2015年5月24日日曜日

蓄音機

休みだったので蓄音機を修理した。



思えば2年前から調子が悪かった。何故か音がビビるのである。割れる、と言うか。
一度、修理に出したのだが余り変わらず。

其れで放置していた。


一時期は『蓄音機DJ』を名乗ってクラブやライブ・イベントで蓄音機をフル回転させていただが。
しかし、

『蓄音機DJ:KO.DO.NA』

と言う名前の方が浸透しつつあり、「ヤバイな」と思った。

「あの、蓄音機の方ですよね?」

とか。

「いや、蓄音機は趣味でして・・・」と言うのが面倒になった。



購入したのは30歳の頃。
当時、常連だった荻窪の『月光社』と言うレコード屋に値段は忘れたが売っていた。
で、音を聴かせてもらって3日間悩んで買った。


「三十路になったのだからオーディオに凝らなくては」

と思ったのである。


私の母と父が若い頃は『結婚記念日』に二人でレコードを一枚選んで買っていたらしい。

母も父も無茶苦茶な人だったが、その話は良いなぁと思った。
なので、私も多少はオーディオに凝るか、と。

「聴ければ良い」

と言うスタンスで、救世軍で買ってきたアンプと、壊れたターンテーブルを修理したもの。あとはCDプレイヤーとカセットデッキ。

ipodは聴かせてもらって音質が酷いな、と思ってやめた。

聞かせてもらった蓄音機の音は芳醇で、甘く、豊かで、まるで妙歳の女性の肌のような・・・甘美な音がした。

「これぞオーディオの最高峰!」

と思ったのである。

勿論、細野春臣が蓄音機にハマっている、と言うのも大きかったが(細野春臣が行きつけだった店は私では到底、買えないような値段のSP盤と蓄音機しか置いていない銀座の店だったが)。


で、購入してからは毎日にように聴いていた。


で、休みの日にはSP盤を漁る、と言った具合である。もう、男性特有のコレクター魂が爆発して、どんどん増えた。


クラシックから戦前歌謡、軍歌、ジャズ、タンゴ、ポルカ、日本のジャズ・ソング、童謡、ハワイアン、軽音楽、その他。


もう、給与が入る度に買い捲っていた。上野公園のバザーだとかにも行って購入。

この辺になると『第六感』が動き出す。

「この店はありそうだな」

とか。


なので私の時間軸と言うのが『1911年から』になる。


一時期、老人介護をしていた頃に常に「ご飯まだ?」と尋ねる立正佼成会の元幹部女性がいたのだが、カルテを見ると

「な!この人、ローバート・ジョンソンと同い年じゃん!!!」

と思ったり。

当たり前だが、老婆はブルースもロバート・ジョンソンも知らないし、ロバート・ジョンソンは20代で毒殺されているから日本人なんて会った事はなかっただろうが。


「昭和19年生まれか。まだ若いのにねぇ・・・」

と思えるのがSP盤マニアである。



『蓄音機DJ』を始めたのは、とあるクラブ・イベントで「やらせてよ」と言ったらOKが出たからである。
ところが私が十二指腸潰瘍で入院。

病院を抜け出して蓄音機と30kg程あるSP盤を持っていく。

『曲を繋げないDJ』

『フル・アコースティックDJ』

である。何しろ最新の曲が昭和24年なんだもの。


その後も幾つかオファーを頂いく。処が最初はホンッと趣味として個人的に聴いていた蓄音機。
休日に「嗚呼・・・良いなぁ・・・」と思うだけ、みたいな。

で、クラブに持ち込んだりライブで持ち込んだり。

見る人は結構、インパクトがあったらしい。NHKから取材依頼ががきたほどだったので(条件が合わずポシャったが)。


しかし『蓄音機の方ですよね?』と言うのが嫌だった。


で、気軽にやって貰える、と思われたのかオファーが多くなった。しかし、移動は可也、大変で。

其処で

「蓄音機DJ:50万円」

にしたら誰もオファーしてこなくなった。自分的にはそうしたかったら良かったんだけども。


ただ、一年に一回程度『野外蓄音機』はやっている。


大体、夏である。

最初は終戦記念日だった覚えが。

夏場にノンビリとアナログ音楽は如何ですか?みたいな。私が聴きたいだけなんだが。



で、その修理。



構造が単純なので意外と私でも直せる。

彼是と調べた結果、やはりサウンドボックスだった。






で、綺麗に直してサウンド・チェック!!!!







良い塩梅である。

今年こそ『野外蓄音機』を復活させたいと思う。



























2015年5月4日月曜日

ドイツ最凶のデスメタル:Sachertorte

友人の夫は裕福な生まれで昭和30年代に女子から「ケーキは何が好き?」と聞かれた際、

「ザッハトルテ」

と答えたらしい。




昭和30年代である

『三丁目の夕焼け』
『公害』
『傷痍軍人』
『神風タクシー』
『力道山』

の頃に

『ザッハトルテ』
である。この頃だと頑張って「ショートケーキ」or「チーズケーキ」or「チョコレートケーキ」の三択である。

そもそも『お菓子』が滅多になかったんだから!
皆、近所の木に生えているミカンだとか『渋柿』なんだぞ!?
私の郷里である『デス・ゾーン:北九州』は矢張り砂糖が手に入り難い為、
『醤油で煮付け、其処から甘みを引き出す』
と言う凄まじい作り方だったらしい(この作り方を知っている人は殆どいなくなったが)。

其の時代に『ザッハトルテ』。

なんて嫌な子供なんだ。

しかし突然、脳裏に

『ドイツの凶悪なヘヴィメタル・バンド:ザッハトルテ』

と言うのが浮かんだ。
恐らく今の視点で見ると酷くダサいジャケットなのだが、日本の若者も熱狂した(メタル・ブーム)バンドである。

1978年に初来日し、チケットは高額ではあったが完売。

客席には若き日の
『布袋寅泰』
既に売れっ子だった

『高中正義』
『渡辺香津美』

まだ学生だった
『デーモン小暮』

中学生の

『大槻ケンヂ』

なども駆けつけた伝説のライブだった。

大槻ケンヂの「もっとも影響を受けたライブ」のTOP5にザッハトルテが入っている事はファンならば周知の事実である。
「あのライブを見て『筋肉少女帯』の結成を思い立った」

と回想している。

季節的に台風が接近している中、開催が危ぶまれたが奇跡的に晴天となった。以下、wikiから
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Sachertorte(ザッハトルテ)は、1972年に結成されたドイツ:ケルンのスラッシュメタルバンドである。メタリカ、メガデス、アンスラックスらのバンドと共に「BIG 4(スラッシュメタル四天王)」の1つであり、他の三者が音楽性を変えた後もスラッシュ・メタルの道を突き進んでいる。1974年にリリースされたアルバム『Sacrifice of the devil - 悪魔の生贄 -』は独国ケラング!誌に"the heaviest album of all time by Kerrang!"と評された。
歌詞やアルバムのジャケットに用いられる、死、自殺、精神異常、死体、サタニズム、連続殺人犯、戦争などといったテーマがしばしば議論を呼び、アルバムの発売禁止及び延期、訴訟に発展し、80年代にはPMRCの標的にもなった。
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これは日本で一番、売れたアルバム『暗黒からの脱出』。中古屋に行くと必ず売っている。しかし2曲目の『集団自殺』とか6曲目の『発狂した外科医』はメタルの金字塔。




度重なるメンバーチェンジを重ねて漸く音楽的な方向性が定まったアルバム『SAMURAI』。
中でも『Seppuku(切腹)』『Harakiri(腹切)』は音楽シーンに衝撃を与えた。
6曲目『児童虐殺』はメタルシーンの金字塔と言われている。




パンクに接近したアルバム。ギターのアンゾルゲ・アッデハイドの超絶技巧の早弾きは聴く者を直立不動にさせた。「世界最速」と言われ、後のナパーム・デス等のグラインド・コアに強く影響を与えたアルバムでもある。
『胎児の腐乱死体スープ』
は高中正義が歌詞を全て変えて『ようこそ、夏の国へ。』でカバーしている(ベストアルバム『TAKANAKA Singles 1985-1994 Complete BEST CD&DVD THE BEST』に収録)。



個人的に『Sachertorte』を知った最初のアルバム。3曲目の『地獄の拷問』と『サタンの接吻』は名曲!
高校時代、バンドの先輩がテープを貸してくれて衝撃だった。
翌日、髪を金髪にして登校したら担任の先生に殴られた覚えがある。





シンセサイザーやサンプラーを導入し、『プログレッシブ・ロックへのメタルからの回答』と言われているアルバムだが、実際には元YESの『リック・ウェイクマン』をプロデューサーに招いている。『戦場殺戮』『テキサス・チェーンソー殺人鬼』など曲名は過激だが、メタル色は薄い異色のアルバム。






90年代のSachertorte。嘗ての過激さは薄れたモノの1曲目の『死姦』と4曲目の『疫病患者の群れ』は此れまでにない路線でメタル・シーンに衝撃を与えた。7曲目の『猟奇殺人鬼の快楽』はビーチボーイズを彷彿させるポップさで、音楽的な広がりを見せ付けた。



(結成した頃のザッハソルトテ。若い!)


78年の初来日の際のフライヤー。




 最近のザッハトルテ。3人になり、キーボードは毎回、ゲストとしてモーガン・フィッシャーが担当していた時期がある(現在はマイク・スタンフォックが半ば固定で演奏している)


因みにSachertorteはウィーンのケーキであり、バンドではない。