10分程度の話だが、私が面白いなぁと思ったのは
1)現代アートテストとは何か?=芸術大学を出た人、併せて論文を書いた人の事。
2)現代美術は既に価値はない
3)本の表紙、雑誌の広告が既に現代美術を越えている
4)現代アート『美』ではなく『説明可能なモノ』である。
5)現代アートはオワコン
6)嘗ては複製芸術がなかった。だからこそ『芸術』と言うモノが価値があった
7)『現代アート』とは『之は現代アートです』と説明可能で、尚且つ投機対象となるもの。
と言う。で、この講義の発端は『カオスラウンジ』である。
『カオスラウンジ』に関しては友人・知人を介して知っていたけども「ふーん」と言うか、作品自体が余り面白くなかった。
『90年代サブカル』
と言う感じだったし、作品自体も面白いとは思えない。村上隆がデビューした時は私は田舎の高校生だったから、そのインパクトは判らなかったし(確か明和電気も鮮烈なデビューの時期だった。その後、モヒカンのサウンドアーティストが出てきて、其れは面白かった。ギター・シンセにサンプラーを接続して、ギターを弾くと『マルクス』『レーニン』『アメリカ』『セックス』と言葉が鳴り捲って、結果的に言語のノイズになる、って言う。しかし本人が可也の曲者だった為かメジャーにはならなかったけども。)。
其れよりも個人的にショックだったのは『カオスラウンジ』の作品が事件となり、そして現代アート界隈が可也、騒いだ事だった。
つまり、言ってしまえば『現代アート』と言うアナーキーな界隈は実は、数枚の素人コラージュ作品程度で覆ってしまう程、弱体化している、と言う事を露見したし、同時に現代アートの作家達が、企業メセナや村を借り切って大規模な作品を作ったりしていても結果的には素人コラージュと同じ程度の連中だった、と言う事を露見してしまったと思う。
其れは可也、個人的にはショックだった。
私自身、高校1~2年生の頃に現代美術っての知ってフルクサスだとか、今や誰も覚えてない『新宿少年アート』等に憧れた・・・と言うか
「俺みたいな駄目で、変な奴でもやっていける界隈があって、そう言う人達でも存在が許されているのか」
と思って、凄く憧れた側としては相当にショックである。何しろ憧れが高じて北九州市なんて言う寂れた街にゲリラ的に作品を作って勝手に展示までしていた程である(ファンが3人ほどいたらしい)。
ちょっと話は脱線するんだけどもインターネットが登場したのは90年代終り頃だったと思う。少なくともメディアでインターネットってのが騒がれて、信じられない話かもしれないが98~99年頃までは何と
「俺の家、インターネット引いているから」
と言う文言で異性を自宅に連込めたのである!今だとネット程度じゃ誰も連込めないし、って言うよりも『PCでインターネット』と言う状況が既に頭打ちだが、98年は違ったのである。
その前に最初にインターネットに注目したのは立花ハジメなどの『メディア・アート』と言うか、その辺の人達だった。
「世界と繋がれる」
って事で。
上記の岡田斗司夫の主張によれば既に現代アートには何の役割もなく、既にオワコンとなっている、と言う。
之は『カオスラウンジ』が云々とか岡田斗司夫が、とかじゃなくて『現代アートの連中』が
サボっていた
結果である。だから現代アートは只管、衰退して言って欲しい。現代アートなんてヒロ・ヤマガタとクリスチャン・ラッセンで十分である。
その位、今の現代美術は
終わっている。
90年代後半に『メディア・アーティスト』と言う胡散臭い連中がインターネットに注目したのは、当時としては真っ当だったと思う。
私が思うに現代アート・・・と言うか古今東西の『アート』の役割ってのは見ず知らずの第三者同士を繋ぐ事だと思う。
其れ以外にアートの役割があるのか?と。
例えば『AKB48』はメンバーの顔や個性は皆無に等しい。完全にコンセプト・グループだから。
例えば『脱原発デモ』の参加者には顔も個性も皆無に等しい。アレもコンセプト・グループだから。
言ってしまえば本来ならばAKB48や脱原発デモ~集会は現代美術の名に括られる連中がやるべき事だったはずである。
其れを知らずに田舎の村で糞下らん『アート』を芸代の学生ボランティアをこき使いながらやっていたんである。企業メセナで貰った分、キャノンの工場で死ぬまで働いて来い、って感じだが。
アートって宗教と同じで「同じものを第三者と共有する喜び」と言う部分だけで成り立っているし、其れは同じく宗教もだけども、其れを完全に破棄しテしまえばアートとしては成り立たない。
岡田斗司夫はスーパーマリオやエヴァを挙げているが、確かに上記の作品はパチンコ中毒者から田舎のガキまで繋ぐ事が出来たワケで。
今だと下手すると『アイフォン』やスマートフォン自体が『作品』と言っても良いだろう。現代美術は最早、企業の商品よりも弱い。
インフラを個人が作る事は不可能だ(ネットラジオはアレだが)。
そうではなくて、インフラの斜め上なり斜め下をやるのがアートの役割なんじゃないか?と。その『斜め』から人と人を繋ぐ事がアートの役割だと思う。
ゴッホの絵は凄い。
何故ならばゴッホの絵の価値は兎も角『ゴッホの絵』って事で「あいりん地区」のガキからユダヤ人の金持ちまで「共有する何か」はあるのだから。
そう言うもんだろ?アートってのは。
「美」なんてモンを人間が作れると思ったら思い上がりである。ジミ・ヘンドリックスが偉大だろうと、バッハが凄かろうと、ビートルズ、マイルス・デイビス、ジョン・コルトレーン、チャーリー・パーカー、グレン・グールド、ジョン・ケージ、ペットサウンズにジェームス・ブラウンが偉大だろうと何だろうと、連中が生涯をかけて作り上げた音は、その辺の
『蝉』
『鈴虫』
の1/1000000000以下なんだから。ギブソンのギターが凄かろうと、ベーゼンドルファーのピアノが
が凄かろうと、軒下に吊るしている
『風鈴』
の方が遥かに『良い音』である事は誰もが知っているはずだ。
只、風鈴や蝉では人とは繋がれない。
其処を補うのがアートの役割じゃないのか?
私事で恐縮だが何年か前。初台のICCでの出来事。
その日はその年最大の台風直撃の日で、例によって私は会社をサボった。で、ICCに行った。
会場には誰もいない。学芸員だけ。
一人でICCってのも悪くないなぁと無響部屋で思ったのだが、ICCって『インターコミュニケーション』を歌うだけあって、「一人じゃ楽しめない作品」ってのも多い。
其処で。
学芸員の方が暇つぶしもあったのだろうが、私の相手をしてくれた。学芸員と私は何の接点もないが、その作品を介してだけ『接点』と言うのが出来上がる。
最近は非常に面白くないICCだが、一番、楽しかったのは、あの日の台風の日だった。
私は音楽をやっているので、その辺の話もしたい。
私は音楽をやっているが以前は演劇青年だった。18歳から22歳まで(厳密に言えば24歳まで)必死と言うか全身全霊で演劇をやっていたし、其れが全てのきっかけだった。
その理由ってのが福岡県で活動していた『シリウス』と言うハーッシュ・ノイズのバンドだった。
当時、福岡市にはノイズ・ユニットは片手で数える程しかいなくて、其れのライブに行った。行ってみると客は私を含めて7~8人だったと思う。
ライブは怒涛のノイズだったが、私は踊ったりしていた。
其れを見た客一人が「君、こう言うの好きなの?」と話しかけて来てCDを借りる約束をした。そのCDを借りる場所が
その人が所属する劇団の稽古場だった
というか。で、CD一枚で私は劇団の役者になり、今に至る。
私がライブで『鳥の会議』って言う曲をやっているのだけども、之は観客にバードコールを鳴らしてもらう、っていうモノなんだけども実際にやってみると自分の音は聴こえない。だけども他人の音は聴こえる。
バードコールは「飽きたら他の人にやらせてね」と文言付きなので、丁度良い。
最近は『オファーを受けたらギャラは50万円』と設定しあ蓄音機DJだが、個人的にやる分に関しては好き。
皆で同じ音楽を聴いて、楽しめるなんて最高じゃないか・・・と思う。知らない人も何故か寄ってくるし。
脱原発デモは終わると皆、スマートフォンを弄りながら帰る。ライブ会場でも同じ。
スマートフォンは確かに凄い。だけども、スマートフォンの斜め上から人を繋ぐ事がアートの役割で、其れ以外は
金の無駄遣い
制作費を被災地に送れ
死ね
と言っても言い過ぎじゃない。
でも、そう言う事を意識している現代美術家が今はいるのか?と思う。金にもならない事を熱心にやる、って言う奴が。
今の現代美術はオープンマイクで呟かれる毒にも薬にもならん内相的独白でしかない。
其処まで地に落ちた、って事を判っている人が何人いるんだろう。
カオスラウンジについて1年間、考えたけども結局、現代美術が夢も希望も糞も無い腐ったジャンルになっちゃった・・・と言う気がする。
ICCの最近の作品も面白くないし(ICCは仕方が無い部分もあるけど)。
個人的に現代美術の連中には留置所覚悟で無茶をやって欲しい・・・けど、最早、終わったジャンルに言っても無駄なんだろけども。『雅楽』の「グランドコアをやってくれ」と言うようなもんなんだろうなぁ。
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