2015年8月24日月曜日

花々とBL

BL研究は進む。




BLを好む腐女子だが、此れが所謂『2ちゃんねらー』とは全く違う人種である事に気がつく。清潔感がある、とかじゃないのである。

なんだか変な感じがする。


東池袋の『まんだらけ』『K-BOOKS』に行くと「この光景は見たことがあるな」と思える。

私が高校~学生時代だが『渋谷系』『レア・グルーヴ』全盛期だった。その頃の中古レコード屋はこんな感じだったなぁ・・・と。
わき目も振らずに必死で買い捲る、と言うか。

当時と今では若年層の所持金が違うが、所謂『コピー本』なんぞに1万円のプレミアが付いていたりする。

「売れるのか?」

と思うが売れるらしい。



で、其れをBLに詳しい人に言わせると

「そりゃ買うよ!自分のドグマや内面を具体化してくれるモノなら買うだろ!」

と言う。

だが、中身は『BL』と言うパターン化された漫画なのである。


30冊程度ではあるが、

『純愛』

『一途』

『最後は同棲(男性同士が登場人物なので結婚不可なので)』

である。以前はもっと『BLのパターン』に縛りがあったらしいが(登場人物は30代/高学歴/エリート/取引による同棲との性行為/最後は同棲)最近は

『純愛』

『一途』

『最後は同棲』

と簡略化されている。

2006年を代表する『BL漫画』となると「窮鼠はチーズの夢を見る」。




この漫画だと


①三十代

②エリート

③取引によりホモへ走る

④純愛

⑤最後は同棲


と言うパターンの典型である。


『大奥』で有名になってしまった『よしながふみ』は矢張り違うのだろう。予めパターンから逃れている。


で、私が衝撃を受けたのは

『コピー本』

である。

『愚か者賛歌』






此れはマシな方だが、どう考えても黒マジックとボールペンだけで描かれている。

衝撃を受けたのは此れである。


『あばよ邪悪な理性!!』










此れは衝撃的だだった。「BL本を書きたい!」と言う初期衝動だけで描かれているのだが、絵が下手すぎて、此れが同性なのか異性なのかも分からないし、どう考えてもボールペン一本で書かれている。

殆ど『初期衝動』だけで描かれている


「此れが女性の初期衝動と言う奴か・・・」

と思った。



そこへ



男性側としての初期衝動といえば『パンク』である。少なくともメディア的にはそうなっている。

時折、『ガールズ・パンク・バンド』がいるが女性がロック~パンクをやる事は50年代からいるのだが、(もっと言えば40年代からスウィングジャズのバンドがいた)、こう言ったバンドを男性がどう見ていたか?と言えば

『ガールズ・バンド』

とカテゴライズされている事から分かるように『女の子が男性の真似をする』と言うニュアンスで観られていたと思う。
だから音楽性云々よりも可愛い女の子・・・少なくとも男性メインのサブカルチャーの現場に女性は少ないので多少、難があっても可愛くみえる・・・が自分達の真似をしている、と言うか。


じゃあ、実際の女性にとっての文化って何か?って言えば、個人的には『BL』になるんじゃないか?と思ってしまう。

思ってしまう、と言うより例えば男性が阿部薫を聴いて自分のドグマやトラウマ、思春期のグダグダが具体化されて、大げさに言えば『魂の救済』が得られるかのように、と言うか。

此れが文化じゃなかったら何なんだ。


----------------------------------------------------

若年層がセレクトする文化って、アングラにせよ、セゾン文化にせよ、クラブ文化にせよ、海外からの輸入物だった。

イギリスやアメリカで流行しているモノを、そのまま輸入して使う、と言うか。


近いものとしては明治時代の『鹿鳴館』


だからアングラ・カルチャーもセゾン文化もクラブ文化も次世代の為に何か残せたか?と言えば個人的には殆ど功績は皆無と言っても過言ではない。

もしも、此れまでの音楽や演劇を中心とした文化が後世に何か残せた、とするならばアングラやセゾン文化、クラブやライブハウスも閑古鳥と言う事はないだろう。


『鹿鳴館』が後世に何も残さなかったように、と言うか。


もう一つが、此れまでの『~文化』って予め『パッケージング化』されたモノを愛する、と言うか。

アングラ演劇でも渋谷系でも何でも良いのだが、

①パッケージングされている

②全国的な流通に乗る

③大手のメディアに掲載される

と思えば壮大なモノである。ヤング・カルチャーの萌芽として『アングラ演劇』があげられるが、アレも思えば全国的なメディアに掲載されたからこそ、なワケで『口コミ』ではないし、東京トップダウン型のモノでしかなかったわけで。

当然、ネットもない時代なので雑誌媒体などしかないのは分かるのだが、それを例えば田舎ならば田舎が自己流にアレンジしたか?と言うと疑問が残る。


因みに『腐女子』『やおらー』は80年代から存在した、と言う説もある。この辺の信憑性は難しいが00年代から10年にかけて爆発的になった、と考えるのが真っ当な気がする

--------------------------------------------

不思議なのは『男性』と言う生物は本能的なのか『コレクション』する処がある。趣味の物体で自宅を埋め尽くす、と言うか。


所謂『ヲタ』の部屋、と言うか。


私は趣味で蓄音機のSP盤を集めるが、凄まじい人になると家中、SP盤らしく『昭和館』のオーナーなんて妻に先立たれたのだが、妻の仏壇にまでSP盤を収納していたらしい。

処が、最近は音楽にせよ、2次動画~2次画像(漫画)のデータ化が激しい。

IT機器の発達によりituneが火蓋を切っている感じもするが、itineで落とせる音源って音質が悪いんだよな。

紙媒体には紙媒体の良さがあるわけで。

だが、男性的にはデータ化されてもOK、と言う事になるらしい。つまり自分が所有している端末やPCに入っていれば良い、と言うか。

そうなると、『只管、二進法のデータを集める』と言う事になる。物体ではなく『データ』である。

其れとは真逆の方向なのが『腐女子』で、『同人誌』と言う媒体が大きい為か、薄い本を集めまくるんだよな。

キャリーカートを持っている子が東池袋にいたりするが、あのキャリーカートに詰め込めるだけ詰め込むらしい。

量が桁外れなので、キャリーカートになるんだとか(カバンだと重たい)。

コレクター気質と言えば腐女子の方が今ではコレクターである。だから、逆転している気がする。


BL同人誌をデータ配信出来るか?と言えば出来る。実際にやっている。


ただ、『論理的・倫理的・道徳的にタブー』過ぎる同人誌も多いので、アンダーグラウンド的に売るしかない、と言うか。

①身体障害者

②国

③実在の漫画のパロディ

④社会的にタブーなモノ

⑤絵が下手過ぎるモノ

等。

BLに関しては『論理・倫理・道徳』と言うモノが皆無に近い。例えば『灰野敬二』をBL化する、ってのは男性的論理で言えばアウトなワケである。

灰野敬二をdisする事もアウトなのである。何故かアウト、と言う事になっている。

男性がメインで形成する文化には意味不明な『アウト』が多い。其れは殆ど小学校の授業で習う『道徳』に近いモノ、と言うか。
または憲兵に近い、と言うか。密告が当たり前、と言うか。

以前、

『灰野敬二を聴く事と、AKB48を聴く事は同じだ』

『灰野敬二=アイドル』

と言うのをツイートしたら2chで叩かれまくったもんなぁ。

宗教化するのが男性文化、と言うか。バチカン市国で「キリストとユダは殆どホモ関係ですよね」と言うようなモンである。

--------------------------------------------------------

此処からが本題なのだが00年代~10年代にクラブにせよ、ライブハウスにせよ『次世代』を取りこぼしてきた。

取りこぼしてきた、と言うより排除していた、と言うか。勿論、無意識なのだろうが08年~09年にかけての『派遣切り』がニュースになり


『若年層の所持金の無さ』

『若年層に求められる桁外れの労働力』

『若年層に与えられるインド並みの低賃金』


が露見したはずで。

若年層に金がないのは何時の時代も同じだが、「今後は賃金があがります」と言うモノではなく生涯1300円と言う状態が続くのである、と。


其処へ『鹿鳴館』的な音楽を聴く余裕がある若年層は減る一方で、増える事はない、ってのを誰も認識していなかったと思う。

自分達がやっている事は実は単なる『舶来音楽のカバー』でしかなく、『舶来音楽』を聴く余裕がある人は減り続ける、と言うか。

--------------------------------------------------

結果として無料コンテンツやネットでの情報で満足してしまう、と言う事になる。
リスナーを完全に無視した構造が延々と続いた結果、と言うか。

同時に80年代初頭に行われたCDと言う媒体、90年代~00年代に出てきたネット媒体により、『ロックのバンド』がカバーし続けてきた『洋楽(舶来音楽)』が手軽に聴ける事になったし、同時に『舶来音楽の下手なカバーでしかなかった』と言う事が露見したと思うんだよな。

アングラ文化がヤング・カルチャーの萌芽とすれば、例えば伝説になっている『村八分』のライブのチケット代金が当時の金額で500円。
現在の金額に直すと5000~6000円である。

『第三舞台』のチケットが当時の金額で1万2000円。

当時の東京都の最低賃金が650円だった時代に、である。

実際、70年代にヒッピーカルチャーを体験出来た階層って『金持ちのご子息』程度だったし、小劇場ブームを体験出来たのも金持ちのご子息だったし、ジュリアナ東京にせよ、クラブにせよ、同じだったワケで。

--------------------------------------------------

プレスリーや、ビートルズ、バンド・ブームの頃の過激なバンド。

これらに熱狂的だったのは、それらが『求められいたから』と言うか。だから自分達のスターであり、萌えの対象であり、と言うか。
(付け加えるがビートルズは日本ではリアルタイムでは殆ど流行っていなかった。来日した際は『外タレ』と言う扱いで、熱狂的なファンもいただろうが全国的な流行ではなかった。実際に皆が聞き始めたのは全国レベルで言えばビートルズの『解散後』である)。

『求めていた』から『受け入れられた』と言うか。

東池袋の『ROCK館』と言うのがあるのだが、矢張りビジュアル系だけである。腐女子にとって『ロックのバンド』はビジュアル系。

ビジュアル系のファン・サービスは凄まじい。


もう一つは『自分』と言うモノを肯定してくれるモノでないと、と言うか。


『全肯定』と言う事になるとBLになる、と言う気がする(腐女子にとっては)。


パンクにせよ、ファンクにせよ、どらビデオにせよ、肯定してくれる存在か?と言えば『嘗て』はそうだった部分もあったの『かも知れない』が、今では違うんだろうなぁと思う。

クラブ文化も言ってしまえば音楽ヲタ達が集う場所でしかなかったモノが、今ではリア充専用と言うニュアンスである。


資本主義が末期状態になり、自己を肯定するモノが既に電通的な『パッケージング化』された商品となり、大半は100円均一で買えるモノが、ブランドイメージ先行で1万円になる。しかも、買うにはリア充的なニュアンス。

いったい、誰がそんなモノに飛びつくと言うのだ。

---------------------------------------------------

ただ、私事で恐縮だがパッケージング化が不可のモノには、まだ未来がある気がする。

『自己のパッケージング化/ブランド化』

に成功したのは最近だと灰野敬二とボアダムズ、非常階段だと思う。時間は掛かったがブランド化とパッケージング化には成功していると思う。

ただ、其れは『終焉』と言う気もする。

個人的には『レベッカ』と『灰野敬二』は同じものだし、灰野敬二がフジロックに出てもおかしくない(disるワケじゃないが、国際的な知名度で言えばフジロックのメインで出演しても可笑しくないはずなのだが)。


ガラガラのライブハウス。

客は年齢層高め。

身内でワイワイと楽しむ。

第三者の参入を拒む。

発泡酒なのに『ビール』とされて800円の請求。

飲酒の強要

出演者には高額なチケット・ノルマ

キャパ100程度のハコに100wのマーシャルアンプ

水が漏れている便所

臭い

ぶっきらぼうな店員


誰が好き好んで行くんだ?と言う疑問はない。
----------------------------------------

NYに行った時に思ったのはアヴァンギャルドにせよ、フリージャズにせよ、カントリーにせよ、一定の集客がある。

と言うか「音楽を聴きに行く習慣」と言うモノがある。

ただ、日本の場合は『音楽を聴きに行く』と言うのは、庶民が『鹿鳴館の舞踊会に参加する』並みの敷居の高さがある。

経済的にも

音楽的にも

階層的にも

何もかも。

何故、こうなったか?と言えば、主催者・ミュージシャン・ハコ側が只管、自分達の行動を『鹿鳴館化』した結果である。

----------------------------------------

私は、そう言うモノは何もかも破壊してしまいたい、と言う気持ちが強い。

チョイとひとつ上の台座にあるものを引きずり下ろしたい、と言うか。


「あいつ等の音楽」

「あいつ等の場所」


ではなく


「私達の音楽」

「私達のイベント」

「私達の居場所」


を作りたいと思う。


BLを調べて、思い知ったのは『音楽~演劇の完敗』と言うか。

気が付けば大敗していた、と言う状態。で、此れに関しては取り返しが付かない。06年からSDLXで自分で今と変わらないコンセプトでイベントを続けてきて、其れは既存の音楽システムに対して『NO』と突きつけて来たつもりなのだが、私や、ライバルだった『TESTTONE』が細々とやっていたにしても全体は変わるどころか益々、保守的に成るばかり。


じゃあ、集客を見込んで『初音ミク』や『アニソン』のイベントをやれば良いのか?となると具体性や経済的なモノは大きいのかもしれないが、何か違う気がする。



私自身は現状を踏まえたうえで『音楽』や『パフォーマンス』と言うモノの力を信じたい。

そして変えて行きたい、と思う。

音楽に対しての集客は減りはすれども、増えはしないだろう。此れは『初音ミク』にせよ『パッケージング化されたノイズ』にせよ、同じ事だ。


じゃあ、減ったからと言ってやめるか?と言えば、そんなワケがない。


遭えて複数形で書くが



私達から音楽が消えたら。

私達の社会から音楽が消えたら。

私達の次の世代に音楽が残せなかったら。


芸は花だ。


愛する女性に花を。

産まれてくる子供に花を。

嬉しいときには花を。

死ぬ時は花に囲まれて。



人間は花なしには産まれる事も死ぬ事も出来ない。ituneのデータやアプリでは何が出来ると言うのか。

音楽は宗教の一部だ。

其れは自己肯定であり

恐怖と経済へのカウンターだ。

ブランドもパッケージも糞もヘッタくれもない。

鳥は泣くのではなく歌う。

もう一度、音楽を。

音楽を我等に!!!





0 件のコメント: