2012年8月28日火曜日

国境の果て/都内の果て



今日は会社を遅刻てしまった。 






起きたら寝坊だったのである。と言うよりは理由はあるのだけども「俺にこの会社は勤まるのか?」と言う不安が凄まじい。 



以前も掲載したが会社はコンクリート製じゃなくて『土製』だし、衛生環境も良くない。 


(オフィスへの入り口) 


こんな狭いところから入らなければならないのである。で、会社は地下にある。地下なので結核が流行りやすく、就業中に重症となってしまう人も多い。 
 
(株式会社OF○/社内風景/来客用の模型) 




(株式会社OF○/社内風景/社内断面図) 



で、今は研修中なのだが、研修も厳しいしなぁ。ホンッと辛い。 

(研修中の私) 



サーバーの保守・管理と羊の解体が、どう関係するのか全く判らないが東陽町では其れがデフォルトらしい。 




で、社内のトイレはこんな感じなので「ひぇー!」とトイレに篭城するわけにもいかない。 


(社内の社員用トイレ)

一服しようと思っても会社の休憩室はこんな有様であって、怖くてユックリ出来ない。 



(社員用休憩室) 


 

(社内喫煙室)


確かに東陽町の治安は都内最低である。だからと言って休憩室に銃を置くのはどうなんだ?と思う。 



しかし衛生環境は東陽町は全体的に悪い。 



東陽町の公衆トイレなんて之である。 



(東陽町2丁目公衆トイレ) 




ついでに言えば出勤するのも大変だ。以前、東西線の写真を載せたが 

東西線乗り場) 

私が出勤するのは研修期間は10〜19時である。だから朝のラッシュアワーの時間以外は基本的に大型車両は運行しておらず 


トロッコ 



なんであるあ。




(東西線浦安方面行き) 




ラッシュアワーの時間の東西線はこんな感じである。大手町から乗り換えるんだが、地下鉄大手町駅東西線乗り換え風景。 




(営団地下鉄丸の内線大手町駅東西線乗り場) 



(東西線浦安方面行き/朝9時頃) 


で、東陽町に行くと眼中にはこんな光景なんである。 


(東陽町の一般的な住居) 


何しろ地便も悪い。一度、ヘリコプターで撮影したが、東陽町ってこう言う場所なんだぞ? 


(東陽町上空。向こう側が都内) 


で、出勤したら出勤したで何故か東陽町って『熊』が出没するんだよな。治安が悪いって言うか人も怖いが、熊も怖い。


 
(金曜日12時頃の東陽町) 


先週、出勤していたら熊に追われて死ぬかと思った。 



(何故か目があってしまい、会社まで追われた。死ぬかと思った) 




住民とも上手くやっていけるとは到底、思えない。子供とか好きなんだけども、東陽町小学校の学級委員長が之である。 



(松下大輔君/12歳/将来の夢は『JALのパイロット』) 



で、会社で使っているPCが之ですよ。普通、Windowsだろ?Windowsじゃなくてパンチカードで動くんである。道理で残業が多いわけだよ!

(ディスプレイとキーボード) 

(本体) 



嗚呼・・・。運河を渡った『豊洲』はこんなに栄えていると言うのに・・・。 




(豊洲市民公園)


              (豊洲住民)  




(東陽町住民) 


                      (東陽町の靴屋)



(東京湾を渡る東陽町住民) 





(東京湾を渡る豊洲住民) 





嗚呼、平和そうだ。そう言えば東陽町って警視庁第9機動隊なんて言う施設があるんだよな。機動隊なんて『ミニ軍隊』だが、東陽町の警察も矢鱈と不気味だし、怖い。そして歩き煙草程度で発砲してくるから要注意だ。 



(東陽町警察) 



            (東陽町警察) 


    (東陽町警察生活安全課:佐々木淳平警部) 


女性府警もいるのだが、女性府警も東陽町だとこんな感じ。 


      (東陽町警察交通課:峯橋順子巡査) 
 



        (東陽町警察安全課:橋本静子巡査) 





で、隣の豊洲だとこうなる。 





(豊洲警察交通課:木下順子警部補) 




                 (豊洲警察交通安全課:大山幸子巡査)



      (豊洲警察生活安全課:澤田藤子巡査) 





                       (東陽町)



 
                         (豊洲)







何で運河一本隔てただけでこんなに違うんだ!って言うか日本橋や大手町とも近いのに、この落差は何なんだ! 


そう言えば古田氏と言う東陽町で『日本春歌考』と言うバンドをやっていた男性が親元から離れて来週から私の家の近所に住むらしい。 



因みに東陽町は団地の町だが、団地と言うかこう言う風景である。 


                        (都営東陽町団地) 



之が古田氏の有志である。 

(昨年8月の日本春歌考のライブ風景)




新高円寺と言うキラキラとした街に馴染めるだろうか・・・。 

(新高円寺)



(東陽町)




ツイッターで「部屋で宅録とかして遊びましょう!」と来たが彼は楽器が出来ない。宅録と言っても録音機材なんて持ってないだろうし、どうしろと言うのだ。 


「また変な奴が増えるのか・・・。この誉高き新高円寺に」 



と憂鬱になった。 









































2012年8月27日月曜日

KO.DO.NAの気持ち: 現代アートって何だよ?

KO.DO.NAの気持ち: 現代アートって何だよ?: 岡田斗司夫が『カオスラウンジ』について語っている。 10分程度の話だが、私が面白いなぁと思ったのは 1)現代アートテストとは何か?=芸術大学を出た人、併せて論文を書いた人の事。  2)現代美術は既に価値はない  3)本の表紙、雑誌の広告が既に現代美術を越...

現代アートって何だよ?


岡田斗司夫が『カオスラウンジ』について語っている。


10分程度の話だが、私が面白いなぁと思ったのは


1)現代アートテストとは何か?=芸術大学を出た人、併せて論文を書いた人の事。 

2)現代美術は既に価値はない 

3)本の表紙、雑誌の広告が既に現代美術を越えている 

4)現代アート『美』ではなく『説明可能なモノ』である。 

5)現代アートはオワコン 

6)嘗ては複製芸術がなかった。だからこそ『芸術』と言うモノが価値があった 

7)『現代アート』とは『之は現代アートです』と説明可能で、尚且つ投機対象となるもの。



と言う。で、この講義の発端は『カオスラウンジ』である。





『カオスラウンジ』に関しては友人・知人を介して知っていたけども「ふーん」と言うか、作品自体が余り面白くなかった。
 


『90年代サブカル』


と言う感じだったし、作品自体も面白いとは思えない。村上隆がデビューした時は私は田舎の高校生だったから、そのインパクトは判らなかったし(確か明和電気も鮮烈なデビューの時期だった。その後、モヒカンのサウンドアーティストが出てきて、其れは面白かった。ギター・シンセにサンプラーを接続して、ギターを弾くと『マルクス』『レーニン』『アメリカ』『セックス』と言葉が鳴り捲って、結果的に言語のノイズになる、って言う。しかし本人が可也の曲者だった為かメジャーにはならなかったけども。)。


其れよりも個人的にショックだったのは『カオスラウンジ』の作品が事件となり、そして現代アート界隈が可也、騒いだ事だった。

つまり、言ってしまえば『現代アート』と言うアナーキーな界隈は実は、数枚の素人コラージュ作品程度で覆ってしまう程、弱体化している、と言う事を露見したし、同時に現代アートの作家達が、企業メセナや村を借り切って大規模な作品を作ったりしていても結果的には素人コラージュと同じ程度の連中だった、と言う事を露見してしまったと思う。


其れは可也、個人的にはショックだった。



私自身、高校1~2年生の頃に現代美術っての知ってフルクサスだとか、今や誰も覚えてない『新宿少年アート』等に憧れた・・・と言うか

「俺みたいな駄目で、変な奴でもやっていける界隈があって、そう言う人達でも存在が許されているのか」

と思って、凄く憧れた側としては相当にショックである。何しろ憧れが高じて北九州市なんて言う寂れた街にゲリラ的に作品を作って勝手に展示までしていた程である(ファンが3人ほどいたらしい)。



ちょっと話は脱線するんだけどもインターネットが登場したのは90年代終り頃だったと思う。少なくともメディアでインターネットってのが騒がれて、信じられない話かもしれないが98~99年頃までは何と

「俺の家、インターネット引いているから」

と言う文言で異性を自宅に連込めたのである!今だとネット程度じゃ誰も連込めないし、って言うよりも『PCでインターネット』と言う状況が既に頭打ちだが、98年は違ったのである。


その前に最初にインターネットに注目したのは立花ハジメなどの『メディア・アート』と言うか、その辺の人達だった。

「世界と繋がれる」

って事で。



上記の岡田斗司夫の主張によれば既に現代アートには何の役割もなく、既にオワコンとなっている、と言う。

之は『カオスラウンジ』が云々とか岡田斗司夫が、とかじゃなくて『現代アートの連中』が


サボっていた


結果である。だから現代アートは只管、衰退して言って欲しい。現代アートなんてヒロ・ヤマガタとクリスチャン・ラッセンで十分である。
その位、今の現代美術は

終わっている。




90年代後半に『メディア・アーティスト』と言う胡散臭い連中がインターネットに注目したのは、当時としては真っ当だったと思う。

私が思うに現代アート・・・と言うか古今東西の『アート』の役割ってのは見ず知らずの第三者同士を繋ぐ事だと思う。

其れ以外にアートの役割があるのか?と。



例えば『AKB48』はメンバーの顔や個性は皆無に等しい。完全にコンセプト・グループだから。
例えば『脱原発デモ』の参加者には顔も個性も皆無に等しい。アレもコンセプト・グループだから。


言ってしまえば本来ならばAKB48や脱原発デモ~集会は現代美術の名に括られる連中がやるべき事だったはずである。


其れを知らずに田舎の村で糞下らん『アート』を芸代の学生ボランティアをこき使いながらやっていたんである。企業メセナで貰った分、キャノンの工場で死ぬまで働いて来い、って感じだが。



アートって宗教と同じで「同じものを第三者と共有する喜び」と言う部分だけで成り立っているし、其れは同じく宗教もだけども、其れを完全に破棄しテしまえばアートとしては成り立たない。

岡田斗司夫はスーパーマリオやエヴァを挙げているが、確かに上記の作品はパチンコ中毒者から田舎のガキまで繋ぐ事が出来たワケで。


今だと下手すると『アイフォン』やスマートフォン自体が『作品』と言っても良いだろう。現代美術は最早、企業の商品よりも弱い。



インフラを個人が作る事は不可能だ(ネットラジオはアレだが)。



そうではなくて、インフラの斜め上なり斜め下をやるのがアートの役割なんじゃないか?と。その『斜め』から人と人を繋ぐ事がアートの役割だと思う。

ゴッホの絵は凄い。

何故ならばゴッホの絵の価値は兎も角『ゴッホの絵』って事で「あいりん地区」のガキからユダヤ人の金持ちまで「共有する何か」はあるのだから。



そう言うもんだろ?アートってのは。



「美」なんてモンを人間が作れると思ったら思い上がりである。ジミ・ヘンドリックスが偉大だろうと、バッハが凄かろうと、ビートルズ、マイルス・デイビス、ジョン・コルトレーン、チャーリー・パーカー、グレン・グールド、ジョン・ケージ、ペットサウンズにジェームス・ブラウンが偉大だろうと何だろうと、連中が生涯をかけて作り上げた音は、その辺の

『蝉』
『鈴虫』

の1/1000000000以下なんだから。ギブソンのギターが凄かろうと、ベーゼンドルファーのピアノが

が凄かろうと、軒下に吊るしている

『風鈴』

の方が遥かに『良い音』である事は誰もが知っているはずだ。


只、風鈴や蝉では人とは繋がれない。


其処を補うのがアートの役割じゃないのか?




私事で恐縮だが何年か前。初台のICCでの出来事。

その日はその年最大の台風直撃の日で、例によって私は会社をサボった。で、ICCに行った。
会場には誰もいない。学芸員だけ。

一人でICCってのも悪くないなぁと無響部屋で思ったのだが、ICCって『インターコミュニケーション』を歌うだけあって、「一人じゃ楽しめない作品」ってのも多い。

其処で。

学芸員の方が暇つぶしもあったのだろうが、私の相手をしてくれた。学芸員と私は何の接点もないが、その作品を介してだけ『接点』と言うのが出来上がる。


最近は非常に面白くないICCだが、一番、楽しかったのは、あの日の台風の日だった。



私は音楽をやっているので、その辺の話もしたい。



私は音楽をやっているが以前は演劇青年だった。18歳から22歳まで(厳密に言えば24歳まで)必死と言うか全身全霊で演劇をやっていたし、其れが全てのきっかけだった。

その理由ってのが福岡県で活動していた『シリウス』と言うハーッシュ・ノイズのバンドだった。


当時、福岡市にはノイズ・ユニットは片手で数える程しかいなくて、其れのライブに行った。行ってみると客は私を含めて7~8人だったと思う。

ライブは怒涛のノイズだったが、私は踊ったりしていた。

其れを見た客一人が「君、こう言うの好きなの?」と話しかけて来てCDを借りる約束をした。そのCDを借りる場所が

その人が所属する劇団の稽古場だった

というか。で、CD一枚で私は劇団の役者になり、今に至る。



私がライブで『鳥の会議』って言う曲をやっているのだけども、之は観客にバードコールを鳴らしてもらう、っていうモノなんだけども実際にやってみると自分の音は聴こえない。だけども他人の音は聴こえる。
バードコールは「飽きたら他の人にやらせてね」と文言付きなので、丁度良い。

最近は『オファーを受けたらギャラは50万円』と設定しあ蓄音機DJだが、個人的にやる分に関しては好き。

皆で同じ音楽を聴いて、楽しめるなんて最高じゃないか・・・と思う。知らない人も何故か寄ってくるし。



脱原発デモは終わると皆、スマートフォンを弄りながら帰る。ライブ会場でも同じ。



スマートフォンは確かに凄い。だけども、スマートフォンの斜め上から人を繋ぐ事がアートの役割で、其れ以外は


金の無駄遣い

制作費を被災地に送れ

死ね


と言っても言い過ぎじゃない。



でも、そう言う事を意識している現代美術家が今はいるのか?と思う。金にもならない事を熱心にやる、って言う奴が。


今の現代美術はオープンマイクで呟かれる毒にも薬にもならん内相的独白でしかない。

其処まで地に落ちた、って事を判っている人が何人いるんだろう。


カオスラウンジについて1年間、考えたけども結局、現代美術が夢も希望も糞も無い腐ったジャンルになっちゃった・・・と言う気がする。

ICCの最近の作品も面白くないし(ICCは仕方が無い部分もあるけど)。


個人的に現代美術の連中には留置所覚悟で無茶をやって欲しい・・・けど、最早、終わったジャンルに言っても無駄なんだろけども。『雅楽』の「グランドコアをやってくれ」と言うようなもんなんだろうなぁ。

現代アート


岡田斗司夫が『カオスラウンジ』について語っている。
http://www.youtube.com/watch?NR=1&feature=endscreen&v=ufY13_Or3ws

10分程度の話だが、私が面白いなぁと思ったのは


1)現代アートテストとは何か?=芸術大学を出た人、併せて論文を書いた人の事。 

2)現代美術は既に価値はない 

3)本の表紙、雑誌の広告が既に現代美術を越えている 

4)現代アート『美』ではなく『説明可能なモノ』である。 

5)現代アートはオワコン 

6)嘗ては複製芸術がなかった。だからこそ『芸術』と言うモノが価値があった 

7)『現代アート』とは『之は現代アートです』と説明可能で、尚且つ投機対象となるもの。



と言う。で、この講義の発端は『カオスラウンジ』である。



『カオスラウンジ』に関しては友人・知人を介して知っていたけども「ふーん」と言うか、作品自体が余り面白くなかった。
 


『90年代サブカル』


と言う感じだったし、作品自体も面白いとは思えない。村上隆がデビューした時は私は田舎の高校生だったから、そのインパクトは判らなかったし(確か明和電気も鮮烈なデビューの時期だった。その後、モヒカンのサウンドアーティストが出てきて、其れは面白かった。ギター・シンセにサンプラーを接続して、ギターを弾くと『マルクス』『レーニン』『アメリカ』『セックス』と言葉が鳴り捲って、結果的に言語のノイズになる、って言う。しかし本人が可也の曲者だった為かメジャーにはならなかったけども。)。


其れよりも個人的にショックだったのは『カオスラウンジ』の作品が事件となり、そして現代アート界隈が可也、騒いだ事だった。

つまり、言ってしまえば『現代アート』と言うアナーキーな界隈は実は、数枚の素人コラージュ作品程度で覆ってしまう程、弱体化している、と言う事を露見したし、同時に現代アートの作家達が、企業メセナや村を借り切って大規模な作品を作ったりしていても結果的には素人コラージュと同じ程度の連中だった、

と言う事を露見してしまったと思う。


其れは可也、個人的にはショックだった。



私自身、高校1~2年生の頃に現代美術っての知ってフルクサスだとか、今や誰も覚えてない『新宿少年アート』等に憧れた・・・と言うか

「俺みたいな駄目で、変な奴でもやっていける界隈があって、そう言う人達でも存在が許されているのか」

と思って、凄く憧れた側としては相当にショックである。何しろ憧れが高じて北九州市なんて言う寂れた街にゲリラ的に作品を作って勝手に展示までしていた程である(ファンが3人ほどいたらしい)。



ちょっと話は脱線するんだけどもインターネットが登場したのは90年代終り頃だったと思う。少なくともメディアでインターネットってのが騒がれて、信じられない話かもしれないが98~99年頃までは何と

「俺の家、インターネット引いているから」

と言う文言で異性を自宅に連込めたのである!今だとネット程度じゃ誰も連込めないし、って言うよりも『PCでインターネット』と言う状況が既に頭打ちだが、98年は違ったのである。


その前に最初にインターネットに注目したのは立花ハジメなどの『メディア・アート』と言うか、その辺の人達だった。

「世界と繋がれる」

って事で。



上記の岡田斗司夫の主張によれば既に現代アートには何の役割もなく、既にオワコンとなっている、と言う。

之は『カオスラウンジ』が云々とか岡田斗司夫が、とかじゃなくて『現代アートの連中』が


サボっていた


結果である。だから現代アートは只管、衰退して言って欲しい。現代アートなんてヒロ・ヤマガタとクリスチャン・ラッセンで十分である。
その位、今の現代美術は

終わっている。




90年代後半に『メディア・アーティスト』と言う胡散臭い連中がインターネットに注目したのは、当時としては真っ当だったと思う。

私が思うに現代アート・・・と言うか古今東西の『アート』の役割ってのは見ず知らずの第三者同士を繋ぐ事だと思う。

其れ以外にアートの役割があるのか?と。



例えば『AKB48』はメンバーの顔や個性は皆無に等しい。完全にコンセプト・グループだから。
例えば『脱原発デモ』の参加者には顔も個性も皆無に等しい。アレもコンセプト・グループだから。


言ってしまえば本来ならばAKB48や脱原発デモ~集会は現代美術の名に括られる連中がやるべき事だったはずである。


其れを知らずに田舎の村で糞下らん『アート』を芸代の学生ボランティアをこき使いながらやっていたんである。企業メセナで貰った分、キャノンの工場で死ぬまで働いて来い、って感じだが。



アートって宗教と同じで「同じものを第三者と共有する喜び」と言う部分だけで成り立っているし、其れは同じく宗教もだけども、其れを完全に破棄しテしまえばアートとしては成り立たない。

岡田斗司夫はスーパーマリオやエヴァを挙げているが、確かに上記の作品はパチンコ中毒者から田舎のガキまで繋ぐ事が出来たワケで。


今だと下手すると『アイフォン』やスマートフォン自体が『作品』と言っても良いだろう。現代美術は最早、企業の商品よりも弱い。



インフラを個人が作る事は不可能だ(ネットラジオはアレだが)。



そうではなくて、インフラの斜め上なり斜め下をやるのがアートの役割なんじゃないか?と。その『斜め』から人と人を繋ぐ事がアートの役割だと思う。

ゴッホの絵は凄い。

何故ならばゴッホの絵の価値は兎も角『ゴッホの絵』って事で「あいりん地区」のガキからユダヤ人の金持ちまで「共有する何か」はあるのだから。



そう言うもんだろ?アートってのは。



「美」なんてモンを人間が作れると思ったら思い上がりである。ジミ・ヘンドリックスが偉大だろうと、バッハが凄かろうと、ビートルズ、マイルス・デイビス、ジョン・コルトレーン、チャーリー・パーカー、グレン・グールド、ジョン・ケージ、ペットサウンズにジェームス・ブラウンが偉大だろうと何だろうと、連中が生涯をかけて作り上げた音は、その辺の

『蝉』
『鈴虫』

の1/1000000000以下なんだから。ギブソンのギターが凄かろうと、ベーゼンドルファーのピアノが

が凄かろうと、軒下に吊るしている

『風鈴』

の方が遥かに『良い音』である事は誰もが知っているはずだ。


只、風鈴や蝉では人とは繋がれない。


其処を補うのがアートの役割じゃないのか?




私事で恐縮だが何年か前。初台のICCでの出来事。

その日はその年最大の台風直撃の日で、例によって私は会社をサボった。で、ICCに行った。
会場には誰もいない。学芸員だけ。

一人でICCってのも悪くないなぁと無響部屋で思ったのだが、ICCって『インターコミュニケーション』を歌うだけあって、「一人じゃ楽しめない作品」ってのも多い。

其処で。

学芸員の方が暇つぶしもあったのだろうが、私の相手をしてくれた。学芸員と私は何の接点もないが、その作品を介してだけ『接点』と言うのが出来上がる。


最近は非常に面白くないICCだが、一番、楽しかったのは、あの日の台風の日だった。



私は音楽をやっているので、その辺の話もしたい。



私は音楽をやっているが以前は演劇青年だった。18歳から22歳まで(厳密に言えば24歳まで)必死と言うか全身全霊で演劇をやっていたし、其れが全てのきっかけだった。

その理由ってのが福岡県で活動していた『シリウス』と言うハーッシュ・ノイズのバンドだった。


当時、福岡市にはノイズ・ユニットは片手で数える程しかいなくて、其れのライブに行った。行ってみると客は私を含めて7~8人だったと思う。

ライブは怒涛のノイズだったが、私は踊ったりしていた。

其れを見た客一人が「君、こう言うの好きなの?」と話しかけて来てCDを借りる約束をした。そのCDを借りる場所が

その人が所属する劇団の稽古場だった

というか。で、CD一枚で私は劇団の役者になり、今に至る。



私がライブで『鳥の会議』って言う曲をやっているのだけども、之は観客にバードコールを鳴らしてもらう、っていうモノなんだけども実際にやってみると自分の音は聴こえない。だけども他人の音は聴こえる。
バードコールは「飽きたら他の人にやらせてね」と文言付きなので、丁度良い。

最近は『オファーを受けたらギャラは50万円』と設定しあ蓄音機DJだが、個人的にやる分に関しては好き。

皆で同じ音楽を聴いて、楽しめるなんて最高じゃないか・・・と思う。知らない人も何故か寄ってくるし。



脱原発デモは終わると皆、スマートフォンを弄りながら帰る。ライブ会場でも同じ。



スマートフォンは確かに凄い。だけども、スマートフォンの斜め上から人を繋ぐ事がアートの役割で、其れ以外は


金の無駄遣い

制作費を被災地に送れ

死ね


と言っても言い過ぎじゃない。



でも、そう言う事を意識している現代美術家が今はいるのか?と思う。金にもならない事を熱心にやる、って言う奴が。


今の現代美術はオープンマイクで呟かれる毒にも薬にもならん内相的独白でしかない。

其処まで地に落ちた、って事を判っている人が何人いるんだろう。


カオスラウンジについて1年間、考えたけども結局、現代美術が夢も希望も糞も無い腐ったジャンルである、と言う結論にしかならない。

ICCの最近の作品も面白くないし。


個人的に現代美術の連中には留置所覚悟で無茶をやって欲しい・・・けど、最早、終わったジャンルに言っても無駄なんだろけども。『雅楽』の「グランドコアをやってくれ」と言うようなもんなんだろうなぁ。

2012年8月20日月曜日

悪夢の東陽町

休みの日曜日だと言うのに下痢中。 



先程までは『屁』だけだったのだが遂に『気化』から『固形物』へ変貌した。トイレとPCを往復。 

そう言えば15時頃に『エホバの証人』が来て、彼是と話して言った。やんわりと「進化論は信じません」とかそう言う話を聞く。 
だが、エホバが持ってきた聖書(キリスト教とは別バージョンである)の一節を読むと、進化論は否定派だが、内容としてはキリスト教と言うよりはマルクス主義に近い。 

「何だかマルクスっぽいですね」 

と言うと 

「あ、っはぁ・・・」 

と言う。今日は2人で来ていた。後ろに居る女性は何だかエホバがなけりゃ『ヒッキー』か『腐女子』って言うか、 

「あんた、世の中でやっていけるの?」 

と一目で心配になるような感じの薄幸系。エホバが彼是と話している間、体内から固形物を出さないようにするのに苦労した。 




トイレで固形物を只管、出していると流石に疲れてくる。この疲れは恐らく『柔かい固形物』を作る為に体内の水分を大量に使うからだろう。 

先程、何とか這い蹲りながらコンビニへ行き『スポーツドリンク』を飲む。 


大体、新しい職場と新しい仕事をする、って流石の私も緊張するワケで、其れで大抵は便秘気味になる。で、休みの日には下痢と言うのがパターンである。 


しかも職場も『東陽町』と言う国内でも可也、特種な町である。 



節電が叫ばれているのでデータセンターであるにも関わらず冷房の温度を可也、高めに設定して『スーパークールビズ』となっているのだが普通、クールビズって『ポロシャツ』『チノパン』って言う 

殆ど介護職 

みたいな格好を指すと思うのだが、東陽町の会社はは桁が違う。まず、就業中の服装についても可也、戸惑った。 


(会社の先輩である田幡さんと小田さん)



之が東陽町のクールビズ。 

裸はさて置き、ペニスケースが仕事中に机にカンカンと当たって邪魔なのである。 
其れに、このペニス・ケースだが慣れないと痛いのである。 

ウンザリだ。 


派遣はペニスケースをつけるだけだが上司(つまり正社員)となると、また違う。特に部長クラスになると、こうなる。 



(和田本部長)



歩かないらしい。こうやって『肩車』で何処へでも行く。 

だから朝の列車の中で裸でペニスケースを付けている奴を見かけたら、其れは『私』か『東陽町で働いている奴』である。 


データセンターって事で目黒の本社から時折、来客が来る。その際は流石に全裸では不味いので服装が変わる。結構、手が込んでおり面倒そうだが。 


(来客が来た際の対応) 




白い粉を被り、変なお面をつけなくてはならない。正社員となると、こんなに面倒なのか・・・と思い知らされる。 

で、目黒の本社から来る奴ってのはやっぱり部長~課長クラスなワケで偉い。「社内で偉い」って言うのって非常にカッコ悪いと思うのだが、矢張り『偉い格好』をしているもんである。先日、来たので撮影させて貰った。 

(目黒本社部長) 


炎天下の中、地下鉄も列車も使わずに『馬』で来る。よく熱中症で倒れないなぁと思うが、矢張り正社員で部長クラスともなるとタフさが違うのだろう。 

一応、海抜0メートルだがデータセンターでもあるので『株式会社○○○○』のサーバーも東陽町にある。他社のサーバーも預かっているが(実はJTのサーバーは東陽町にある)、サーバールームと言ってもこんなレベル。 


(サーバールーム) 
こんなデータセンターのサーバーがこんなレベルだから、全国のサーバーも壊れるんだよ!と思うんだが。 
まぁ業務用のPCやサーバーって酷使されるから壊れやすい。だが直しやすい、と言う利点もある。 
私が使っているDELLのデスクトップPCも元々は何処かの会社で使っていた業務用である。無駄な装備が一切ない。で、多少、動きがアレでも何とか直せる(大抵は埃)。 



兎に角、私はこんな環境で仕事をしているのである。便秘で下痢にならない方がおかしい。 


嗚呼・・・。 


つい数ヶ月前までは新宿でハイセンスなファッションでビシっと仕事をしていたのに・・・。今では携帯に保存していた当時の写真を見て泣く日々である。 


(NTT-MEの柳君と高洲さん)



(今年7月頃の私の仕事風景)



こんなにお洒落でCOOLだった私が今では職場じゃ之ですよ。 




(仕事中の私)



ウンザリだ・・・。 

全く、近所の豊洲はあんなにも繁栄しているのに、何で東陽町だけがこんな感じなんだ。 




(豊洲)


(東陽町)



(豊洲の私立のエリート中学生)

(豊洲住民)


(豊洲住民)


(豊洲婦人会のメンバー)


(豊洲の立食パーティー)



豊洲はこんなにもハイセンスなファッションなのに・・・・。 

明日から、またペニスケースを付けて水牛に囲まれて土で作ったサーバールームかと思うと死にたくて仕方が無い。 
しかも今日は休みの為かネットが遅い。ったく、外で遊べ! 



そう言えば昨日の夜。蚕糸の森公園で深夜に練習しようと思ったら何時もの練習場所の近くでカップルがイチャついていた。暗闇なので何をしているか判らないが 

「あ・・・うっふぅ・・・」 

「あうぅ・・・」 

と言う神をも恐れぬ背徳の喘ぎ声が聞こえる。多分、学生だろう。夏休みなので学生や高校生が深夜に遊んでいる。 
其れは其れで別に問題は無いのだが、しかし学生の本分は勉強! 

夜中に遊んでいる暇があったら歴代の天皇の名前くらい覚えたらどうだ!?と思うのだが、之が『ゆとり教育』って奴だろう。 


バイオリンの音は左脳を刺激するが、金管楽器は右脳・・・理性とかそう言うのを刺激するらしい。 
で、練習し始めたら、ソソクサと消えた。 

矢張り 

「こんな外でHな事はしてはいかんな」 

と思ったのだと思う。トランペットは正義の楽器なんだよ!