あの日から2年目
「あ、もう直ぐ311か」と気が付いたのは2日前だった。其れまで単なる3月だった。
正直な事を言えば何だか物凄く昔の出来事のような気がする。それと同時にアレに対して「現実味」が薄れている。
「忘れよう」としている自分がいる。
311以降の環境に必死に適応しようとしているからなのか、インパクトが大きすぎたのか。
例えば後、20年とか30年経って自分の中で、あの日の出来事がどう言う風に記録されるんだろう、と思う。
私の姉は大学1年生の時に近畿大学に進学していて、阪神淡路大震災に目の当たりにしているが、その事が猛烈なインパクトとして残っている、と言うような事を言った事はない。
ガチなスピリチュアル系にとって実は重要ではないのかも知れないし、過ぎ去った過去なのかもしれない。
「おネエちゃん子」だった私は95年の早朝にTVを何となく付けたら「こんな朝から映画上映か。世間は暇だな」と思った覚えがある。其れが現実だと気が付くのに時間が掛かった。
暫くして「お姉ちゃんが死んじゃった!!!」と静かに動転した。微動だに出来なかった。
身内が災害等で死ぬ、と言う事がなかったので、リアクションが分からない、と言うか。
幸いにも姉は普通に生きていたが(「こんなダサい格好で死ぬのは嫌だ!」と思い、急いで渋谷系なファッションに着替えたらしい。で、友人宅でコタツを囲んでいた)
阪神淡路大震災の数年後、神戸市の学校の入学説明会に行った事がある。確か既に5年くらい経っているのに街が復興中である事にちょっと驚いた。
で、復興のドサクサで私の生家はデパートの駐車場として埋立てられた。だから戸籍謄本の住所をググるとデパートの駐車場が出てくる。
あの日の事を思い出すのがキツイ・・・と言うか。
当時、介護職をしていたのだが震災ノイローゼになって退職した。資格は持っているのに介護職に行こうと思うと何か嫌な気がする。どうしても、311の記憶と、当時の仕事の記憶がセットになっている気がする。
311の時に揺れを感じて、急いで窓を開けた(一階だった。避難経路の為)。その時に「ゴー!」と言う音が聞こえた。
帰宅すると部屋は思ったほど酷い状況ではなかった(木造築30年は意外と地震に強い)。
事業所では直ぐにTVを付けた。リアルタイムでの映像だったから人が波に飲まれていく様子が普通に放映されていた。
其れを見て「トンでもない事が起きた」と思った。其れと同時に、私も姉と同様に
「こんな蛍光色のポロシャツと、チノパンなんて言う格好で、ジジイ、婆と一緒に死にたくねぇー!」
と思った。直ぐにでも帰宅してお洒落しなくては!と思った。人は途方も無い事態に遭遇すると結構、下らない事を考えるもんである。
携帯電話は震災が起きてから半日位は動いていた。その後、全く使えなくなったが。
で、確か最初に連絡したのは当時の恋人ではなく『大谷真由』と言う唐組で同期だった奴だった。何故、彼女に連絡したのか全く分からないのだが、確かそうだった。
都内は震度5強程度で、酷い被害はなかった。
だけども私自身は相当に強いインパクトを受けた。
部屋にいると軍用ヘリが物凄い音を縦ながら東へ飛んでいく。
環七にはデカイ、軍用車両が東へと走っていく。
何もかもが東へ進路を取る。
東からの中継をPCで得る。
新聞は捲っても捲っても死者の名前だけが掲載されいる。
「この世の終わりだ」
と思った。
一人のボケ老人がTVの画面を見ながら「「・・・ふっふっふっふ・・・はっはっはっは・・・ひっひっひっひ・・・ふっふっふっふっふ・・・」 と笑っていた。ボケても事態は多少は飲み込めたんだろうが、妙なリアクションになっていた。
あの日から経ったの2年間なのに10年もの歳月が流れてしまった気がする。
色々なモノを見たし、見なければ良かったモノを沢山見てしまったし、知らない方が良かった事を沢山知ってしまった。醜いモノを余りにも多く見過ぎた。
そう言えば其の年にSDLXのライブは6月に予定していたが、ズレた。と言うかSDLXのみならず沢山のイベントが流れた。
『不謹慎』
と言う言葉が流行語だった。震災の年を『絆』と言う言葉で表したボケがいるが、あの年の言葉は間違いなく『不謹慎』と言う言語統制だったと思う。其れも凄く嫌だった。
・・・と思い出しながら書いている。思い出すだけでも少し辛い。
あの日、あの頃、私は『死』を意識してしまったし、其れまで自分が生きてきた空間、文化、奇麗事、思想、全ての『終焉』を感じてしまった。
感じた、と言うよりは「確定」と言うか。『終焉』だったと思う。
好むと好まざると、どうしたって311以降の時間でやっていくしかない。其れは凄く面倒なんだけども。
同時に『311以降』の社会を作るしかないワケで。
面倒だけども。
皆さん、本当に今日も生きてくれて有難う。私は皆さんのお陰で生きているし、活動出来ています。
2年前は本当に死ぬと思いました。でも、2年間も生きている。
震災を切欠に知り合った友人もいるし、其れが切欠で切れた縁もあり。
どれも私にとって大事な人達です。皆さんは私にとって一番、大切な人です。何が起きても大切である事には変わりません。
私は口は悪いが、スタンスは変わりませんし、変えられるほど器用じゃない。
之からも私が愛する人達に少しでも幸があることを。
私は貴方達が少しでも平穏である事を祈ります。1日の中で1分でも5分でも。
平穏な時間が過ごせる事を。
私は切に望みます。
私が望んでいる事を。
皆が、私以外の人達にも望んでいただければ幸いです。
之からも宜しくお願いします。
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