例えば新約聖書に登場する『裏切り者』としては『ペトロ』も裏切り者なんである。
裁判所で「お前はイエスの弟子だろ?」と言われて「冗談じゃない。俺はあんな奴の弟子なんかじゃねー!」と叫んでいるんである。で、鶏が三回、鳴いて、コケコッコー。
旧約聖書があれほど出鱈目で破綻した話であるにも関わらず『何とかなっている』のは矢張り
『ヨブ記』
である。神の気まぐれにより幸せの絶頂にあったのに、行き成り七人の息子と3人の娘、ついでに財産(羊とかヤギとか)を完全没収。おまけに本人は重い皮膚病に侵されてボロクソな目にあう。
「こんな目に合うんだったら神なんか信仰せずに死んだ方がマシじゃー!」と、神を呪いながらも同時に『神』と言うモノに対しての批評と言うかラディカリストになるんだが、そうなる寸前のところで矢張り神の『気まぐれ』で
「人間風情が神に文句を言うな!ボケェ!」
と財産を返されるどころか
『主はその後のヨブを以前にも増して祝福された。ヨブは、羊一万四千匹、らくだ六千頭、牛一万くびき、雌ろば一千頭』
→現在の金額に直すと100億円と六本木ヒルズにベンツ3台にソフトバンクと楽天の株券だろうか。
『彼はまた七人の息子と三人の娘をもうけ(42:13)』
→現在の価値観に直すとアップル社の下請け工場を貰った、だろうか(当時の子孫ってのは『=』で労働力である)
『ヨブの娘たちのように美しい娘は国中どこにもいなかった』
→現在の価値観に直すと走行距離1mのフェラーリだろうか(当時の娘ってのは『=』で貨幣と換金できた)
『ヨブは長寿を保ち、老いて死んだ。』
→現在の価値観に直すと『死ぬほどマッチョ』だろうか。当時の平均寿命なんてセミ並みである。
と言う非常に現金なやり口でヨブは「ハラショー!神、サイコー」で終わってしまっているのである。
新約聖書は結構、好きで一時期、本気で洗礼を受けようかと思ったほどだったのだが牧師のボケっぷりにウンザリしたのも大きい。当時、イラク戦争が始まったばかりだった。其れを牧師に聞いた。
「神は人々を平等に愛している、って言いますよね?じゃあ、何故、アメリカ政府はイラクの人々は無条件に殺すんですか?」
すると牧師は
「・・・それは悪魔がしている事だから」
と言う。アホかと思った。
話は少しズレるがマルクス主義って一時期は『思想』と言うよりは『宗教』になったと思う。宗教だったからこそ、アホな独裁国家が出来上がり(独裁国家と言うスタンスは否定しないが)、多くの悲劇が生まれ、そして誤解と偏見の中でボロボロになって消滅してしまった。
キリスト教ってのも一時期は『国』を運営してしまう程だった。ヨーロッパの歴史やクラシック音楽、ヨーロッパ発の芸術や現代思想を考える上でキリスト教と言うのは外せないほどである。
要するにキリスト教と言うかイエス自身に決定的に足りなかったのは、其れを批評する部分だったと思う。
例えば。
ブッタ直系のインド仏教ってのはブッタの死去後、即効で消滅するんだが其れはブッタ自身が実は宗教家ではなく哲学者でもあり、物理学者でもあって、『この世は10次元である』と言う事を説明出来なかった、ってのが大きい。
だから『宗教』に成り下がった。
宗教を否定しないが、其れは矢張り当初のモノに比べると『成り下がった』感が、どうしてもある。
話は戻るが『ユダ』はイエスの活動資金に関しての会計等を行っていたらしい。だから馬鹿ではなくて、寧ろリアリストだったと思う。現実主義と言うか。
イエスが街を歩けば金が振る。
同時にユダもイエスの信者でもあるのである。新約聖書を読むと分るが12使徒って可也の馬鹿揃いである。
だって裏切り者である『ペトロ』の前職なんて漁業である。恐らく感覚としては
「魚がいっぱい」
か
「魚が少ない」
とか
「お魚、美味しい」
と言う程度の思考しかなかったと思う。金勘定が得意なMBA取得者で、M&Aや投資信託を得意とするユダにすれば
「何が『お魚、おいしい』だよ。ウスノロが!アナルにイクラでも詰めてプチプチ割ってろ!」
って感じだっただろうし。
『ユダ』こそがイエスの思想や哲学を恐らく完璧に理解していただろうし、其れに対しての批評精神もあっただろうし、寧ろイエスに必要だったのはユダのそう言った『批評性』だったはずである。
何故、死ぬべきだったのか?
と言うのが解せない。裏切っちゃった、って事ならば残念な事にイエスの弟子は皆、思う存分、裏切っているのである。ラストに死刑になりたくないし、変なとばっちりは御免だね、って事で。
「其の後のユダ」
と言うのは、どう言うものだったんだろう?と思う。『ユダの福音書』ってのもあるが、あれも存在は怪しい。
彼が何らかの書物・・・日記でも良かった・・・を残していたならばキリスト教と言うのは現在の『アホな宗教』とはならず、マルクス登場以前に『現代思想』と言うかポスト・モダンにまでなっていたんではないか?って気がする。
人類の歴史って可也、短いからキリストの死後から『ポスト・モダン』を名乗っても良いだろうし(もう、ぶっちゃけ『火』と『洞窟に絵』を描いた時点で、モダンである)。
遠藤周作が『ペトロ』の事を書いている。作品の中で「彼もイエスを裏切った人の一人である。そして其れは私達と同様に彼も臆病者で裏切り者なのである」と言い切る。
では、『ユダ』はどうなんだ?
と。『ペトロ』は
「おさかな、おいしい」
な奴だが、ユダはMBA取得者で、アップル社の顧問弁護士でもあり、同時にサムスン電子の株価も見逃さない奴だ。
『ペトロ』が未だにJ-フォンの携帯を使っていると言うのに『ユダ』はiPhone4sとギャラクシーネクサスを使いこなし、暇なときはスマートフォンアプリを開発していると言うのに、だ。
『ペトロ』は多分、布教の際は地面に木の棒で絵とか身振り手振りでやっていたと思う。適当な格好で。
「おさかな、おいしい。」
みたいな感じ。全部、平仮名である。
だが『ユダ』はビジネススーツで『ipad2』である。またはスクリーンにパワーポイントやエクセル、GIFアニメを多用した分り易い布教を行っただろう。BGMは当然、5.1chサラウンドである。腕にはロレックスなんて付けない。G-shockである。時間厳守!欠勤の際は就業30分前に必ず連絡である。
ペトロは多分、『日時計』だったと思う。
「おなか、すいたから集会はこれでおわり」
「カラスが鳴いているからかえろうね」
「雨がふっているから今日はなしね」
「おさかな、は、焼いてたべるとおいいしいよ」
みたいな。
イエスの過去ってのは一寸、面白い。幼い頃のイエスは超能力少年と言うか、可也、早熟な少年だったらしい。要するに糞生意気で、口数の減らないガキで、尚且つ頭が桁外れに良い、って言う天才少年。
イエスは自らの思想や哲学が庶民には絶対に分りっこない、って事を知っていたんだろうか。
だからこそ『ユダ』が死ぬことをによって、其れが現代思想となるのを防ごうとしたのだろうか。
それ自体が『物語』となることでしか、自らの存在は生き残れない、と言うか。
『物語』には生贄が必要だ、というか。その生贄は「おさかな、たべたい」なアホのペトロではなくMBA取得者であり、iPhoneユーザーであり、無遅刻無欠勤で都内の美味しいイタリアン・レストランを知り尽くしたCOOLなGUYである『ユダ』こそが相応しい、と言うか。
そう考えるとイエスと言う人物はユダよりも可也、したたかだった、と言う気がする。
BGMはピンク・フロイドで『Seamus The Dog』
ステージに実際に『犬』を登場させてブルースを演奏し、犬が鳴き捲くる。『ハウリング・ウルフ』ならぬ『ハウリング・ドッグ』なんだが、フロイドってこんな紙一重と言うかアホなライブもやっていたのか!と思い嬉しくなった。
この犬は何処から持ってきたんだ。
この犬は何処から持ってきたんだ。
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