現代美術家でありながらも、彼をアカデミックな作家として見る人は少ない。
現代音楽家として見る人も多くない。著作が『自作シンセサイザー』についての本であることもあり、
『自作シンセサイザーの人』
だったり
『テクノポップの人』
と見る人も多い。
実際に米本氏は『system Y』と言う巨大なシンセサイザーを作っているからかも知れない。
そして、その巨大なシンセサイザーで演奏活動を欠かさない。
米本実氏のライフワーク、及び作品である『system Y』は膨張し続ける巨大なシンセサイザーである。
常に膨張しており、元々の原型は小さな金属箱に入った発振器でしかなったのだが、現在では壁一面と言う有り様である。
そして、膨張し続け、完成、と言うものがあるのか他人には判別出来ない。
本人ですら完成形が見えてない、と思われる。
見えない完成に向けて時としてシンセサイザーとは思えないようなパーツを組み込んだりもする。
本人は「シンセサイザーだ」と言う。
シンセサイザーとは何か?
電子音楽とは何か?
そう言う意味で言えば求道者である。
道を求める。
だが、米本実氏にとって電子音楽は『悟り』や『修行』ではない。あくまでもツールであり、道具である。
料理人にとっての包丁であり、鍋であり、大工にとってのノコギリや釘である。
だが、米本実氏は大工でもなければ料理人でもない。
シンセサイザーとは何か?
電子音楽黎明期の電子音楽家達は「この世の森羅万象を表現する」為にシンセサイザーを利用していた。既存の楽器では出せない音を求めた。
その後のテクノポップや今の続くテクノの人々は新しい楽器として、または新しいダンス・ミュージックのツールとして電子楽器を利用した。
『森羅万象を表現』と言っても当時の電子楽器のスペックは其れは余りにも無理があるモノだった。例えば坂本龍一が『音楽図鑑』で森や大自然を表現しようとして、トランペット奏者である『近藤等則』から「シンセサイザーのスペックで森林を表現するなんて無理だよ」と言われているが、電子楽器と言う機材の性質上致し方がない部分もある。
米本実氏が行っている事は『自作シンセサイザー』だが、大半の人が誤解しているだが米本実氏は
『電子音楽家』
ではない。彼と接してみれば分かる事だが、実は弦楽器から鍵盤楽器まで大半の楽器は扱える。楽器の特性や使い方を米本氏は2秒もあれば掴みとってしまう。
だから、鍵盤楽器や弦楽器でも良いのだが、数秒もあればピアノなら、ピアノ。ギターやドラムの叩き方や、その楽器がもつ限界点を見抜いてしまう為、その楽器を演奏することが出来ない。
結果的に『自分が使える楽器』を作らざるを得ない。
「自分にしか使えない楽器〜理論を作る」と言う意味ではジョン・ケージが自分に和声の感覚がない事に気付き、易や偶然、自作電子楽器、グラフィック・スコアに行ったのに似ている。
だが、米本実氏は先に書いたように和声の感覚もあれば楽器の操作も長けている人物なのである。
既存の楽器にウンザリして電子音楽に行った人としては高橋悠治やデイヴィッド・チューダーがいる。
高橋悠治やデイヴィッド・チューダーに近い場所に米本実氏はいる。
だが、高橋悠治やデイヴィッド・チューダーのように米本実氏を捉える人は多くはない。
何故か?
『現代音楽』『現代美術』が持つパブリック・イメージと米本実氏が余りにもかけ離れている為である。
黙々、淡々と学術的に、アカデミックな、高尚な、そう言った『現代美術作品』と氏は対極にある。
米本実氏は音楽家としての側面が強いのだが、『米本実』と言う人物をパッケージングすることが不可能に近い事もある。
『パッケージング可能』と言うのが現代美術作品であり、米本実と言う『作品』をパッケージングする事は既存のメディアでは不可能に近い。
上記に書いたように『現代美術作品』(現代曲やパフォーマンス、現代美術などを含む)が持つイメージ。
『黙々、淡々と学術的に、アカデミックな、高尚、国家、資本』
この『黙々と淡々』がない。
しかし、作っている作品は相当にアカデミックであり、 高尚である。
既存の現代音楽など足元にも及ばない程、構築されている。
米本氏はアカデミックな作品に対して常にアンチを唱える。其れが本当にアカデミックであり、高尚であるならば、田舎の小学生でも分かる作品であるべきだ。
其れこそがアカデミズムであり、芸術である、と。
発表された際、衝撃的だった事もあり「世界で4人しか理解出来ない」と言われた特殊相対性理論と一般相対性理論だが、今では小学生でも理解出来る内容である。
その背景には、
1:それを細部まで把握している。
2:それが正しい事を知っている。
3:それを説明するための言語を内在させている。
米本実氏のライブ・パフォーマンスで、米本実氏の全容を垣間見れる事が出来る。
氏は
「これから行うパフォーマンス」
「使う機材」
「どのような背景の作品なのか」
「このパフォーマンスが私達の生活、生き方、思想をどれだけ反映しているか」
を全て説明してしまう。
難解な作品を「難解な作品です」と丸投げするのではなく、何も知らない観客を数分で『電子音楽愛好家』のレベルまで引き上げてしまう。
いや、もっと言おう。
『電子音楽、及び、現代音楽愛好家』
にまで引き上げてしまう。
米本実氏のパフォーマンスを観る前と、観た後。Before after。
明らかに違うのである。
米本実氏は説明と言う名のパフォーマンス、そして音によるパフォーマンスによって愚人を賢者に変える。
その意味で米本実氏のパフォーマンスは道教、または老子哲学に近い。
『このパフォーマンスが私達の生活、生き方、思想をどれだけ反映しているか』
アート、美術、現代音楽、現代美術、宗教、美、美学、美術。
これらが私達の生活や思想、生き方に影響している事は誰もが知っている。だが、それを言語化すること、そして再体験すること。
それが米本実氏である。
米本実氏のパフォーマンスの大きな部分は『音が出る歓び』である。
楽器をやった事がある人ならば、楽器を初めて触った時の音に感動したことがあると思う。だが、楽器を続けているうちに、それは習慣となり、当たり前の音になってくる。
楽器をやったことがない人であれば、好きな異性に触れた時の歓び、子供がいる人であれば産まれた子を抱いた時の歓び。
始原的な歓び。
米本実氏のパフォーマンスは『電子音楽』『電子楽器』『シンセサイザー』と言う人間的ではない楽器・・・作品を使って始原的な歓びを常に与える。
例えば、だが。
楽器を触った時に出てきた音。子の笑み、恋、それらは個人的な歓びである。自分にしか分からない歓びだ。
米本氏は、その歓びを第三者に伝える。
100%、デジタルで伝える。
アート、芸術、美、全ては歓びと快楽である。
快楽である以上、背徳である。
背徳である以上、罪である。
罪だからこそ、歓びである。
歓びだからこそ、自由である。
自由、それこそがコスモポリタンである。
米本実氏は背徳、罪、歓び、自由、そしてコスモポリタンを具現化する。
しかし。
米本実氏の作品は『現代アート作品』としては究極であるにも関わらず、それを『現代アート作品』と見る人は少ない。
冒頭に記したように、米本実氏をまったく見当違いなニュアンスで捉えている人が多いからである。
確かに米本実氏の作品の中には『ケースの中に水中モーターを入れて浮かべる』『シンセサイザーのケースがゼンマイで動く』と言った遊びなのか、本気なのか、気が狂っているのか、判別に苦しむ作品も少なからずある。
それと同時に『現代アート』らしからぬ『言語化』。
日本の風土、または日本人の気質としてアーティストと言うのは『黙々淡々と』と言うのが誉れとされている。此れは大昔から続く『職人的美学』なのかもしれない。
しかし、である。
生真面目に、黙々淡々と作品を作り続けた偉大なアーティスト達がどれだけ不遇な人生を送っただろうか?
高尚な、アカデミックな作品がいったい、何人に理解されただろうか?
私達は事前の説明も、情報もなくロックやポップス、現代作品を知っただろうか?
印象派やモーツァルト、バッハからロックン・ロールを何の説明もなく観る、または聞かされた際に、それを理解出来ただろうか?
それらを理解せずに生きる事が出来るだろうか?
人間以外の動物にとって花は生殖の為であり、食用でしかない。
『花』が美しい、と誰が発見したのだろうか?
その花なしに、愛する人へ言葉を伝えることが出来ただろうか?
愛する人に言葉を伝える為の言語は何処から?
愛する人へ捧げる言語こそが花であり、そして美の本質であり、始原的な快楽である。
再度、言おう。
快楽である以上、背徳である。
背徳である以上、罪である。
罪だからこそ、歓びである。
歓びだからこそ、自由である。
自由、それこそがコスモポリタンである。
罪であり、背徳だからこそ、其れを直視せずに生きようとする。
1の真実よりも1000の嘘。
1000、2000の嘘にまみれようと我々が禽獣ではなく人間でいる以上、嘘を付き続けることは出来ない。
歓び、歌い、罪に塗れ、快楽に溺れ、自由を求める。
米本実氏は、嘘八百で塗り固められた現代アートへ常に中指を立て続ける。
米本氏が突き立てる中指こそが現代アートであり、そこには始原的な歓び、原罪と言う名の快楽と背徳、罪。そして自由とコスモポリタンがある。
米本実氏は狂人かもしれない。
米本実氏が狂人として存在する社会に私達は生きている。
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