可也、凄い作品である。既に『漫画』『少女漫画』ではなく『文学』である。漫画喫茶の息子として(嘗て私の父は九州初の漫画喫茶を経営していた)之を『漫画』として認める事は出来ない。
之は正真正銘の『文学作品』である。
ストーリーを話しても仕方がないし、明日は朝8時起きなので知りたい人は読んで欲しい。読んでいる人は分るだろうし。
取り合えずウィキペディアによると
『ある雪の日、シュロッターベッツ・ギムナジウムのアイドルだったトーマ・ヴェルナーが陸橋から転落死し、ギムナジウム中が騒然となる中、委員長であるユリスモール・バイハン(ユーリ)のもとにトーマからの遺書が届く。事故死とされていたトーマの死が自殺であること、トーマが死を選んだ理由が自分自身にあることを知り、ユーリはショックを受ける。
数日後、ギムナジウムに亡くなったトーマとそっくりの転校生、エーリク・フリューリンクがやってくる。エーリクを見るたびにユーリはトーマと重ねてしまい、怒りや憎しみをあらわにすることすらあるのだが、そこにエーリクの母の事故死の知らせが入り、悲しみにくれるエーリクをユーリは慰め、これを機会に2人は次第に心を通わせていく。
エーリクはユーリへの気持ちを深めていくが、心の傷を呼び覚まされたユーリは再びかたくなな態度を取るようになる。しかし、ひたすらユーリを愛し信頼を得たいと願うエーリクの言葉から、ユーリは、トーマがユーリの罪を自ら引き受け、あがなおうとし、そのために自分の命を代償にしたのだと悟る。そうしてユーリは、自分を取り巻く多くの愛と幸福、そして自分を見守っていた周囲の人々に気づく。
神はどんな人をも愛し、許していることを知ったユーリは、神父となるために神学校への転校を願い出、ギムナジウムを去る。』
らしい。まぁストーリーだけ書いても意味は全くないのだがオープニングの詩が決定打である。
『ぼくは、ほぼ半年の間ずっと考え続けていた
ぼくの生と死と それから一人の友人について
ぼくは、成熟しただけの子供だということはじゅうぶん分かっているし
だから この少年の時としての愛が
この性もなく正体も分からないなにか透明なものに向かって
投げだされるのだということも知っている
これは単純なカケなぞじゃない
それから ぼくが彼を愛したことが問題なのじゃない
彼がぼくを愛さねばならないのだ
どうしても
今 彼は死んでいるも同然だ
そして彼を生かすために
ぼくはぼくの体が打ちくずれるのなんか なんとも思わない
人は二度死ぬという まず自己の死
そしてのち 友人に忘れ去られることの死
それなら永遠に
ぼくには二度目の死はないのだ(彼は死んでも僕を忘れまい)
そうして
ぼくはずっと生きている
彼の目の上に』
もう、この時点でこの作品が『少女漫画』ではない、と高らかに宣言しているようなもんだ。
冒頭で作品の鍵となる少年(13歳)が飛び降り自殺をする。そして、この詩である。
作品内容としては嘗て、悪魔主義の先輩に死ぬほどレイプをされた過去とトラウマを持つユリスモール・バイハンの精神的な死と再生の話なんだが、主人公が再生する為には如何に美少年だとしても冒頭で13歳は自殺と言う死と言うか『生贄』が必要だったのだろう。
このトーマ君(13歳)の自殺の理由に関しては作品の中では余り多くは語られない。理由と言うか、正直、理由なんぞないのである。之は作品の中で彼が生きる為に彼は死ななくてはならなかった、と言うか。
似たようなニュアンスで言えば例えばキリストを裏切ったユダの『その後』みたいなもんだ。
新約聖書ではユダはキリストの死後、直ぐに死んでいるんだが(自殺だったか、殺されたか忘れたが)、例えば『ユダ』が其の後も生きていたら、と思う。
ユダが行き続け、そして書物を書いたとしたら。
若しかしたらキリスト教と言うのは、其れがなかった為に永遠に不完全な哲学となってしまった、と思う。
キリストの思想は『思想』であり『哲学』となる事が十分に可能だったはずなのに、そうなる為の決定打が消えてしまった為にキリストの『哲学』や『思想』は一介の『宗教』と言う風に一気に地に落ちた。
『トーマの心臓』を読み終えて、何となくそう言うのを考えた。
本当はこう言うのって遠藤周作とかが書かなくちゃならんテーマなんだが、遠藤周作は実はハードコアなきリスト教徒にとって『禁書』となっている場合もあるのだが(実話)、その辺がヒヨっている。
調べて見ると萩尾望都は大分県大牟田市出身だと言うのを知って驚いた。同時に「どうりで・・・」と思った。
大分県大牟田市は嘗ては炭鉱の町として栄えた街である。萩尾望都が居た頃は炭鉱の街として全盛期を誇った時期である。
今だと原発だが、何と言うか『エネルギー産業の街』、または『工業街』と言うのは特種である。田舎は田舎であるが、普通に考え付く田舎町とは全く違う。
其れは『いびつな歪み』だ。
炭鉱ってのは可也、ハードな仕事で全盛期を見ている、と言うことは、つまり萩尾望都は最も多感な時期に生き埋めになった死体だとか、ダイナマイトの音、山が崩れる音、一酸化炭素中毒で死ぬ者、そして炭鉱夫の遺族などを見てきた、と言う事である。
そして学校を卒業すれば三池炭鉱で働くことがデフォルト。
三池炭鉱は『三池炭坑節』と言う音頭があるように、全盛期は凄まじかったらしい。真っ黒な煙の為、夜でも月が見えないほどだったらしい。
そして其れが「繁栄の象徴」だった。
そう言う土地で文学だとか絵画等を学ぶ、と言うのは強烈な体験だっただろう、と思う。之は工業やエネルギーの街で育った人にしか分らない感触だと思う。
どう言う状況下で『トーマの心臓』が書かれたのかは分らないし、調べようとも思わないが、そう言う土地の人が東京に出てきて、漫画で勝負!と言うのは殆どドラックでラリっているような・・・と言うか自らの炭鉱の田舎臭さと都会の雰囲気の衝突、と言うか。
爆発する詩的感性
暴走する詩人
と言う気がする。
先ほど『工業~エネルギーの街は特種』と書いたが、工業~エネルギーは其れ自体が産業であり、同時に全国~世界と結ばれているのだが、だが其の土地自体は実は可也、閉塞感である。
『手形』がないと他県に出れないんじゃないか?と思うほど。
都会と田舎が歪に交じり合っている
と言うか。家には薄型TVがあり、インターネットもあり、舗装された道路もある。公共機関も其れなり。
しかし人々は狐や創価学会を信仰し、外の事を知ろうともしないが、コミュニティ内で少しでも違う人が居れば赤軍のように総括。「人情が温かい」ワケではなく実は戦中のように『密告と総括』が田舎モノである。
昔、ジャーマン・ロックが再評価されて『スタジオ・ボイス』が只管、持ち上げていた。其の中でマニュエル・ゲッチングの『E2-E4』や『Inventions For Electric Guitar』について
「ベルリンの壁があり、行動範囲は政治的に阻まれる。だが、空想や思想、そして音だけは壁や国境を越える、越えようとした。其れがE2-E4であり、彼等の作品だ」
と言うのがあった。
『トーマの心臓』と言う作品にも近い印象を受けた。当時の少女漫画シーンに関しては無知に近い。私が少女漫画を読み始めたのは『ときめきトゥナイト』や『岡田あ~みん』からだったからだ。
しかし『ときめきトゥナイト』は少女漫画のカテゴリーに入るが、何と言うか純粋少女漫画とは言い難い気がする。
何と言うか『少年漫画』と『少女漫画』の決定的な違いってのは
少年漫画=一箇所の留まらない行動範囲
少女漫画=舞台は固定
少年漫画=新キャラと出合い続ける
少女漫画=主な登場人物とは初期の段階で既に出会っている。
少年漫画=外交的
少女漫画=内向的
ではないか?と思うのである。例えば『ワンピース』などは世界中の海が舞台である。『ドラゴンボール』も同じく。
『王家の紋章』に関しては矢張り古代エジプトの街と言う事で固定化されている。
そう言う意味で『少年漫画』で最も『少年漫画らしくない』作品と言えば
『AKIRA』
となる。あれほど少年漫画らしくない漫画も珍しい。
因みに『トーマの心臓』はBL漫画の元祖とも言われるが作品の中では男性同士のキス・シーンが良くある。実際、13~15歳と言う年齢で同性が同性に恋心を抱くか?と言えば実は抱く人も多い。
私事で恐縮だが中学生の頃、少林寺拳法を習わされていた。
その道場で。
当時、私は13歳だったが『ジュニア・クラス』でTOPの人がいた。確か15歳だったと思うが今でも覚えているのだが角刈りで、精悍な顔つき、無口。引き締まった身体と、綺麗な小麦色の肌(九州人は肌が茶色い)の男性。
本当に素敵で13歳の私は彼が道場に来るとドキドキした。
彼はジュニア・クラスではTOPだったので時折、演舞(型)をやるのだが少林寺拳法が型を重んじる為か綺麗なモノが多い。
彼が演舞をする時は私も含めて彼より年下の子達は瞬きすら許さない、という感じだった。
其れは武ではなく『舞』だった。
型ではなく『華』だった。
私だけではなく、他の子達も彼にゾッコンだった。そう言えば私は好きでもない少林寺拳法を続けていたのは彼を見たいから、だった。だから彼が高校へ進学し道場へ来なくなってから一気にカッタるくなり、辞めたのだった。
10代前半は『性』と言うものを認識出来ず、只、純粋な恋心だけがゴロリとある、と言う気がする。其れは第二次性長期での性欲と結びつかない、結びつける術を知らない純粋な気持ちだった、と思う。
『トーマの心臓』は13歳~14歳の私を思い出させた。
『少年』の時間は短い。余りにも短すぎ。その短い時間の中で受け取る情報量は大人の10倍以上もある。だからこそ『少年』の時期は辛い。
たったの1~2年の時間が『少年』である。その時間こそが、その人の全てを決める、と言う気がする。
しかし『ときめきトゥナイト』は少女漫画のカテゴリーに入るが、何と言うか純粋少女漫画とは言い難い気がする。
何と言うか『少年漫画』と『少女漫画』の決定的な違いってのは
少年漫画=一箇所の留まらない行動範囲
少女漫画=舞台は固定
少年漫画=新キャラと出合い続ける
少女漫画=主な登場人物とは初期の段階で既に出会っている。
少年漫画=外交的
少女漫画=内向的
ではないか?と思うのである。例えば『ワンピース』などは世界中の海が舞台である。『ドラゴンボール』も同じく。
『王家の紋章』に関しては矢張り古代エジプトの街と言う事で固定化されている。
そう言う意味で『少年漫画』で最も『少年漫画らしくない』作品と言えば
『AKIRA』
となる。あれほど少年漫画らしくない漫画も珍しい。
因みに『トーマの心臓』はBL漫画の元祖とも言われるが作品の中では男性同士のキス・シーンが良くある。実際、13~15歳と言う年齢で同性が同性に恋心を抱くか?と言えば実は抱く人も多い。
私事で恐縮だが中学生の頃、少林寺拳法を習わされていた。
その道場で。
当時、私は13歳だったが『ジュニア・クラス』でTOPの人がいた。確か15歳だったと思うが今でも覚えているのだが角刈りで、精悍な顔つき、無口。引き締まった身体と、綺麗な小麦色の肌(九州人は肌が茶色い)の男性。
本当に素敵で13歳の私は彼が道場に来るとドキドキした。
彼はジュニア・クラスではTOPだったので時折、演舞(型)をやるのだが少林寺拳法が型を重んじる為か綺麗なモノが多い。
彼が演舞をする時は私も含めて彼より年下の子達は瞬きすら許さない、という感じだった。
其れは武ではなく『舞』だった。
型ではなく『華』だった。
私だけではなく、他の子達も彼にゾッコンだった。そう言えば私は好きでもない少林寺拳法を続けていたのは彼を見たいから、だった。だから彼が高校へ進学し道場へ来なくなってから一気にカッタるくなり、辞めたのだった。
10代前半は『性』と言うものを認識出来ず、只、純粋な恋心だけがゴロリとある、と言う気がする。其れは第二次性長期での性欲と結びつかない、結びつける術を知らない純粋な気持ちだった、と思う。
『トーマの心臓』は13歳~14歳の私を思い出させた。
『少年』の時間は短い。余りにも短すぎ。その短い時間の中で受け取る情報量は大人の10倍以上もある。だからこそ『少年』の時期は辛い。
たったの1~2年の時間が『少年』である。その時間こそが、その人の全てを決める、と言う気がする。
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