アートは人権を侵害しても良い。
アートは人権を侵害してしまうもの。
らしい。
http://dontexploitmyanger.tumblr.com/post/139272281222/kcua%E3%81%A7%E8%B5%B7%E3%81%8D%E3%81%9F%E3%81%93%E3%81%A8
※1 : 丹羽良徳がギャラリーにデリヘル呼ぼうとして怒られたことについての反応http://togetter.com/li/932439
人権と言うとアレなので『自尊心』と言えば良いだろうか。人権って『自尊心』と言う言葉に置き換えることも可能だから。
そう考えると分り易い。
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「88の提案の実現に向けて」丹羽良徳
アカデミーと社会との往来 のなかで「88の提案」よりピックアップした提案の以下の実現に向けて実践的な行動を開始します。
便宜的に講義ということにしておきますが、実際には参加者の実践的な参加が求められます。当日はビデオ撮影を予定しているので、参加者はビデオに映ることをご了承のうえ参加ください。同時刻より増本泰斗 featuring 吉濱翔「bar spiritual fitness」と同時並行で開催。持ち物なし、途中参加・途中退場自由。
14. デリバリーヘルスのサービスを会場に呼ぶ
78. 男子トイレと女子トイレを入れ替える
74. 階段で野菜の天ぷらを揚げる
85. タクシーで城の周りを5周する
(イベント終了後追記)
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問題となったのは『14. デリバリーヘルスのサービスを会場に呼ぶ』である。それが『開かれたアート』らしい。
アートって最初から閉じられてないし、開かれてないアートはアートじゃねーよ、って言う気がするんだけどさ。
『ぼくたちの政治』
とか
『ぼくたちの』
みたいなさ。胡散臭いんだよな。なんってかな。
此れって
『男性が考えるセックス・ワーカー』
なんだよな。『セックス・ワーカー=糞ビッチ』って言うかさ。
なんでセックス・ワーカーなんだ?って言うか。理由を問うのはシャラ臭えののだが彼等が呼ぼうとしているのは
『男性相手に性的サービスを金銭と交換で行う女性』
なんだよな。
『女性に対して性的サービスを金銭と交換で行う男性』
『男性に対して性的サービスを金銭と交換で行う男性』
ってのもいる。
だが、彼等は『女性』を呼びたがっている。何故かって言えば純粋に彼等がSW、もっと言えば女性と言う生き物を『性的搾取』の対象としてでしか見てないんだよな。
もしかしたら国家公認のアーティスト様なので深い考えがあるのかも知れない。
だが、こちら側としては『金でマンコを売る糞ビッチを呼ぶ』と言う風にしか見えない。製作者側に何らかの深い考えや、思想があったとしても、コチラにはそう云う風にしか見えない。
この企画に関わっている『渋家』の人は
「アートは人権を侵害するモノなんですよ」
と言う。まあ、これに関しては半分は同意せざるを得ない。私自身、アングラ演劇なんぞをやっていたから、
1:盗み
2:強奪
3:法の度外視
って処でやっていたワケだし、文句は言えまい。
ただ、そう言うやり方が2016年に通じるとは思えない。そう言う事が通用したのは言ってしまえば70年代までだった、と言うか。
何というか江戸時代から昭和の中頃までは『常識』『ルール』『大人と子供』って言うのが生きていたんだろうな、と思う。
で、60年代に『千円札事件』とか、アングラ演劇やアングラ映画が彼是と「此れまでの常識を壊すんだ!」と破壊して行ったけども、破壊行為は単純でさ。
もう、破壊だけなら誰でも出来るんだよな。問題は壊した後の事で。
だからこそ70~80年代に雨後の竹の子の如く出没した過激なアングラ演劇や映画、パフォーマンスは尽く消えていったワケで。
ってか60~70年代の「此れまでの常識を打ち壊すのだ!」って言う破壊衝動も、思えば10~20年前に敗戦で常識どころか国家自体が壊されてんだから、トンチンカンだった気もするのだが。
個人的な話になる。
少し・・・かなり青臭い話になる。
私は以前はスーパーデラックス。今はBULLETSで『鳥の会議』と言うイベントをやっている。
イベントのコンセセプトとしては
『チャージフリー』
である。紆余曲折あったが此れが大本のコンセプトに近くなってしまった。とくに311以降は其れを意識してしまう。
イベントなんだから多くのイベントと同じように「素敵なアーティストを!」である。ただ、私の趣味、嗜好が現代音楽だったり、ノイズだったり、ごった煮なのでロックなバンドは出せない(バンドが呼べない理由はbulletsにドラムセットがない事と、店の音量の都合でドラムセットが使えな事)。
ノイズとかフリージャズとかフリー・ミュージックとか、極北的なサウンドとか、聴いた事ねぇけど、何が面白れーのよ?って思う。
実際、私は長年、デレク・ベイリーを「馬鹿げている」と思っていたし。
しかし、実際に見てみたら、聴いてみたら面白いかも知れないじゃない?って言う。ロックなバンドだけが音楽じゃないんですよ、って言うか。
若年層が考える『ライブハウスの音楽』『クラブの音楽』ってロックなバンドとか、弾き語りなワケで。
此れは仕方がない。大雑把に『若者』と括ってしまえば、実はリストラされた中年男性よりも若年層の方が保守的だし、経済的にも保守的に成らざるを得ない所もある。
で、ですよ。
20世紀音楽・・・ポップ・ミュージックって基本的に『貧乏人』が発明してんだよな。貧乏人じゃなかったとしても情報が変な入り方をする場所、と言うか。
例えば今ではインテリと金持ちのBGMでしかないJAZZも元々はギターしか買えない貧乏黒人や、第一次世界大戦集結で軍から大量の金管楽器が安く流出して、其れを買った黒人やヒスパニックとか、最近だとヒップホップとか。
私の周囲は貧乏人ばかりだ。生活保護だったり、普通に貧乏だったり。
と言うか派遣社員やバイトがデフォで、正社員なんて絶滅危惧種なんじゃないか?って言うか。
現代の貴族階級が『正社員』と言うか。
で、ですよ。
「聴きに行きたいけども、金がないから行けない」
と言うのを私は無くしたい、と思っている。音楽は快感であり、官能であり、哲学でもあるので、其れに対して金銭の交換は必須だと思う。
だけども、交換するための金銭を持ってない人ってのが多いし、そう言う人達は減りはしないが、増えもしないだろう。
毎月のスマートフォンの代金が1~2万円ってのがデフォになってきているんだもの。
例えばCDバブルの時期って実際にはそんなに長くない。90年代の数年間程度だった。
CDバブルが終焉したのは『ケータイ電話』『iモード』の登場だった。
だからCDをバカスカと買っていた人達(高校生とか学生)が10の金額を其れまで3~4までCDに突っ込んでいた、とするとケータイが登場して『一人一台』の時代になって、その3~4をケータイ代金に使わざるを得ない。
それでCDが売れなくなってきた。
次にPCとネット。で、最後はスマートフォン。
そもそも、若年層に与えられる仕事なんて苦労ばかりで薄給仕事しかないんだもの。それに今だとバイトと言う階級も難しくて派遣となる。
正直、正社員よりも遥かに多い量の仕事をして、正社員の半分以下の給与なわけでさ。
だが、ライブハウスは90年代と変わらない料金を要求し、客が入らないと
「今の子は音楽を聴かない」
と嘆く。
で、さらに個人的な話になる。
私自身は音楽が大好きだったし、音楽をヤリたかったがギターは弾けなかったし、ピアノは上手くない。DJもやっていたが当時のDJってレコード1000枚からがスタートで、私は200枚しか持ってなかった上にターンテーブルを2台も所有出来なかった。
シンセサイザーはバイトして購入したが、当時の額で20万円だったんだよな。
高校生で20万円は大金どころじゃない。
だが、買ってみると『アシッド・ハウス』や『デトロイト・テクノ』のような音は作れなかった(KORG 01W)。
3年ほどシンセサイザーとシーケンサーでTB303みたいな音が出ないか?サンプリングされたような音は出ないか(渋谷系)?と格闘したがダメだった。
そこへフリージャズと、ノイズ・ミュージックを聴いた。
「此れだったら自分の心情や森羅万象を表現出来る気がする・・・」
と思った。
其れがブルースだったかも知れないし、シュトックハウゼンだったかも知れないし。ただ、私が出会ったのは、そう言う音楽であり、タイミングだったのかも知れないけども友人もいないし、恋人もいないし、女系家族で育てられたのに、進学先は男子校という最悪の状況だったし、父親は頭がおかしかったし、九州の封建的な地区だし、どん詰りも良い所。
そんな中で聴くフリージャズやノイズってのはホンッと希望の星に聴こえた。
「俺は一人じゃないんだ」
と思えた。
因みに『非常階段』と言うバンドが大好きだったのだけども、過激なライブをやっていた事は後になってから知った。だから純粋に音だけで好きになった。
歌えなくても良い。
ビー!とかガー!でも良い。
リズムがなくても良い。
っていう。テクノに関してもそうだったけども「俺は一人じゃないんだ」って思えた。
自分のような枠からはみ出てしまう奴が、実は彼方此方にいるんだな、って思えた。
『福岡県北九州』と言えば修羅の国だが、基本的には非常に封建的で保守的な街である。
そこで「お前みたいな奴はいない」と言われてしまうのは死刑宣告に近い、と言うか。DQNは多数いたが、妹がDQNで番長だったが、アレはアレで非常に面倒臭い人間関係とルールがあるし、私には到底、なれそうにもないモノだったし。
アングラ演劇に関しても「此れだったら一人ではないな」と思ったから、かもしれない。
『私は一人じゃない』
と思ってくれる人がいてくれる事が最大の目標で、其れこそが私にとってはアートなんだよな。
で、ですよ。
上記の『デリヘル嬢を呼ぶ』って言うのは、『デルヘル嬢』を一人にさせる事だよなって思う。
つまり『デリヘル嬢を吊るされた野菜と同じモノとして見る』と言うか。
だから人権侵害とか自尊心侵害どころの騒ぎじゃなくて、そんな事を考えている奴がアート(w)と言う感じがする。
って言うか、そんな奴に助成金出している役人は何を考えてんだよって思うけど。
こう言う思考ってマッチョって言うか『体育会系になれなかった文化系が考えそうな事』と言うか。
古今東西、女性ってのは男性社会において『贈与の対象』だったわけだよな。芸者の処女が『水揚げ』と言って高値で取引されたり。
取引されるわけだから、そこには値段があり、オプションがある。
1:若い
2:スタイルが良い
3:高学歴
4:男性経験が少ない(または処女)
そこに『人格』とか『思考』『思想』は入らない。血が詰まった穴袋でしかない、と言うか。
上記の
「88の提案の実現に向けて」の丹羽良徳は孤独じゃないだろうし、芸大卒って言う比較的、裕福な出身だし恵まれた人間関係もあるだろう(じゃなかったら、ああ言う活動は出来ない)。
「誰も孤独にしない」
と言う事が21世紀のアートだと思うんだよな。有史以来、一部のアートは限らた人にしか開放されていなかった。
美しければ良かったワケで、其れには技工と伝統と卓越した能力が必要だったからパトロン・システムは致し方がなかったと思うが。
しかし、アートってすでに開放されてんだよな。
誰もが持っているiponeは携帯電話でもPCでもないモノだし、アレはアートだろ、って。
もっと言えばスーパーマリオもアートだったし、腐女子が好むBL漫画もアートだろ。
『見知らぬ誰かと繋がる』
と言う事が20~21世紀アートなんだよ。60~70年代は其れを見た人をオルグする、って言う形だったけども、時代が違うでしょ?って。
今の時代ほど人と人が繋がることが困難な時代もないんじゃないか?って。
LINEやFB、ツイッターと言うアプリケーションを使わないと繋がれない、って変だろ?って。
311の話に戻るんだけども。
日本だけじゃなくて、世界レベルで『311以降/以前』ってなっちゃったんだよな。
だからアートにせよ、音楽にせよ、映画にせよ、『311以降に作っている』と言うスタンスは、
「アーティストです」
と他称/自称に関わらず『311以降』なんだ、って思う。
311以前のロジックは全て役に立たない。と言うよりも311以前の事は全て意味がない。
其れを意識しない作品なんて糞だと思う(震災後に大量発生した『震災ポエム』は死滅して欲しいが)。
私は311以降の事を大前提として考えている。
で、現状の音楽環境だと「音楽を聴きに行く」と言う行為が、能や狂言、オペラを観に行く並にハードルが高くなるだろうし、誰も行かなくなるだろうな、って思う。
5年、10年後に音楽をやる人、聴く人、その場所を続けなきゃいけないと思っている。インターネットで音楽環境は作れないモノだから。
で、上記の「88の提案の実現に向けて」だけども、こう言うのがアートです!(キリっ!)とやっていると、『日本の現代美術』って、あと5年で消えるんじゃないか?って気がする。
全体が面白くないと意味がない。
映画が面白いだけでもダメ。
音楽シーンが面白いだけでもダメ。
全体が底上げされなきゃならないし、底上げすべきだと思う。
最近、『現代美術』のフィールドからアホな話しか出てこない。此れじゃ困るんですよ。コチラも。