2015年3月26日木曜日

クラムボン・ミトが語る、バンド活動への危機意識「俺は頭が悪いので戦えない」


http://realsound.jp/2015/03/post-2808.html

この記事を読んで最初は「だよなぁ。クラムボンも大変だ」と思ったのだが帰宅中に考えてみると、此れって「だから、なに?」と言うか。

①EDMやアニソン、ボカロと対等に戦わなくちゃバンドはやっていけない

②EDMやアニソン、ボカロに比べてバンドは時代遅れ
③メロディーの太さと歌詞の深さで勝負
と。

・・・何だか違うんじゃない?と。

私個人としてはEDMやボカロと言う形態は音楽全体として考えると、とても素晴らしい事だと思う。
『音楽を音楽家の手から開放する』
と言う意味で。
私の個人的な経験で言えばギターやベースがやりたかったけども出来なかった。どうしてもバレーコードが押さえられなかったし、ベースと言う楽器とは判り合えそうになかった。

で、『ノイズ・ミュージック』なんぞを知ってしまい

「此れなら俺でも出来るかも?」
と思い、発表を前提と『しない』音源を延々と作っていた。時折、人に聴かせる事はあったがリリースするにしても、流通だとか店だとか知らなかったし、ライブのやり方(ブッキング)も知らなかった。
今だったらネットにUPするんだろうけども90年代中頃は、ブラックボックスだった。

しかし、高校時代にテクノ少年だったから既に「バンドは時代遅れだ」と思っていたし、DJやテクノ、『バンド』ではなく『ユニット』と言うモノが出てきたから、ますます「バンド」と言う組織形態は傍から見ていて「時代遅れ」感と言うか。



と思っていたのが20年近く前。


其れを今更・・・と言うか、この記事のニュアンスで言えば
「音楽業界はヤバイ!ボカロとかEDMに侵食されている!連中と同じ土俵に行かなければ音楽の未来はない!」
みたいな印象を受ける。



最近、こう言う記事が増えたよな、と思う。其れは単にメジャーからリリースされるCDの売上が極端に減ったからじゃないかな、と思う。
多分、こう言う記事を書く人って90年代から2000年初頭の『CDバブル時代』がデフォルトだと思っているんではないだろうか。
アムロナミエのシングルが1週目で400万枚とか当たり前、みたいな。
モーニング娘が300万枚とかさ。

「音楽産業」と言うモノへのモヤモヤ、と言うか。

じゃあ、CDバブル時代に『インディーズ』と呼ばれる音楽や『演歌』も売上が上がったか?と言えば違うわけで。各社が自社の録音技術の最高峰を次ぎこんでいた民族音楽シリーズも多分、1万枚も売れてないと思う。


このミト氏のスタンスが「クラムボンは、って事でね」と言うのは判るんだが、多分「クラムボンに限った話ではない」と言う姿勢もチラホラ。

要するに自分達が『職業』としてやっていた『音楽業界』と言う『聖域』がボカロやアニソンに(売上、クオリティ)負けている、と言う事が単純に悔しいんだろうし、同時に軽蔑しているんだろうし、しかし、その辺とコミットしなければならない、と言う『思い込み』『独断』『偏見』。

多分、北島三郎とか美空ひばり(死んでるけど)とか『渋さ知らズ』とか、そう言う人達は、こんなアホな事は思ってないと思うんだよな。
美空ひばりが存命中に既にハウスは一部で流行していたが、美空ひばりが「シカゴ・ハウスか・・・」と4つ打ちの曲をリリースした経歴はないし、北島三郎がゴア・トランスと自分の歌声はあうだろうか?と悩んでいるとは思えないし、『渋さ知らズ』が流石に100人編成はコスパが悪いので10人くらいに減らして、あとの90トラックは全てMIDIって言うのも聞いた事が無い。

『時代性』とインタビューでは言うが、じゃあチャーリー・パーカーは時代遅れか?と。

個人的にクラムボンの1stには衝撃を受けたのだが、ポップスの王道バンドであり、時代性云々と言うバンドではないと思う。

もっと言えば『時代性』を体現出来るのは、その『時代性』の中から生まれた音楽家『だけ』だ。



『クラムボン』は実はファン。とは言えCDは買った事がなくレンタルCDでしか聴いてない。
一時期、嵌った『相対性理論』もレンタル。
因みに憧れの『裸のラリーズ』のオフィシャルCDもレンタル(15万円とか買えるワケがない)。オフィシャルビデオは某レコード屋の店主に『ひよこ饅頭12個』でダビングして貰った。あとはツタヤや友人にダビングして貰ったり。

うーん。

書きながら思ったのだが、この『ミト氏』は『現状の音楽シーン』と言う以前に『自分の食い扶持』についてだけを語っているのであって「バンドシーン」については一言も語ってない、と言うか考えた事すらないんじゃないかな、と。
デビュー前の『クラムボン』は新宿JAMなどで演奏していたが、バンド界隈しか知らない、と言うか。そんな印象を受ける。
『クラムボン』がデビューした頃には既にバンドと言う組織音楽は流行遅れと言うか時代遅れだったと思う。

そう言った組織音楽形態が有効だったのは高円寺を支点とした中央線カルチャーだけだったんじゃなか?と。だから渋谷や原宿がある『山手線カルチャー』では既にアウト、みたいな。未だと『都営大江戸線』『副都心線』でもアウト、みたいな。

彼が自分の食い扶持が危うい、と感じるのは単純にCDの売上と言う問題だろう。だが、CDが売れない&音楽が売れない、と言うのは『下駄屋』が靴に押されて「下駄が売れない」と言うのと同じで。
だが、『下駄』が壊滅したワケではない。下駄は下駄で愛用している人は多い。私も一時期、下駄だった(音が五月蝿い、と言う理由で大家に怒られたが)。

クラムボンとEDMやボカロを比較する事自体が頭が狂っているし、時代錯誤だ。

で、クラムボンがヤバイ、と言うからと言って音楽全体がヤバイ、と言うワケではない。
私が自主制作リリースもライブも出来なかった頃よりも遥かに全体的に見れば音楽は豊かになっている。

確かにライブハウスや「ライブに行く」と言う行為は減っているが、其れはまた別の問題だ(此れは半分はライブハウス側の問題でもある)。


『クラムボン』のファンとしては、結構、ガックリな記事でもある。


そんなに時代性を体現したいのであれば『Bisクラムボン』とか『初音ミク&クラムボン』とか『ジェフ・ミルズにリミックスを依頼する』とか『矢鱈とメンバーを増やし捲くる』とか『クラムボン解散』でもすりゃ良いワケで。

極論だけどもさ。


音楽が時代性と共に歩かなくてはならない、と言うワケじゃない。
だって、100年前のロバート・ジョンソンに感動する人もいれば、1920年代のルイ・アームストロングの演奏に絶句する人もいるワケで(サッチモのTP奏者としての全盛期は20年代である。TP奏者としては死にたくなる程の演奏である)。

ってか『楽曲の強度』ってのが「メロディーと歌詞」ってのが考えが浅すぎる。


じゃあ、今までは強度はなかったんですか?と。そんなゼリーみたいな半液体みたいな曲をファンにせよ、新規にせよ、買っていたし売っていたんですか?と。

「なかった事にしてください」

とでも言うつもりか。自民党員にでもなったのか?クラムボンは。

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