五輪のエンブレムの白紙撤回について考えてみた。
正直に言えば私は東京五輪は反対派で、エンブレム白紙撤回じゃなくて『オリンピック白紙撤回』で良いと思うんだけどもさ。
ただ、佐野研二郎だったかな。
白紙撤回だろうと、何だろうと「パクリなワケがねーだろ!」と言ってほしい、と言う気持ちが私には強い。
この佐野研二郎に引き合いに出されるのが岡本太郎だが、岡本太郎も作品の大半はパクリ(太陽の党は南米に殆ど同じものがある)なワケでさ。
と言うか20世紀芸術って『引用・編集』で成り立っている。
例えば『20世紀音楽』の出発点ってポピュラー音楽で言えばブルースなワケで。当時の黒人コミュニティで細々とやられていたブルースを無理矢理、ピアノの12音階に当てはめて作ったのが始まりでさ。
で、もっと言えばディシャンの作品の『泉』を「パクリだ!」「オリジナリティがない」と言う奴がいるか?
アンディ・ウォーホールの作品を「プレスリーの写真を反転させただけ」「プロの仕事じゃない」とかさ。
『デザイン』と言うのは言うなれば『現代美術』の範疇にある。
で、現代美術って何か?と言えば「終わってしまった美術」である。
と言うか最近、個人的に思っているのは『著作権なんて糞喰らえ』と。
完全なオリジナル作品なんて皆無なワケですよ。音楽でも芸術でも映画でも『完璧なオリジナル』はないし、引用と編集・・・つまり『パクり』で成り立ってんだよな。
宮崎駿の『風立ちぬ』もダンテの『神曲』と『ファウスト』のパクリなワケでさ。で、『攻殻機動隊』は寺山修二のパクり。
そもそもタイポグラフィ自体が未来派のパクリ・・・延長でしかない(未来派は詩の範疇の中でタイポグラフィを作ったが)。
まぁ、タイポグラフィは印刷技術の登場と同時に発明されているから誰かの、って言うモノでもないけども。
私自身も曲の5割以上はパクリと引用と編集である。
其れは創作をする人ならば誰もがそうなんだよな。完全なるオリジナル、って事で言えば、そんなもんを作れるのは『神』以外いないだろ?と。
人類の発展に最も貢献した発明って『火』だが、火は元々あったモノを『引用と編集』を繰り返すうちに水爆まで作るんだから。
だからオリジナリティを問う事は如何なモノか?と。
俺は『美術』『アート』と言うモノに価値はないと思っている。価値と言うか金銭的な価値はハッキリ言って皆無だと思う。
金銭的な価値が出る場合、其れはパッケージングされた時だけでさ。
だから『パッケージング』する事によってのみ、美術にせよアートにせよ音楽にせよ、此れまではOKだったんだよな。
だからジミ・ヘンドリックスの爆音ギターを聴きたい!出来ればウッドストックの映像と共に聴きたい!と思うと、90年代は結構、高額だったビデオを購入せざるを得なかった。
トランペットを始めた頃にエレクトリック・マイルスの映像が見たい!と痛切に願っていたのだが当時、流通に殆どなくて『マイルス・デイビスの生涯』みたいなビデオで数秒間しか見れなかった。
ただ、本来はアートはオープン・ライセンスのはずだ、と思うのである。
誰もがシェア出来るモノ、と言うのがアートの役割と言うか。
アートの対極には経済がある、と俺は思うんだけども経済は独占されるものだよな。荘園制度以前から貨幣や賃金と言うのは、その人が独占・管理するもので、もっと言えば国家が管理するモノでさ。
経済について調べてみると面白い。だが、経済活動は非常に退屈だ。
「頭くらくら・みぞおちワクワク・下半身ムラムラ」だからこそシェアされるべきでさ。
だって、絶対に『アルタミラ洞窟の壁画』が管理されていたモノとは思えない。
人類の歴史上、短期間は貴族階級が美を独占していた時期はある。日本だと平等院鳳凰堂とかさ。
当時は一般庶民が閲覧する事は禁じられていた作品である。
だが、実際に平等院鳳凰堂を見ると非常に面白くない。「プラモデルみたいですね」と言う感想しかない。
ヨーロッパの貴族階級ってのがあって美を独占していたよな。ただ、シェアされていたモノもあったワケで、教会とか。
ただ、独占と言ってもヨーロッパの貴族階級は庶民が閲覧可能だったんだよな。だからこそ当時の宮廷スキャンダルが克明に記録されているくらいで。
理由としては貴族は全身を美で覆ってないと駄目だった。コルセットとか死にそうになりながらも。
で、其れは貴族同士で競い合うと言う側面もあったが、庶民が宮廷を見学する事も出来たし、貴族を眺める事は可能だった(だから暗殺未遂とか多かったんだが)。
然しながら当時の庶民レベルでは貴族階級のような美を作る事が不可能だったし、絵画にしても複製技術がないor印刷技術が低い、と言うだけの話だった。
で、今。
ゴッホの絵が40億円とかで落札されるけども、此れって『ゴッホの原画を買った』だけに過ぎないんだよな。ゴッホの絵と言うモノはなくて、ゴッホの美しかない。
と言うか『ゴッホの絵』を買う、と言うのもパフォーマンスとして考えると面白いかもしれない。
言ってしまえば基地外が描いた、狂った絵を部屋に飾りたい、と思う奴は多くはないだろう。
だから、生前に殆ど売れなかったのは当然でさ。
宗教的に、モラル的に不味い絵でしたから、と言うワケじゃなくて普通に「これは欲しくないな」と思わせる絵ばかりだ。
其処にはゴッホと言う基地外が見た美しい世界だけが抽出されたモノで、言うなれば『作品』の域を超えてしまっている。売り物ではなくて、ゴッホ、と言う人物の脳味噌を見ているようなもんで。
脳髄=●●円
と言うのはない。医療の現場では使える臓器には値段が付くが脳味噌だけは値段が付かない、と言うか用途がないし。
それに40億円と言う価値を付ける、と言うのも面白いし、買うのも面白いかもしれない。
徹底的に(本来であれば)経済的に無価値なモノが・・・石ころみたいな・・・40億円って言う。
佐野研二郎に戻ろうと思う。
多摩美卒、と言うゲージツ家しては低学歴ではあれども、デザイン事務所を立ち上げる位だから、その辺の絵描きよりは遥かに優れた人なんだろうと思う。
電通や博報堂と言ったコネが指摘されるが、全く無能な奴に仕事は依頼しないもんだし、職人的な力量がなければコネも糞もない。
で、色々なモノをパクった、と言う事は問題ではないと思う。
其れで収入を得ても問題ではないと思う。
彼の職歴を考えて(オリンピックに対しての憎悪は抜きにする)彼は、私の考えでは一度もミスをしていないし、間違っていない。
私事で恐縮だが自分の曲に『そりすべり』がある。
中身は80年代か70年代に3~5歳の女の子5名がエレクトーンで『そりすべり』を演奏しているだえで、其れを録音したのは母親である。
その5名の一人と当時、交際していて聴かせて貰った時に感動して誕生日プレゼントとして
「この音源を俺に譲れ」
と言う事で私のモノになった。面白いのは5名で廻しながら演奏するので、誰かは音符を長く取り、他の子は音符を短くとったり、リズムが少し違ったり。
で、その際も悩んだのだが
「あるモノを美として発見する、と言うのも創作ではないか」
と言う結論に至り、ライブで演奏していた・・・ってラジカセから流していただけだが。
音量を小さくし、音数を最小限にしたら「音響系」と言うジャンルが産まれた、みたいな。
作品は発表されたがっている、と言うか。例えば、東京は雨である。雨垂れの音を録音して「作品です」と言う事も可能なわけである。
何と言うか『創作』と言うのは、必ず自由でなければならない、と私は思う。
「これは駄目!」
と言うのがないからこそ、面白いんじゃないか?と。
一時期、「ステージで犬を殺す事がアートになるのであれば、何の躊躇いもなく行うべきだ。」と言ったらマイミクが一人減った(彼はミニチュア・ダックスフンドを溺愛していたから)。
今も同じ事は思っている。現状、生物は殺していない。美しくないから、と言う理由である。
佐野研二郎がベルギーの劇場のロゴを見て「凄い」と思って、似たようなデザインで作った→此れの何処が問題なのか?
じゃあ、ベルギーのデザイナーは完全に『無』から作ったのかよ?と。商標登録していなかった、と言う事はベルギーのデザイナーとしては、特に「これが私の魂を鰹節の如く削ったデザインで御座います!」ってワケじゃなくて、多くの依頼と商品の一部でしかなかったのだろう。
で、訴える!なった理由が良く判らない。
個人的にはデザイン、と言うモノに対して何らかの物議を醸したかったのかも知れない。
『カルメン・マキ騒動』の時も思ったのだけどもリスペクトorオマージュなきパクりはない。
私事で更に恐縮だが、演奏中にマイルス・デイビスのフレーズを多用する事が多い。で、マイルスに関しては個人的な感情で言えば、私は性的にはノーマルだが
「マイルスになら・・・抱かれても良い・・・」
と思うほど。ってか、マイルスもディジー・ガレスピーをパクッたし、チェット・ベイカーはリアルタイムでマイルスのトーンや奏法をパクっていた。
著作権ってのは20世紀の残骸でしかないと思う。言うなれば『終わった産業』と言うか。炭鉱みたいに。
BLと言うジャンルがあり、パロディと言う事で同人誌では『あしたのジョー』『国』『少年ジャンプ』の漫画を、『ホモ』と言う設定にして、そっくりな絵にして、販売されている。
これが可能になったのは嘗ては『漫画』を描く為にはスクリーントーンを買ったり設備費だとか、其の為の費用が高額であり、絵の技術力が相対的に低かった為、漫画家の絵を真似る事は出来ても、其れをポージング化する事が出来なかった事があるが、未だとネットで何とかなっちゃうんだよな。
じゃあ、腐女子達が『少年ジャンプ』や『あしたのジョー』を侮蔑しながら描いているか?って言えば逆なワケで。
ベルギーの小さな劇場のロゴを見てインスパイアされた作品を提出した→採用
で良いと思うんだよな。で、著作権だとか20世紀芸術の引用・複製・編集に関してはベルギーのデザイナーも判っているはずなんだわ。
九州の重工業地帯で育った田舎モノの私ですら分かっている事なんだから。基礎的教養として
「其れは許される」
って事は判っていたはずで。「裏的にでも良いから一言欲しかったな」と言うだけだったと思う。
ってか、オリンピックのエンブレム問題に関しては本家の『2ちゃんねる』ではなく『2ちゃんねる』の『まとめサイト』の影響が強い。
だから、非常に読みにくい『2ちゃんねる』を編集・引用・・・つまりパクリをしたのが『まとめサイト』であり、
『泥棒が泥棒を諭す』
みたいな。
ってか、今日も明日も世界中の何処かでシェークスピアは上演されている。勿論、無許可で上演している劇団もあるだろう。
『シェークスピアシアター』みたいにセットが『椅子一個』とかもあるだろう。
其れが可能なのはシェークスピアの戯曲が絶対的な完成度を誇っているからである。そしてシェークスピアの作品が、シェアされているからでさ。
多分、シェークスピア自身は生前だったら「ふざけんな」となったかも知れないが何かを作る、と言うのは拡散される事が目的でさ。
だからiponeは電話機じゃなくて作品と言っても良いんだどさ。
其れを見た・聴いた・触れた・体験した人が、その作品からインスパイアされる、リミックスをする、と言う事が作品を生かすワケ。
それを望まないアーティストは皆無だと私は思う。
それを理解しない人が語るべき問題でもないと思う。
0 件のコメント:
コメントを投稿