休みだったので蓄音機を修理した。
思えば2年前から調子が悪かった。何故か音がビビるのである。割れる、と言うか。
一度、修理に出したのだが余り変わらず。
其れで放置していた。
一時期は『蓄音機DJ』を名乗ってクラブやライブ・イベントで蓄音機をフル回転させていただが。
しかし、
『蓄音機DJ:KO.DO.NA』
と言う名前の方が浸透しつつあり、「ヤバイな」と思った。
「あの、蓄音機の方ですよね?」
とか。
「いや、蓄音機は趣味でして・・・」と言うのが面倒になった。
購入したのは30歳の頃。
当時、常連だった荻窪の『月光社』と言うレコード屋に値段は忘れたが売っていた。
で、音を聴かせてもらって3日間悩んで買った。
「三十路になったのだからオーディオに凝らなくては」
と思ったのである。
私の母と父が若い頃は『結婚記念日』に二人でレコードを一枚選んで買っていたらしい。
母も父も無茶苦茶な人だったが、その話は良いなぁと思った。
なので、私も多少はオーディオに凝るか、と。
「聴ければ良い」
と言うスタンスで、救世軍で買ってきたアンプと、壊れたターンテーブルを修理したもの。あとはCDプレイヤーとカセットデッキ。
ipodは聴かせてもらって音質が酷いな、と思ってやめた。
聞かせてもらった蓄音機の音は芳醇で、甘く、豊かで、まるで妙歳の女性の肌のような・・・甘美な音がした。
「これぞオーディオの最高峰!」
と思ったのである。
勿論、細野春臣が蓄音機にハマっている、と言うのも大きかったが(細野春臣が行きつけだった店は私では到底、買えないような値段のSP盤と蓄音機しか置いていない銀座の店だったが)。
で、購入してからは毎日にように聴いていた。
で、休みの日にはSP盤を漁る、と言った具合である。もう、男性特有のコレクター魂が爆発して、どんどん増えた。
クラシックから戦前歌謡、軍歌、ジャズ、タンゴ、ポルカ、日本のジャズ・ソング、童謡、ハワイアン、軽音楽、その他。
もう、給与が入る度に買い捲っていた。上野公園のバザーだとかにも行って購入。
この辺になると『第六感』が動き出す。
「この店はありそうだな」
とか。
なので私の時間軸と言うのが『1911年から』になる。
一時期、老人介護をしていた頃に常に「ご飯まだ?」と尋ねる立正佼成会の元幹部女性がいたのだが、カルテを見ると
「な!この人、ローバート・ジョンソンと同い年じゃん!!!」
と思ったり。
当たり前だが、老婆はブルースもロバート・ジョンソンも知らないし、ロバート・ジョンソンは20代で毒殺されているから日本人なんて会った事はなかっただろうが。
「昭和19年生まれか。まだ若いのにねぇ・・・」
と思えるのがSP盤マニアである。
『蓄音機DJ』を始めたのは、とあるクラブ・イベントで「やらせてよ」と言ったらOKが出たからである。
ところが私が十二指腸潰瘍で入院。
病院を抜け出して蓄音機と30kg程あるSP盤を持っていく。
『曲を繋げないDJ』
『フル・アコースティックDJ』
である。何しろ最新の曲が昭和24年なんだもの。
その後も幾つかオファーを頂いく。処が最初はホンッと趣味として個人的に聴いていた蓄音機。
休日に「嗚呼・・・良いなぁ・・・」と思うだけ、みたいな。
で、クラブに持ち込んだりライブで持ち込んだり。
見る人は結構、インパクトがあったらしい。NHKから取材依頼ががきたほどだったので(条件が合わずポシャったが)。
しかし『蓄音機の方ですよね?』と言うのが嫌だった。
で、気軽にやって貰える、と思われたのかオファーが多くなった。しかし、移動は可也、大変で。
其処で
「蓄音機DJ:50万円」
にしたら誰もオファーしてこなくなった。自分的にはそうしたかったら良かったんだけども。
ただ、一年に一回程度『野外蓄音機』はやっている。
大体、夏である。
最初は終戦記念日だった覚えが。
夏場にノンビリとアナログ音楽は如何ですか?みたいな。私が聴きたいだけなんだが。
で、その修理。
構造が単純なので意外と私でも直せる。
彼是と調べた結果、やはりサウンドボックスだった。
で、綺麗に直してサウンド・チェック!!!!
良い塩梅である。
今年こそ『野外蓄音機』を復活させたいと思う。
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