2016年4月8日金曜日

【美はト長調】


美とは何か?



日々、考えてしまう。何が美しく、何が美しくないのか。
考えても意味は無いのだが、其れについて全く考えないのも如何なモノかと思う。


音楽理論やテクニックと言うのは美ではない。
だが、美へのアクセスには近いだけで、遠回りしようと近道しようと美は美だ。
そして美は常に瞬間の中にしかない。

『美はただ乱調にある』

と言う言葉がある。

フリージャズを志していた頃に、そんな事を言っている人がいた。だが、未だに美が乱調にあるとは思えない。
そして、そう言う事を言っていた人の演奏は総じて醜かった。


ゲーテの『ファウスト』に

「時よ止まれ!おまえは美しい」

と言う台詞がある。戦後の東京オリンピックでも使われた言葉らしい(東京オリンピック自体は興行的に大失敗だったが)。



然し、『時よ止まれ。お前は美しい』と言う言葉ほど深いモノがあるだろうか。



美は瞬間的なモノであり、ゴッホの絵だろうと、演劇だろうと、ダンスだろうと、音楽だろうと、その最も美しい瞬間は、『瞬間』でしかなく、永続するモノではない・・・と思う。

上京当時、東京タワーを「すげぇ」と思っていたのは、自分が東京に住んでいる事について、と同義語だった(田舎者だから)。

だが、美しいと思った事はない。

美が瞬間的なモノであり永続するものではないのであれば人工的な建築物は皆、美しくない。


綺麗だったり

可愛かったり

素敵だったり

立派だったり


それが美か?となると首を傾げてしまう。金閣寺や平等院鳳凰堂と言った凄まじい建築物があるが、やっぱり「すげー」程度である。平等院鳳凰堂に美を感じた人が建設当時でもいたのだろうか?と思う。
奈良の大仏でも良いのだが。

然し人工物が少なかった時代には、テクノロジーは其れだけで美しいと思えたのかもしれない。



私が大好きだった舞踏家がいた。過去形なのは故人だからだ。

彼のダンスは10回中、9回は素晴らしいモノだった。彼は『美は痙攣的なもの』と言うスタンスだったが、彼のダンスで痙攣的なモノを求道している姿に惹かれたのではなく、彼が舞台の上で見せる


『ダンサーとしての自分』

から

『ダンサーではない自分』



と言う隙間にこそ美しさがあった。其れこそ「時よ止まれ。おまえは美しい」と言いたい程。


桜は毎年、咲いて、毎年、散る。物心ついた頃から延々と同じことを繰り返している。

だが、毎年、同じように「嗚呼、美しい」と思う。


美は永続するものではない。消えるモノであり、瞬間的なモノだ。

鬼や化物は瞬きの間に存在すると言う。

だとすれば鬼こそが美しい、となる。悪魔的なモノが美しい、と言うのは不思議だ。


桜に感動するのではなく、散る姿に感動する。


心が蕩ける。




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