のっけから言ってしまえば、OM-2を見始めて数年経つが此れまででベストに近いかな、と。
シンプルで、エレガントだが重たい、と言うか。
『セールスマンの死』
をモチーフにしたらしいのだが、まぁ全然違う作品である。過去には『ロミオとジュリエット』をモチーフにしたこともあるらしいが。
ただ、『ベストに近い』であって『ベスト』ではなかった。何と言うか一番、良かったのは311以降に最初にやった『「OM-2」日韓交流共同制作公演』である。
震災後、と言う状況が大いに加担した事もあるが、その『震災後』と言う状況を昇華していたし、其れを生かせる劇団ってのは意外と少ないもんである。
今回の『作品 No.9』は殆ど完璧だった。
台詞に頼らない劇団の為か、台詞回しがホンッと下手糞な劇団だったのだが台詞も上手くなったし、新顔の身体も強度を帯びてきているし。
舞台も美しい。
『セールスマンの死』をやろうとしたら結果的に『サミュエル・ベケット』『アルトナン・アルトー』になってしまった、と言う感じだがベケットやアルトーよりは、よりエレガントな解体劇。
何度も見ている私でも「素晴らしい」と思えるし、初めて見る人でも判る間口の広さ。
冒頭でiponeのFACETIMEを使ってのシーンがあるのだが、その使い方が素晴らしい。
もう、演劇なんてやめてサウンド・パフォーマンスに近い。
FACETIMEって動画を同時に送信するので音声が遅れて届くんだよな。
1秒以下だが。
だから、コミュニケーションしてはいるが実はリアルタイムではなく。
本人と相手にはディレイがかかる。思えば奇妙なモノであるが、その『奇妙さ』を上手く使っていた。
音楽をやっている人間としては「こりゃ敵わない」と思った。
ボイス・パフォーマンスも以前は思えば酷かったが、今回は誰が作曲したんだ?と思うほど綺麗だった。
メレディス・モンクの影響なんだろうが、もう演劇なんぞやらせておくには勿体無い程で。
「芝居なんて止めてサッサと音楽畑に来い!」
と思ったほど。
しかし、本当に綺麗でエレガントな舞台だったし、高いレベルだったからこそ『引っかかる』部分ってのはあって。
其処がとても
『惜しい』
と言うか。
『セールスマンの死』をモチーフにしたは良いが(此れは劇団のパンフと言うか主催者挨拶文に記載がある)、どうも接続が悪い、と言うか。
この劇団にストーリーは皆無と言うか意味を成さないので良いと思うのだが『セールスマンの死』って中年を過ぎた男性が、その老いと言うか中年以降の孤独感との対峙にすえ死を選ぶ、と言うモノである(実は『シルヴェスター・スタローン』の小劇場時代、最高演技をした作品でもあり、シルヴェスター・スタローンが本格的に俳優の道へ進む切欠となった作品でもある。『ロッキー』だけじゃないんだよ!奴ぁ!エイドリアァァン!)。
しかし、内容としてはセールスマンをやっている父が認知症、または若年性アルツハイマーと言う設定である(この辺は曖昧になっている。)。または単に老いた。
で、セールスマンだった父は精神病院と言うか施設に入る事になる。
施設に入る事で彼は居場所を見つける。
だが、自分に迫りつつある『老い』『死』と言うモノへの恐怖心は拭えない。
其処から逃れたいが逃れられないので『自死』を選ぶ、と言うモノ。
この辺が少し引っかかった。
老人達って実は『老い』と『死』が自分に迫っている事は重々承知なんだよな。
で、現状の老人は戦中派が大半の為なのか『死』から逃れる為ならホンッと、何でもする。
もしも『死』から逃れられる為なら殺人だってしかねないだろう。
その様子はしぶとく、そして吐き気がするほど醜い。
自分の身体が既に生物として終わっている事は判ってはいるのである。だが身近な『死』に対しての恐怖心は凄まじい。
例えば私の祖母は昭和36年から昨年まで熱心な『創価学会員』で、自宅を集会場として提供していた事もあり地区としては上の中クラスの学会員だった。
宗教の最大の目標は『死の恐怖を乗り越える』と言うものである。此れは世界中のあらゆる宗教に共通する。
其れを前提にしない宗教があるとすれば、其れは宗教ではなく『日本の会社員』か『共産主義』『資本主義』と言ったモノになるだろう。
そんな熱心な祖母で、御題目を身体が動く内は唱え続けていたのだが矢張り『死』の恐怖は凄まじいモノがあったらしく、祖母の『妄想』としては(妄想と言うか何と言うか。女性は幾つになっても乙女なので、妙な事を考えるものである)、
「火葬場でうっかり蘇ってしまい生きながら燃やされるのではないか?!」
と言うものだった。だから4回も入院して医者からも「此れがラストでしょう」と言われながらも不屈の根性で生き延びた。
「ったく、いつになったら死ぬんだ?」
と孫である私ですら思ったほどで。時折、家に行くと(入居型施設は強固に拒んだ)祖母宅の香りではなく、既に『朽ちた香り』と言うか。
簡易トイレがあり、使い終わった『オシメ(リハパン)』を捨てるゴミ箱があり、尿漏れ失禁の香り。
「既に『祖母』としての役目を終えたなぁ」
「で、いつ死ぬんだ?」
と思ったほどで。
長々と書いたが、何が言いたいか?って言えば老人が自殺を選ぶ事は稀である、と言う事。
『若年性アルツハイマー』
『痴呆』
『精神疾患』
と曖昧にされているが、一旦、施設に入った老人は大人しいモンである。若年性アルツハイマーだとすれば
「死のう」
と思って剃刀を探している間に「死のう」と思ったことを忘れる、と言う按配である。それに若年性は進行が早いので自殺は皆無に近い。
じゃあ、やっぱり中年男性の孤独なのか?となる。
「家族にも見放され、子供達からも疎まれ、存在価値が無い」
と言った台詞が後半にある。
だが、私自身がOM-2を個人的に知っている、と言うのもあるが実は違う事を言いたかったのではないか?と思う。
其れを『セールスマンの死』に接続させようとして失敗した、と言うか。
と言うか、接続不可である事は演出家なら判っていたはずで、其処をすっ飛ばしたのか「まぁ良いか」にしたのか、または無理矢理、『演劇的』にしてしまったのか。
『自死』に持っていく為のモチーフとして『セールスマンの死』は別に良いのだが、その『自死』への持って行き方に無理があった、と言うか。何故だったんだろう。
其れは判らない。
ただ、完璧に近い舞台が9割方、進行した後に薄っぺらい台詞、と言うのが非常に
『惜しい』
と言うか。あのモノローグが演出家にせよ佐々木氏個人のモノローグであっても良かったし、寧ろOM-2のスタイルとしては、個人的なモノローグで『あるべき』だったのではないか?と。
前作もモノローグではなかったがト書きでは殆ど演出家個人のモノローグだったわけだし。
いや、素晴らしい舞台だった。
観て感動すると思う。
しかし、無駄な経歴を持つ私は妙な処を見てしまう。しかし、今回はOM-2史上(旗揚げ公演以来)、最も『演劇的』『劇的』だった。非常に演劇的だった。
其処に驚いたし、実際に演劇的にしてみたら、エレガントさに拍車がついた、と言うか。
勿論、突然、演劇的にしたからこその「綻び」と言うのは致し方がないのかもしれないが。
そう言えば。
舞台を見ながら思い出したことがある。
私が進学した高校は市内でTOP1~3位の『馬鹿高校』だった。1~3位は殆ど意味が無く並列と言うか。
しかも『男子校』。
つまり『DQNしか居ない高校』である。
漫画だと激しい喧嘩だとか男の美学があるが、軍とヤクザの街なので「自分より遥かに強い奴しかいない」と言う諦めはある。
だから喧嘩で云々と言うのは実は少なかった。
ただ、悪名高き男子校だったので皆、不安だった。偏差値40程度の高校に進学する奴なんて『発達障害』か『DQN』しか居ないのである。
『DQN』なので馬鹿である。掛け算すら怪しい連中である。
じゃあ、何で馬鹿なのか?勉強しなかったからである。
何故、勉強出来ないか?と言えば机に座って大人しく問題集を解けなかったからである。
何故、問題集を解けなかったか?と言えば『勉強』は理性的だが、彼等は動物的と言うか身体的な欲求の方が強かった、強すぎたからである。
2~3台の廃棄バイクをバラして、1台のバイクに組み立てる、とかは出来るんだが掛け算は駄目、と言う連中。
喧嘩は自分よりも強い奴等しかいないし、其処に3年間も通わなくてはならない。
しかもDQNって高校生だと既に『晩年』なんだよな。DQNって基本的には小学生から中学生が全盛期で、高校生ともなると残り2年(3年生は就職があるのでDQN卒業なのである)。
やっぱり皆、怖いんだよね。怖いし、不安だし。
で、何故か全クラスで同じ行為が行われていたのだが
「机を只管、叩く」
と言う行為だった。トントコトン、と延々とやる。勿論、私もやっていた。不安だし。お陰で4~8ビートは判るようになったが。
中にはボールペンで机の足を叩いてパーカッシブにする奴もいたが(私やロック好きの奴)、主に手で机をトンドコトンと延々とやる。
授業中も休み時間も。
其れを見た担任が(毎年、同じ光景を見ているんだが)「何だかお前等、どこかの部族みたいだよな。トントコトントコと叩いてよw」と言っていたのが印象的である。
恐怖や先への不安、と言うのは言語化出来ないんだよな。
と言うか言語化出来る程、脳味噌のクオリティは高くないし、九州と言う土地柄、男性が不安心を口にする事は憚られていたし。
それよりも「机を手で叩く」と言う行為しかなかった。手が真っ赤になっても叩いていた。
言語を解体と言うか、言語化出来ない行為を身体的に表していたんだろうなぁと思う。
OM-2は台詞は殆ど無く同じく『机を叩く』『のた打ち回る』『打楽器を使う』だが、台詞を否定しているワケではなく、『言語化』される言語は口にした途端に腐りだす、と言うアルトー的発想なのかもな、と。
実際、愛の言葉も、暴力的な言葉も、本来ならば言語化されるべきではなく、其処にあるのは身体的な欲求である。
同じような発想で言えば暗黒舞踏やコンテンポラリーダンスと言うのもあるが、『OM-2』はもっとストレートだ。直球勝負、と言うか。
衝動だけをゴロン、と舞台上に転がしている
と言うか。テント芝居とかも近いニュアンスはあるんだけども、矢張り『台詞』と言う言語を通じた身体性なんだよな。だから、演劇って『アングラ』にせよ『漫才』にせよ、アカデミックではあるんだよな。
OM-2はそう言う意味で言えばアカデミックとは程遠い場所にいる。
アルトーに言わせれば「神の裁きと訣別する為」にいる。そう言う場所でしか彼等・彼女達は生きていけないし、其れは同時に私達の事なのである。
次回も期待である。
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