そして、00年代にアヴァンギャルドを志した人達の多くは討ち死にし。
クリアで、耳に心地よい、アイドルや往年のPOPS、BGMのような音楽がメインストリームに対しての『サブカルチャー』となった。
それは此方側の敗北なのであろうか。
敗北、勝利。それが何だ。此方は音の彼方を目指すだけであり、そうではない『あちら側』『こちら側』は何時だって存在しており、それが嘗ての同朋が『あちら側』になっただけである。
暫く「素晴らし音楽家」「素晴らしい盤」をメジャー、マイナー問わず連載してみようと思う。
月1か、週1か分からないが(長文を書くのは疲れる)。
2016年に書いた『米本実』氏について再度、書いてみたい。
(http://kodona.blogspot.com/2016/08/blog-post_14.html)
この『米本実論』を書いた際に、本人から追加文章の申請があったのだが、何故か今になった。
米本実氏は不思議な人である。
氏を知ったのは、私が米本実氏に出会う前だった。自分だけの音、と言うモノを作るために『自作楽器』と言うモノを考えた。
その際にシンセサイザーも検討していた。
買うと高いが、作れば安上がりじゃないのか?と言うモノだった。
其処に米本実氏が既にホームページで自作シンセサイザーを紹介していた。それを見て
「敵わない」
と思った。
実際に会ってみると、非常にフランクな人だった。だが、もう少し踏み込むと、その並外れた音楽知識、音楽理論、演奏能力に驚く。
自作モジュラーシンセサイザーを、米本実氏はまるでエキゾチック、またはメタPOPSのように演奏する。
然し、米本実氏はエキゾチカでも、POPSの人でもない。紛れもなく『現代音楽家』である。
そして、米本実氏が制作した『system Y』と言うモジュラーシンセは『現代美術作品』であり、
『サウンド・アート』でもある。
然し、『system Y』は余りにも巨大過ぎて自宅から持ち出すのに難儀するらしい。では、自作シンセサイザーだけの人なのか?と言えば違う。
米本実氏は先に書いたようにシンセサイザーだけではなく『楽器』と名が付くモノであれば全て演奏できる。
マーカス・ミラーやプリンス、スティーヴィー・ワンダーのような人でもある。
その米本実氏の素晴らしい作品が・・・恐らく5分程度で作ったと思われる・・・『彼女の家』である。
1998年に製作されたモノらしい。
YAMAHAの『PSS-110』と言う、シンセサイザーと言うよりもガジェットのようなキーボードである。
『ゴミ』として捨てられていた、と言うキーボードで、スティーヴ・ライヒも裸足で逃げ出す音を作っている。
しかも、1998年である!!!
現代音楽の音源など、非常に手に入りにくい時期だった。然し、米本実氏は野生の勘なのか、ハードコアなミニマル・サウンドをイトも簡単に作ってしまう。
facebookで米本実氏が発表した時は、主に「可愛い」「面白い」「私もPSS-110を持ってました!」と言う感想ばかりで、曲自体に何かを感じた人は少なかったようである。
なんと言う事だろうか・・・。
だが、SNSに作品を発表する、と言うのはEDMやアイドル、1分程度のラップ以外は、そんなモノである。
インスタグラムが流行っているのも、ツイッターの140文字すら読めない人が増えてきた、と言う事ではないだろうか。
インスタントな刺激。
これは米本実氏のような『現代音楽家』『現代美術家』にとって不幸な時代と言わざるを得ない。
否。
米本実氏のみならず『音楽家』にとっては苦しい時代なのかも知れない。1分、1分半と言った時間で『音楽』と言う時間芸術では届けたいサウンドの0.00000000001パーセントも伝わらない。
だから、ライブを行うしか無いのだが、嘗ては頻繁に演奏をしていた米本実氏は最近は鳴りを潜めている。
理由は分からない。
ただ、何となく分かるのは
「米本実氏と言う人物が何者か分からない」
「米本実氏の音楽は耳障りが良いワケではない」
と言う事が、令和時代のオーガナイザーには警戒されるのかも知れない。耳障りと言うが、PUNKやPOPS、HIPHOP、フォークやEDM、テクノのように
『一般的に認知された音楽』
ではないからである。
米本実氏はEDMだろうと、PUNK的な音だろうと何でも作れる。だが、そうしない。
それは『鬼才』『異才』として産まれた人物の宿命なのだろうか。
米本実氏の『PUNK解釈』は、実はある。正直、既存のPUNKよりも米本実氏の音の方がNYのHC、サイケデリック系よりも遥かに切実であり、肉体的である。
それが
『マン-マシン・インターフェースに関する考察Vol.1』
である。
僭越ながら、私が企画している『鳥の会議』と言うイベントに出演して頂いた。
池田 拓実氏(現代音楽家であり電子音楽家の大御所)に米本実氏との共演を打診すると、池田 拓実氏が
「米本実氏の『マン-マシン・インターフェースに関する考察Vol.1』とならばOK。何よりも私が見たい。物凄く影響を受けた作品だから」
と言う事で、実は私も良く分からない状態で、本番となった。
(鳥の会議#7~riunione dell'uccello~/ 米本実/マン-マシン・インターフェースに関する考察Vol.1)
大きな紙に『0』『1』と言う数字が書かれている。二進法の記載である。それが1m☓1mの紙に何枚もある。
「シンセサイザーは鍵盤を押すと実は二進法で音をCPUで処理して音を出しているに過ぎない。ならば、逆に二進法を人力で入力するのは、どうか?」
と言うコンセプトだったと思う(詳細を記載したサイトがあったのだが、何故か消えている)。
要するに「人間がシンセサイザーのCPUとなる」と言うモノであり、マン・マシーンと言う名前の通りクラフトワークからのオマージュだったと思うのだが、どう考えてもクラフトワークを超えている。
まるで冗談のような有様だが、米本実氏は真剣そのものだった。居合の達人のような、何かを破壊しかねない凶暴さでパッチングしていく。
観ていた人からは「物凄く野性的だった」と言う言葉があった。シンセサイザーと言うデジタル楽器を使いながら、こうも凶暴、野性的になれるものなのか、と思った。
嘗てデトロイト・テクノのミュージシャンが曲作りの際に全裸で作った、と言う話があり「なんて野性的なんだろう」と思ったが、米本実氏に比べれば可愛いモノである。
当日、PAを担当した私ですら、薄っすらと恐怖を感じた程である。
米本実氏と言うのは、そう言う人物である。
演奏中は居合の達人の前に座るような、フリージャズやオルタナティブを超えた処に居る。
「テクノポップの人?」
「シンセサイザーの人?」
ではない(『楽しい電子楽器/自作のススメ』と言う本の著作者でもあるので、あながち間違いではないが)。
『全身音楽家』と言うしかない。
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