2016年12月17日土曜日

この世の片隅に


今日は5年ぶりに映画館に行った。



友人が劇団の公演が近い事もあり、ストレスが溜まっているので、其れで映画はどお?って言う。

観に行ったのはコレだ。








          
                 【この世の片隅に】



もう、傑作中の傑作。

実は連載中に原作をある程度、読んでいたのだが劇場版も文句なしドコロか100点満点中、120点!!!

100点は原作の良さとリサーチと映画としての完成度、当時の生活や行動、振る舞い等の入念なリサーチ。
残り20点は主人公が原作者である「こうの史代」さんがモデルになっている処(長谷川町子のエピソードも入っているが)。

原作者の視点で書いているので、其れが現代的になっている。


これは役者を使ったら出来なかった映画だ。アニメーションだからこそ、である。

私自身が『こうの史代』のファンってのも大きい。

まぁ、ストーリーを書いても仕方がない。


眠たいから続きは後にするとして、映画のテーマ・ソングが『コトリンゴ』と言う人の



『悲しくてやりきれない』









である。原曲はフォーククルセイダーズだが、私が好きな曲。だが、これまで勘違いしていた。

「ったく、悲しくてやりきれないよ・・・嗚呼、死にたい」

と言う絶望的な曲だと思っていたのだが、実は悲しみと喜びは表裏一体なんだよな。


悲しめるって事は、悲しめるほどの精神的な余裕があるんだよな。

悲しいから、次に行けるんだよな。
やりきれないから、やれるんだよな。


だから、あの曲は戦前ブルースに限りなく近い。戦前ブルースも

「俺の女が出て行った。でも、俺にはブルースがあるさ。なんとかなるさ」

って言う。自分の境遇や馬鹿さ加減を笑い飛ばすって言う。


感情は常に表裏一体。

美しいって事と、恐怖は同じ。
怒りは喜びだし。
楽しい事は悲しい。
悲しい事は楽しい。
恋は憎悪。
愛は憎しみ。
優しさは殺意。

SFとかで「コンピュータが感情をもってしまい」って言う設定があるのだが多分、量子コンピュータが実現しても、人間がもつ、この奇妙な感情は作れないと思う。



この映画をヒトコトで言えば「生きる」なんだよな。だが、『風立ちぬ』が「生きねば」だけども、其れはテーマでしかなく、例えば『ブラック・サバス』のテーマが「恐怖とロック(ブルース・ロック)」だけども、それは大雑把なテーマでしなく、曲はポリリズムを多用した超絶技巧と理論的な構築で、恐怖ってワケじゃないように。


『曲馬館』と言う劇団があって、70年代後半の劇団なんだが新左翼華やかしり頃の劇団で、それを観た人曰く、「どう言う劇団だったか?と問われれば『ヒロヒトを殺せ!』です」と言っているのと同じだ。


『風立ちぬ』

『この世の片隅に』


と此処数年だけで2本もアニメーションと言う手法で「生きる」「生き続ける」と言う事がテーマになっている。

日本人にとって、生きる理由は見当たらないが『死ぬ』理由は沢山転がっている。だから皆、死にたがる。
年間自殺者が3万人を切った、と言うが警視庁が「自殺」と判定するのは遺書があるとか、露骨に自殺だけで、あとは「不明」だから、やっぱり3万人なんだよな。電車に飛び込むのも「事故の可能性」って事で自殺にはしないんだから。



生き続けるしかないんだと思う。



私は何度も自殺を考えた事があるし(考えたことがない人はいないと思うが)、自分が生きる意味ってなんだよ?って思う。

其れは音楽の為であり、自分の音楽を行うために生きている。

食えもしない音楽の為に。

たかが、音楽だが、それだけの為に生きざるを得ない。子供がいれば別かも知れないが、現状はそんな感じ。
もしかしたら子供がいても、そうかもしれない。


仏陀が死ぬ間際に弟子のアーナンダに

「この世は闇だ。仏法は、それと照らす松明だ」

と言ったらしい。闇を払拭するワケではなく、足元を少し明るくする程度だ。


音楽ってなんだろう?って思う。

音楽をやる、ってなんだろう?って思う。

仏陀が言う『闇』の中を松明も持たずに突っ走る事だと思う。

生きるって何だろう。

美しいモノ、そして其れに伴う恐怖と戯れる事・・・なのかも知れない。

生きるって難しい。


だけども夜空を見上げれば星は光っている。落ち葉が街を彩る。
星空の中に飛行機がキラ・・・キラ・・・と輝きながら消えていく。
トランペットを吹けば寒空の空に向かって、月の裏側まで飛んでいく。


「生きる」って普段だと実感し難い。


でも、生きるって・・・・


言葉は口にした途端に腐る。これ以上は書くのは止そう。

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