2012年10月12日金曜日

破壊のとき/喜びのとき


福島第一原子力発電所の原子炉格納容器内に水が給っており、原子炉格納器内部の放射線が毎時九八〇〇ミリシーベルト。
人間が行けば40分ほどで死んでしまう状態らしい。



こう言うニュースが嫌でも目にする。

で、ふと思ったのだけども福島第一原子力発電所についてのニュースが報道される度に実は都内の人々は「喜んでいる」んではないか?と。
福島第一原子力発電所から来るニュースは常に最悪のニュースばかりだ。

一時期、被災地で知り合って結婚しました!みたいな「ほのぼのニュース」があったが、福一からは、そう言うニュースは皆無である。


「福島第一原子力発電所の収束作業で知り合った男女が結婚しました!」

とかない、ない。


私には何処か東京都の人々が福島第一原子力発電所がもっと最悪の事態に行ってくれるように願っている気がする。例えば4号機が滅茶苦茶に壊れちゃったり、1~4号機がもっと最悪の事態・・・とか。
もう一度、震災が起きて完全に駄目になる、とか。

何と言うか

「東京の人々は死にたがっている」

と言う気がする。原発反対運動は盛んだ。だが、内心は「死にたがっている」ように思えてならない。


と言うか


皆、死にたがっている、と言うか。意味不明なノルマに日々、追われているのに疲れ果ててしまっている、と言うか。
其処で自殺、と言うアクティブと言うかポジティブと言うか行動力のある人は全国で年間3万人程度で、たったの3万人なのである。

多分、自分で死ぬ、では目下のノルマを前に動けないし、だから第三者と言うか見えない何かに殺されるなら良いかな、と言うか。




東京と言う街は地方や第三世界からの採取で成り立っている。其れは経済都市として当然だろう。単に天皇が住んでいるから首都ってワケでもない。東京ブランドなんて戦後60年程度なんだけども、何故か成立している。
其れは戦後を生き延びた連中が糞だったからなんだけども。

で、東京と言う街は何か?って言えば

『フォックスコム以上の工場』

と言うか。

生産の為の生産。消費の為の消費。労働の為の労働。

最早、誰もが何の為に働き、何の為に消費し、何を生産しているのか判らない、と言う感じがする。
其処へ魔法の言葉。

「之も仕事ですから」

だが、「何が仕事なのか?」と言う疑問を持つ事はタブーとされる。



ありとあらゆるテクノロジー、芸術、哲学、思想、そして仕事は『何故?』と言う問い掛けから始まると思うのだが、その『仕事』『社会生活』に一旦、入団すれば『何故?』と言う問い掛けは禁じられる。
不気味な宗教みたいだ。

それに疲弊している、と言うか。


多分、震災とか原発ってのは東京と言う街への60年ぶりの「何故?」と言う問い掛けだったんだと思う。メタファーだけども、その問い掛けに皆、戸惑っている。だからお花畑的な連中もゴロゴロと出てくるし、『ニワカ反原発』が意味不明な事を言って馬鹿にされる。





ちょっと話はズレるのだけども一時期

『何故、人を殺してはならないのか?』

と言う疑問と同時に

『何故、自殺してはならないのか?』


と言うのがあった。その頃からメンヘラ系ってのが大勢出てきたんだけども、色々な精神科医や様々な経歴を持つ人がシドモロになりながら答えていた。

「私はアナタに死んで欲しくない」

とか。だが、赤の他人にしろ親にしろ「其れは俺の勝手だろ?」となれば話は終ってしまう。




大昔にショウペンハウエルが『自殺について』と言う本を残している(岩波書店)。内容としては

「神が定めた運命に対して人間が逆らう唯一の手段が『自殺』だ」

と言うようなモノで、殆ど神学者や宗教家などへの喧嘩を売っているような内容だった気がする。でも、私も10代半ばから後半にかけて近い事を思っていた。

「神が死んではならない、と言うならば神への挑戦状が自殺じゃないのか?其れはテクノロジーの一環ではないか?」

みたいな。自意識過剰な10代らしい考え方だけども悪くはない気がする。



そもそも『神』と言う存在自体が人間が最初に生み出したテクノロジーだったと思う。その為に『火』があり、『音楽』があり、『芸術』があり、そして思想だとか哲学だとか経済が生まれる、と言った按配で。

恐らく当時の人類にとって、そう言う存在を造らざるを得ない状況だったのは判るけども。



『何故、自殺してはならないのか?』

と言う疑問自体が私は愚問だと思う。其れに対しての私流の答え方としては

「人間のみならず生物には『自らの生命を絶つ』権利が最初から『ない』」

だから「いや!人間にはあるはずだ!」と言うショウペンハウエルは馬鹿だったと思うし、それでも自殺しちゃう人は単に頭が悪いだけだ。そう言う奴は死んでくれた方が此方も助かる。


聖書に

「神は定められた/喜びの時/収穫のとき/(中略)/破壊のとき/滅びのとき」

とある。神って言葉以前に全てにおいて生物側が生へコミットする事は可能だが、死へコミットする事は出来ないようになっている。


だが、人間は予め狂っている。


TPの練習場に行くときに思ったのだけども人間にはフロイト曰く『生の衝動』と『死の衝動』があるらしい。多分、人間って言うのは『生への衝動』と同じように『死の衝動』があるんだろう。
其れを食い止めているのは仕事だったり、家族だったり、社会だったり、教育だったり、色々。

「死なない為の理由」

の為に只管、何かをやっている・・・と言うか。


高円寺に住み始めて5~6年経った頃。なんと言うか「この街の子達は自分が『何か』している人間でないと存在価値がない、と思っているんではないか?」と思った。

只、いる

と言うだけでは「私は存在価値がない!」みたいな。存在価値って何だよ?って話なんだけども。

「凄い絵を描く」
「凄いギターを弾く」
「凄い歌を歌う」
「凄い演技をする」


なんて、例えば車の

「凄い速い」
「凄くコーナリングからの立ち上がりが良い」
「凄いブレーキ」
「凄いデザイン」


と対して変わりがない。自らを電気冷蔵庫や車、電子レンジ並に落とし込んでこそ東京では生活が出来る・・・みたいな。で、やる事と言ったらストーンズの半ばコピーバンドだったり、サインペンで書いた落書きのような絵だったりするんだけども。


生物は『有る』と言う状態以外の権利はない。


だから脳味噌が死のうと、ボケようと、奇形だろうと、重度の障害を持ってようと全く無関係で、その辺を歩いているガキもAKB48も、天皇も変わりはしない。

『有る』

だけで、其れは十分なんだと思う。そもそも其れ以外に何かを求めるのは『驕り』だ。



とは言っても『存在を許されない』と言うのはある。
其れは社会だったり会社だったり親族だったりが「其れを認めない」と言う。そっちの方が自殺よりも遥かに酷い話なんだけども、生物は『有る』為なら何でもやる。

可愛い飼い猫ですら危機が迫れば人を殺す事だって出来る。風邪のウィルスも自らの存在が消されようとすれば大暴れする。



自殺する暇があったら、自殺しなきゃならない要素に対して徹底抗戦するべきだと思う。其れが家族ならば離別するか、一族皆殺しとか(刑務所で自殺は監視されているので難しいらしい)。会社ならば退社すれば良い。

其れが住処・・・育った場所であれば離れれば良い。


そんな感じで私は18歳で生家を出た。故郷で私の存在は余り芳しいモノではなかったから。其れは今でも変わらない。

で、音楽へ。

で、演劇へ。

で、再び音楽へ。


自分にとっての『音楽』って何だろう?と時折、思う。311の後は凄く疑問に思ったし、311から、つい最近まで「自分にとっての『音楽』とは何か?」と言う疑問符が離れなかった。

でも、考えてみればパニックになっていたんだと思うけども。

自分にとっての音楽とは何か?

其れは格闘家が相手に殺されないようにする武術であり、兵士が殺されないように手にする銃であり、ヤクザが殺されないように着る白いスーツみたいなもんだ。


存在を否定する人々、と言うのは確かにいる。


其れへの抵抗戦なんだ、と思う。



高知県で猫6匹の相手を延々とやっていた。

あらゆる動物は美しい。ドブネズミも猫も鳥も犬も亀も美しい。

人間だけが兎に角、醜い。余りにも醜い。



猫は自分達が美しい事を知っている。だから何か作ったり、文明を築いたりする必要はない。
人間は他の生物に比べて自分達が余りにも・・・目に余る程、醜い事を知っているし、其れは揺るぎようがない事実だ。
だから『芸術』を生み出すしかなかった、と思う。番外として格闘技を極めた奴が牛と戦うとかあるけども、あれは『番外』だし。

だから私個人の話になってしまうのだけども音楽家の最大のライバルはビートルズでもチャーリー・パーカーでもプレスリーでもなくて

人間以外の生物

なんだと思う。何だか高知県から帰ってきて、そう思う。



10月25日のライブの為に「あひゃー!」と脳味噌が壊れそう。たったの数時間の為に俺は何をやってるんだろう?とか思うのだけども、私がやりたいのは自分のライブじゃなくて

『来場者の方々に良い時間を過ごして貰う』

だけである。だから個人的に最高だと思った人を対バンに呼び、最高の出演者にして、ドリンクでもノンビリと呑んで欲しい、と言うだけ。

カッコつけじゃなくて、店舗との契約上『チャージフリー』なんだけども、そのチャージフリーと言う状態を逆手にとって「では、コンセプトとしては・・・」みたいな。



数時間だけのイベントなんだけども、その数時間だけは「有る」と言う事を自分が認める事が出来ますように。『有り続ける』と言うか。



riunione dell'uccello 

西麻布Super Deluxe 
2012/10/25(Thu) 
open/19:00 
start/19:30 

charge:free 

(イベント特設ページ)

【KO.DO.NA】 
黒木一隆(TP、ピアニカ)と木ノ下友一郎(エレクトロニクス、ギター)によるユニット。95年よりクラブDJ、現代音楽を経て、劇団唐組入団。同退団後、劇中音楽作曲やインプロビゼーションを主体とした幾つかのバンドを通過。2002 年静寂音響ユニット『KO.DO.NA 』を開始。2006年『KO.DO.NA:小人の化学』発売。その後、幾つかのオムニバスCDに参加。オーファイな電子機材を用いノイズの中から賛美歌、児童音楽、鎮魂歌を紡ぎだす。ラトビア共和国の音楽誌『フラッシュ』にて紹介される。西麻布『Bullets』 『SuperDeluxe』等に不定期出演。 
http://kodona.web.fc2.com/ 


【Sisters of Avalanche】 
ノンエフェクトでリズムマシンだけを操る噂のリズムボックス・ユニット。チープな音であればあるほど美しい。リズムボックスだけで10人前後のサウンドと光景は圧倒的 


【Cal lyall】 
即興のギターリスト/サウンドアーティスト。ジャンク楽器、エレクトロ・パーツ、フィールドレコーディングやエフェクターなどから音楽的な空間を作る。彼の多岐に渡る活動は、民族の伝統音楽から浮遊するドローン、恍惚の即興音楽まで、 多くの影響を映し出している。現在、静と動の即興パワートリオ「Tetragrammaton」、ドローンプロジェクト 「Jahiliyyah 」に関わり、またソロとして秋山徹次、町田良夫、Kelly Churko 、向井千恵などの個性的なアーティス トと共演。また、レーベル「Subvalent 」、西麻布スーパーデラックスで月一回のイベント「Test Tone 」を主宰している。今回はソロ演奏を披露。 
http://www.subvalent.com/cal-lyall/ 

【henna dress/変なドレス】 
ゲームボーイ等の電子機器を動物的カンで操り演奏をしたり、β-DJ と称しDJ の可能性をあらぬ方向へ追求したり、電子玩具をサーキットベンディングしたり(やりすぎ壊し落ちこんだり)たまに電子工作したり、ローファイな絵を無心に描いたり、捨てられぬゴミ等用いてオカンアート的何かにしたり、森の中にカセットテープやぬいぐるみをあるったけぶちまけて喜んだり、志低くマイペースにスカムな活動を続けている。 
http://sound.jp/hennadress/ 

【変なRGB( RGB+変なドレス)】 
国際アートトリエンナーレ「CRANE」入選。
2007年ドイツでの映像作家グループ展「Projectgruppe Weilground」に参加。
ミュージックビデオに、Yaporigami「HulL」、CDR「CHINKONKA」、Guchon「Chimpo」などを手掛けている。VJ RGBとしても活動中

http://rgbvideo.tumblr.com/

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