マイクをエフェクターで加工していた。

後に、氏はPCを使う音楽家だ、と言う事を知った。





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其処からの思い出をツラツラと書いても仕方がない。

だが、それが縁で、金子氏が梅原 貴久氏と組んでいる『polyphonic parachute』のライブを何度も見る事になった。

金子 由布樹氏のdreamyな音、そして梅原氏の戦前カントリーのようなギターは、其れは素晴らしい体験だった。

上手く言葉に出来ないのだが、アンビエントともエレクトロニカとも違う

『何処にも所属しない音』

が転がっていた。


『何処にも所属しない音』は、デレク・ベイリーを誰もが研究したし、ジョン・ケージを誰もが研究し、エリック・サティも研究した。

それは「何処にも所属しない音」の研究だった。


前世代には「フリージャズ」「ロック」と言った前世代には自由な音楽が合ったかも知れないが、そうではなく

『何処にも所属しない』

と言う事が目的だったと思う。


『所属』『ジャンル』になってしまうと、それは死ぬ事と同じような気がした。

少なくとも音は死んでしまう。なんとか砂粒のような音を積み重ねてサウンドを構築しているのだが、所詮は砂山であり、気をつけないと直ぐに崩れる。

『音楽』でありながら、『何処にも所属しない』と言うのは『ジャンル・レス』と言えば聴こえは良いが、子ウサギのように直ぐに死んでしまう、繊細な場所だった。


当時、金子 由布樹氏がどんな事を考えていたのか分からない。だが、金子 由布樹氏、同時代の音楽家は同じことを考えていた気がする。

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私がpolyphonic parachuteのライブを観に行ったりしていた頃から金子氏はレーベルを運営し始めた。

そして、自身のpolyphonic parachuteも音源を出す・・・!と言う。

レーベル運営なんて、誰も行っていなかった。そして、そのオカネにせよ、流通にせよ、何もかも不透明だった。

穏やかで、腰が低く、やんわりとした男性が、その修羅場に行く・・・と言うのは想像が付かなかった。
まだ、CD-Rで作品を出すのが精一杯だった頃なのである。

金子氏のレーベルは順調そうに見えた。だが、物凄くギリギリの路線を狙っていた。金子氏は何処から見つけてくるのか素晴らしい、そして『何処にも所属しない』ミュージシャンを浮上させていた。

その目利き(と言うと失礼な気もするが)は不思議で仕方がなかった。

だが、肝心のpolyphonic parachuteの音源は出来ていなかった。音自体は出来上がっていたが、ミックスダウンやマスタリングを自分たちでやっていたので、完成形が先になった。


そして、漸く発表された『polyphonic parachute』の音源は、長い時間を潜り抜けて、そして『再生可能なメディア』であるにも関わらず、何度、聴いても違う音に聴こえる、と言う偉業を達成した。

あの頃、最高に最強だった音源はpolyphonic parachuteのCDだった。これは間違いない。

サンプリングしようか?と思ったが、何処もサンプリング出来ない程、音に深みがあり、誰も真似が出来ないモノだった。




何処かで聴いた事がある音。

いつか観た風景。

何処かで匂いだ香り。

だが、それは何処か分からない。何処でもない場所。観たことがない風景。

しかし、行った事があり、観たことがある場所。

何時だったのか分からない。

産まれる前かもしれない。

死んだ後かも知れない。



金子氏は自身のレーベルを「POPSだ」と言っていた。確かにPOPSだった。



私事で恐縮だが、幼い頃の話である。

夜が怖かった。本当に恐ろしかった。寝ていたら死んでしまうのではないか?と意味不明な恐怖があった。
だから、眠れなかった。

それが解決されるのは、両親から貰ったカセット・デッキだった。一緒に貰った『ゴールデン・エイジ・ポップス』と言うテープには50〜60年代のPOPSが収録されていた。

九州の山深い、闇の中で小さなボリュームで再生されるオールディーズは、絹のように柔らかく、羽毛のように心を包み込んでくれた。


それがPOPSだった。


それが金子氏の言う『POPS』だった。


オールディーズが元々はロカビリーやロックだったのかも知れないが時間の経過と共に、熟成に熟成を重ねたウィスキーのように柔らかくなった。

「もしも、子供の頃に金子氏が音源をリリースしていたら、俺はもっと長く眠れたかも知れないな」

と思った。

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しかし、不思議だった。

金子氏は、やんわり、穏やかな風貌であるにも関わらず、どうして返す刀で尋常ではないアグレッシブさがあるのか。

普通に仕事をしながら、何処から見つけるのかトンでもないミュージシャンを発見したり、自身でも物凄い熱量でサウンドを構築していた。
同時に、イベントを主催したり。

一体、氏の何処にどんなヴァイタリティがあるのか・・・。

要するに私も含めて誰もが自分の事だけで精一杯だったのである。誰かを浮上させたり、熟成させたり出来なかった。

金子氏は関係がない話だが、嘗てRANKIN TAXIと言うレゲエDJ兼シンガーは、会社帰りにDJをしていた為、スーツでレゲエDJを朝までやっていた。そして、出社。

「そんな真似は出来ない」

と思っていたのだが、金子氏は涼しい顔で行っていた。氏の内心が涼しかったかは分からない。
逆にサハラ砂漠の熱風のような内面なのかもしれない。


金子氏の企画イベントで千駄ヶ谷に『LOOPLINE Cafe』と言うハコで演奏した。


其処には氏の『POPS』感とは程遠いミュージシャンも多く出演していた。勿論、集客は少ない。自分たちの熱意や熱狂と、他者が違う事は理解していたから、客数はどうでも良かった。
ただ、必死で素晴らしい演奏を目指していた。
それは金子氏の企画では何故か達成される事が多かった。

其処で初めて出会う人、素晴らしい音楽家と出会えた。

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此処まで書いて思ったのは「あれ?私は金子氏と一緒に演奏した事がない・・・」と思ったのだが、違った。

一度だけ一緒に演奏している。

それは『polyphonic parachute』で六本木スーパーデラックスに出演した時の事である。

確か20人近い人数で出演した。

音楽家ではない人も多く、普段は漫才をやっている・・・と言う人もいた。彼等・彼女達にピアニカや何かしら楽器を持たせた。


私は、その頃、あるバンドを脱退していた。脱退と言うよりも自然消滅だったのだが。
それにより、そのバンド・メンバー達とは決して良い仲ではなかった。

だが、集められたので、集まった。数年ぶりの再会だった。

リハーサルではピリピリしていたのだが(私と、元メンバー達)、本番が始まると何もかもを忘れた。

簡単なスコアと言うか指示表があった気がする。

音が始まると

『金子 由布樹』

『梅原 貴久』

と言う巨人に抱かれる形となった。


自分の音がモニタリング出来ていたのか分からない。誰が、誰の音か分からない。だが、演奏中は此れまでにない体験だった。


何処に連れて行かれたのか分からない。

何処に行くのか分からない。



幼稚園や小学校低学年の時の『遠足』『ピクニック』のようだった。誰かが軸をとって演奏するのではなく、両人による『サウンド・ピクニック』だった。


あれほど幸せな音楽体験は一生、忘れることは出来ない。


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実は氏が、現在進行形でやっている『鳴らした場合』に関しては実は聴いていない。色々と生活が変化したり、仕事などで聴くタイミングを逃したからである。

今回、こうやって書こうと思ったのは理由がある。



数ヶ月前。


江古田フライング・ティーポットで金子氏がベース、ギター、氏と言うセッティングで演奏をした。

1stは探り合いだった。


だが、2setである。


金子氏が何気なく『サイン波』を出した。


ピー・・・・


椅子から転げ落ちそうな程、驚いた。サイン波なんて誰でも出せる。取り立て難しいサウンドではないし、DAWだとプリセット音として入っている。

だが、氏が出したサイン波は途方もなく美しかったのである。

理由は分からない。


サイン波は誰が出しても『サイン波』である。シンセサイズで作れる音と言うモノではなく『音の元素記号』みたいな音なのに、途方もなく美しい!。

『ファウスト』ではないが「時よ止まれ・・・」とさえ思った。


演奏終了後に、サイン波について聴いた。


「やっぱり、出す人によって違ってくるんかも知れないですね」


と涼しげに言う。


話が前後してしまうが、金子氏は本を数冊書ける程のグルメでもある。料理の達人が『米』を炊くのと、素人が炊くのでは違ってくる。


あゝ、この人が作る音と言うのは『自画像』なんだな、と思った。


寝ても、覚めても、夢の中でも、胃袋でも音楽家。

だから、レーベルでも自分の企画でも、何でも彼の音になってしまう。彼は自主企画をやろうと、呼ばれて演奏しようと、何もかもを料理してしまう。


其れが『金子 由布樹』と言う巨人なのだと思う。

その真髄が、あの日の江古田フライング・ティーポットで見せた『珠玉のサイン波』だった。







2019年7月8日月曜日

主戦場/ネタバレあり

先日、『主戦場』と言う映画を観に行った。 






従軍慰安婦問題は私も10年以上、モヤモヤしたモノを抱いていて、その背景とか色々を知りたいからである。 
インターネットで調べようと思うと、インターネットの特徴なのかもしれないが 

『馬鹿な右翼』 
『馬鹿な左翼』 

が、非常に分かりにくい文体で書いているのでウンザリする。 




で、『主戦場』。 

私の投稿を観て「よっし!この映画を観に行こう!」と言う奴ぁいないので、ネタバレ上等で。 



まず、従軍慰安婦問題で『従軍慰安婦は居たのか?』で言えば居た。
写真も従軍慰安婦だった人も記録も軍の書類も残っている。 

問題なのは 


「強制連行だったのか?」 


と言う所である。 

この部分でウヨクな人々は靖国の英霊を右手に集めて殴り掛かってくる。 
もう一つが 

「彼女達が性奴隷だったのか?」 

である。「彼等は性奴隷だったのか?」だったらBL漫画数冊が書けるのだが1943年の日本軍でガチホモは多くはない(日本軍でガチホモと言う設定での傑作は『戦場の挽歌』と言う小説がある。素晴らしい文体なのでググって読んでほしい)。 
因みに奴隷の定義は国際連合が1926年に定義している(当時の大日本帝国も署名している)。 
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「その者に対して所有権に伴う一部またはすべての機能が行使される個人の地位または状態をいい、『奴隷』とはそのような状態又は地位に置かれた者を言う。 
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結論から言えば 


「強制連行であり、性奴隷だった」 


である。 


『強制連行』『奴隷』は殆ど同義語である。 
奴隷の定義は国連が定義しているが、従軍慰安婦達が高額所得を得ていた、としても(例えウヨク側が主張するように彼女達が高額所得だったとしても)奴隷である事には変わりがない。 
そして強制連行だが、まず『自由意志ではない』と言う部分である。そして『それを自由に辞める事が出来ない』と言う部分である。 



強制連行だったし、性奴隷だった。 
じゃあ、これを何故、日本政府やウヨクが認めないのか?と思っていた。 
国を愛するならば過去の過ちも愛するのが『愛』ってもんだろ、と。 



ところが『主戦場』を観たら事情が違っていた。その事情ってのが物凄いんだけど、つまりは『女性差別』なんだよな。 
ネトウヨの大御所みたいな人は「フェミニスト運動ってのはブスが始めたんだ。見た目も悪けりゃ中身も悪い、って言うね」「ブスとSEXする為には顔に紙袋を被せなきゃ無理だ」と平然と言う。 


それと、戦前~戦中の日本において『女性』と言う人々に『人格』なんて無かった。 
『自由意志』と言う観念すらなかった、と断言出来る。 


映画『この世界の片隅に』で驚くのは 

「会った事もない男性と突然、結婚させられる」 
「処女を失った翌日の朝4時には炊事洗濯、家事を永遠のように行う」 
「戦争で四肢欠損となっても仕事量は減らない」 

である。国内で、この有様なので他国だと更に・・・ある。 

婚姻と言う奴隷制度である。 




当時の日本軍にすれば他国の女性と言うのは『犬や猫』と同じニュアンスだったらしい。 
だから、どんな手段であれ連れてきた女性が「強制的に連行された」と言っても理解出来ない処がある。 
判りやすく言えば全国津々浦々に 

『猫カフェ』 
『子犬カフェ』 

がある。 

その猫や犬が、発言権を持ったとして

「私は道を歩いていたら、誘拐されたのです!」

と言っても、 

「いや、猫ちゃん。君はキャットフードを食べたし、グルーミングもしてあげたし、子猫を3匹も産んだじゃないか?。強制連行と言われるのは心外だ」 

となる。 


ようするに『従軍慰安婦施設』と言うのは現代の『猫カフェ』だった、と言うか。 
少なくとも当時の大日本帝国海軍、陸軍にとっては『猫カフェ』程度だった。


そして、その『女性に対して人権を認めない』と言うのは戦中の話ではなく、現代でも同じなのである。今は『女性』に限らず、『人権』と言う言葉は万葉集の和歌の一節のような響きになりつつあるが。 

『従軍慰安婦』の時代には女性には人権も自由意志もなかった。 
しかし、それは現代でも同じである・・・と言うか。 

そもそも、日本と言う国に『人権』があった時期が1秒でもあったのか?と言うか。 



国民は社会の奴隷であり。 

政治家は老いた有権者の奴隷であり。 

資本家は株主の奴隷であり。 

株主はシステムの奴隷であり。 



リストカット、自殺未遂と言った行為は、それに対しての静かなアンチ・テーゼなのではないか?と気もしてくる。 

若年層の自殺は先進国TOP1は伊達ではない。 




ネトウヨ達が、どうして『従軍慰安婦』問題を「なかった」と言うのか。と言うかネトウヨ達の「従軍慰安婦は無かった」と言うのは証言者である元・慰安婦達の『存在自体を否定』と言う罵倒よりも酷いスタンスである。 

其処へ元・保守派と言うかネトウヨだった女性が言う。 


「ナショナリストは自国のミスを認めたら、ナショナリストではいられないのです」 
「しかし、その結果、私には敵が消えました。今では自由です」 


つまり、ナショナリスト(ネトウヨ)は『自由ではない』のである。その『自由を制限された人々』が、かつて『自由を制限された人々』を罵倒する。 

そうする事でしか、自分が自分でいられない・・・と言う脆さを感じる。 

同時に、そうする事が絶対に正しい!と主張する人々は恐ろしい。正直に怖いし、不気味だ。 


『櫻井よし子』は日本会議だし、ウヨク。 

だが、私がKIDだった頃の『櫻井よし子』はニュース・キャスターであり、バイリンガルで容姿も素敵だし、意見もキレがあり、「素敵な大人の女性」と言うモノだった。 

現代では既に『妖怪』になってしまった。 


ナショナリストと言うのは病なんだろうか。 



で、加瀬英明と言う人物がいる。この人はエール大学、コロンビア大学に留学した経験があり、政治にも関わっている。 
オノ・ヨーコの『従姉』である。 

この人が言っている事が無茶苦茶過ぎて唖然とした。 

オノ・ヨーコと、彼がどのくらい接点があるのか分からない。ただ、 

「オノ・ヨーコのラブ&ピースの思想と、ネトウヨ、ウヨク的な思想は相性が良いのかもな」 

と思った。 

ネトウヨと言うよりも『日本会議』だが、この『日本会議』には神社庁も絡んでくる。 
嗚呼、面倒臭い。 


だから、スピリチュアルな事が好きな人は何故か神社も好きである。守護神とかオーラとか。 

安倍晋三の妻が大麻推進派だが、神社で振り回される白い奴は元々は『大麻』『麻』である。だから、神道や神社もOK。 

あと、『神道』もスピリチュアル系は好きだ。しかし、『神道』って明治時代なんだよな。死物狂いで遡って江戸時代末期。 

いつの間にか『古来より信仰されてきた日本の宗派』になっているが、そんなワケがねぇだろ。 

以前、出馬して落選した『三宅洋平』も、選挙期間中は『アンチ与党』だったが、落選後に安倍晋三と電話で話したら号泣しながら感激。 
「お互い世界を愛し、国を愛する憂国の士である」 
らしい。 


従軍慰安婦問題についての映画を観たら 

「人権を認めない人達が、人権を認めない」 

と言う物凄い状態を目にして、正直、不気味で怖くなった。 

2019年7月6日土曜日

世界をチューニングする男/直江 実樹

ジミ・ヘンドリックスがウッドストックで『星条旗よ永遠なれ』を見る。




この映像は映画『ウッドストック』でも最高のシーンだが、不思議な感覚を覚える。


演奏者はジミ・ヘンドリックスと言う20代後半の青年のはずなのだが「演奏をしている」と言うよりも
「淡々とチューニングをしている」と言う印象も受ける。

湯浅学氏は嘗て、ジミ・ヘンドリックスのギターを「ギターが勝手に鳴っている。」と表したが、まさしく、である。

そう言う事はジミ・ヘンドリックス以外だと余り見当たらない。ジョン・コルトレーンは素晴らしいサックスを吹いたが「ソプラノ・サックスが勝手に鳴っている」と言う感じはしない。





色々な処で散々、紹介されている気がするが直江 実樹』氏を書いてみたい。



私の稚拙な文章で氏が気を悪くしなければ良いのだが、指先が思うように書いてみよう。




『直江 実樹』と言う存在を知ったのは何時だったのだろうか。2005年よりも前だった気がする。
まだインターネット環境は全体的に貧弱だったので『口コミ』『評判』等が強かった。その中で

『ラジオ選曲家』を名乗る人物が登場した。短波ラジオ選曲家だったかも知れないが、『選曲家』と言うのはDJであり、ラジオを選曲?と言う事で驚いた。

今は無い『マイスペース』で直江 実樹氏が登場した時に音楽仲間の間で話題になった。

「ラジオを楽器にしているらしい」
「ラジオ選曲家って、なんだ?」
「ジョン・ケージみたいな人なの?」
「現代音楽の生き残り・・・みたいな?」

YOUTUBEは無かった。YOUTUBE自体、出来上がったばかりで動画のUPの方法も分からなかったし、何よりも動画の長さは3~5分が限界だった。

だから、会う、または彼の演奏に接する事でしか音楽を体験する事は出来なかった。



其処で「直江 実樹と何処で、どう出会ったのか?」と言うのを思い出そうとするのだが、全く思い出せない。



まるで小学生からの同級生や幼馴染のような感じもする。



その頃、渋谷系から始まり、現代音楽、HIPHOP、ブルース、音響系、シカゴ系、フリージャズの再構築と再考、ジャズ、1969年前後の世界各地のロック、オルタネイティヴ、クラブ系。

雑多な音楽を浴びるように聴き、「どうやったら、次の音楽を作れるのか?」と言うのが私がウロウロしていたシーンの課題だった。

「次の音楽」ってなんやねん、と言う気もするが、そう言う気分だったのである。

音、サウンド、その彼方。

コードやリズム、ハーモニーではない音、サウンド、その向こう、彼岸の音を目指していた人達は場所や時間を問わずに出会っていた気がする。


そこに直江 実樹氏がいた。




初対面の直江 実樹氏の音は、友人から聴いていた評判を遥かに上回る素晴らしさだった。氏が抱きかかえている古いラジオは『名機』らしいのだが、私には分からない。
音も素晴らしかった。


何より印象的だったのは、氏が演奏すると、必ず素晴らしい音、サウンド、声、台詞・・・その他、全てが彼を媒介に飛び込んでくるのである。

ラジオにはアンテナが必須だが、そのアンテナが『直江 実樹』氏であり、ラジオは勝手に鳴っているだけであり、直江氏は、その媒介になっているだけのような印象を受けた。


直江 実樹氏がチューニングしているワケではない。

電波が直江氏をチューニングしている。

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演奏以外での直江 実樹氏は穏やかな人である。紳士な人である。

一度だけ「何処から演奏を始めたのか?」を尋ねた事がある。
氏は「演劇の音響」と答えた。

『演劇の音響』と言うが実際に演奏するワケではない。指定された場所で指定された音をCDやカセットテープで流すのである。

私もやっていた事があるのだが、あれはクラブDJの頭出しよりもシビアであり、キマった時の快感は中々、乙なものである。

舞台と言う1時間半から2時間のリズムの中で音を出すのであり、垂れ流せば良いワケではない。



ただ、『どうしてラジオを楽器として使うようになったのか?』は分からない。



直江 実樹氏と話していてNOISE系の話題が出た事は一度もない。個人的に好きなノイズ・ミュージシャン(SEED MOUTH)は居たようだが『好き』と言うよりも『師』と言うモノでもあった様子である(この辺は直江氏に直接、聞いたワケではないので憶測でしかないのだが)。

直江氏の口から出てくるミュージシャンは常にシンガー・ソングライターやファンク、それも80年代のブーツィー・コリンズだったりする。

会えば、会う程、雲を掴むような人である。

だが、演奏中はパリ万博でのニコラ・テスラのようなCOOLさ。そして他の共演者を食い散らかす凶暴さと獰猛さ。

演奏終了後の優しさ。

憑依している、としか言いようがない。『電波』と言う得体の知れないモノが氏に憑依している・・・そうとしか言いようがない。




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中学生の頃、両親が使っていたオーディオを貰って、ラジオのエアチェックに夢中になった事がある。
九州の北部だった為、チューニング中に北朝鮮や韓国、米軍の放送が何時も入った。北朝鮮の放送は常に力強く、何かをプロバガンダしていた。米軍は常にリラックスして笑い声ばかりだった。

九州の辺境であり、草深い田舎町で「素敵な音楽」と出会う為にはチューニングし続けるしかなかった。

その数年後。

「あ、ラジオは楽器になるんではないか?」

と思った事がある。福岡県の田舎町なので現代音楽なんぞは知らない。

ただ、その頃、ミニコミ、またはフリーペーパーが流行っていた。北九州市戸畑区で現代美術家にインタビューを行った。インタビューはラジカセで録音した。

帰路の駅は海沿いの静かな、人気の無い駅だった。

到着する電車20~30分後だった。

ふと、「此処でラジオを付けたら何がキャッチ出来るんだろう?」と思った。中学時代の実家では北朝鮮と米軍だったが、此処では?と思ったのである。

その時に海沿いだが、山沿いでもある妙な立地の為か、美しいサイン波が流れた。その音に感動した。

「これを楽器として使えれば面白いのでは?」

と思ったが、再現性がない、と言う問題で止めた。実にツマラナい青年である。




直江 実樹氏も、恐らく・・・全くの憶測だが・・・私と同じようにラジオから美しい音を体験したのだと思う。

それを継続するか否か。


直江 実樹氏は継続し、私は諦めた。

諦めたのではない。

直江 実樹氏は『選ばれた』

私は『選ばれなかった』


の違いである。だが、同じ経験をしている人は多いと思う。然し、『電波に選ばれた』と言う人は直江 実樹氏だけである。

選ばれし者の恍惚と不安・・・。

思えば直江 実樹氏は演奏中、非常に神経質な表情をすことが多々ある。それは『選ばれし者の不安』なのかもしれない。






先に

『COOLで凶暴な側面を持ちながらも、演奏終了後は紳士であり優しい直江 実樹氏』

と書いたが、この部分を説明する為に冒頭のジミ・ヘンドリックスがいるのである。



ジミ・ヘンドリックスも普段は礼儀正しく、腰が低い人物だったらしい。
恐らく、それは彼が長年、仕事として関わり続けたブルースやR&Bの世界では当然の事であっただけかも知れない。

もしくは、ジミ・ヘンドリックスと言う人物が『ギターを演奏している』ワケではない。彼自身は空っぽの存在であり、『エレキ・ギター』と言うモノが彼の人格だったのではないか?。


それと同じく、直江 実樹氏も、本質的には紳士であり、優しさに溢れた人物だが、そう言う人物は時折居る。
直江 実樹氏はラジオを手にした時の『直江 実樹氏』こそが氏の人格や性格、そして戦い方なのではないか。


直江氏と演奏した事は何度かあっただろうか。


考えてみると殆どない気がする。圧倒的にリスナーであり、対バンだった。



直江 実樹氏は空を飛べるのか?と思うほどフットワークが軽い。
然し、その芳醇な音のワリにはソロが余り多くはない。
過去にVELTZレーベルから音源を2作出したキリで、後は有志によるライブ録音、録画である(この2作は傑作中の傑作だった)。

だが、氏の音はマイクロフォンで増幅される音ではなく、その空間に音を紙飛行機のように柔らかく飛ばし続ける音である。

是非、氏のライブに足を運んでほしい。

50年前に作られたラジオとは思えない芳醇な音、そして柔らかく憑依した氏の姿は常に感動と共にある。

氏がチューニングしているのはラジオだけではなく、会場で場を共にしている人々の心かもしれない。