2019年12月12日木曜日

Sound Soup(音の海)/よんま

ジョン・コルトレーンの演奏を聴いていると

『JAZZ』
『黒人音楽』
『モード奏法』
『思想』

とは全く関係がない演奏になっている事に気がつく。何かを追求している・・・と言うか。

「自分が何を演奏たいのか分からない」

と言ったとか、言わなかったとか。




音楽に完成と言うモノはない。


もしも『完成された楽曲』と言うモノがあるとすれば、それは商業的にパッケージされたモノである。
例えば『スピッツ』のライブでは90年代にリリースされた曲も、21世紀になってもライブでは『その当時の音』に変えて演奏する。


それは音楽的には何か?すわ、クソ以下である。


然し、大半のリスナーはミュージシャンや作品の変化を好まない人も多い。アイドルにせよ、歌手にせよ、J-ROCKと言われるジャンルにせよ、変化ではなく延長を求められる。

だが、作品と言うものは変化していくモノである。

それを延長し続ける作業はミイラ作りや、死体保存技術、胃ろうのような無意味な延命治療であり、それは音楽家の作業ではない。







今回は『よんま』氏を紹介したい。


よんま氏と会ったのは21世紀になって、開店したばかりの頃の鶯谷 What's Upと言うライブハウスだった。
鶯谷 What's Upでは元々、JAMセッションを主体としたイベントを行っていた事もあり、その頃のイベントでは客も出演者も余り『区分け』がないOPENなイベントだった。
誰かが飛び入りする事も多かった。
その場で結成して出演するユニットもあった。


よんま氏は『丸首兄弟』と言うテクノポップ・ユニットで出演していた。


丸首兄弟は当時は二人編成で『純粋テクノポップ』としか言いようがない演奏だったが、素晴らしいユニットだった。

それと同時並行としてよんま氏はTB-303やTR-606と言ったハードウェアを使ったセッション・ユニットもやっていた。
ドラムが居たり居なかったり。

よんま氏のTB-303は激しく呻っていた。

皆、黙々とTB-303を操作するよんま氏の背中を見ていた。





よんま氏が丸首兄弟を脱退して、暫く何をしていたのか分からない。


鶯谷 What's Upの頃は皆、せめぎ合うような演奏をしていたし、私も演奏方法について探求していた頃だから、鶯谷 What's Upで会えば友人なのだが、それ以外の事は何も知らなかった。

音楽

演奏



それだけが全てだったし、面白くない演奏をしているユニットには近づかない(店の外に出る)と言った露骨な態度だったし、ミントン・プレイ・ハウスのような熱気だった。それ故にお互いの事は何も知らない、と言う状態だった。
お互いの音楽については知っているが、お互いについては全く知らない、と言った状態。


当時はMIXIが全盛期であり、動画サイトは無かった。YOUTUBEが登場する前の話なのである。

よんま氏はSNSに書き込むような人ではなかった。


だから、よんま氏が何時からアナログ・モジュラーシンセサイザーに着手し始めたのか不明である。

DAWがいよいよ勢いを増して来た頃だった。アナログ・シンセは人気があったが、

『自作シンセサイザー』

と言うのは、構築も購入も要領を得ない状態だった。



以前、紹介した『米本実氏』は先鞭を付けていた。だが、よんま氏と米本実氏は全く違う方向を向いていたと思う。


SNSでは再会していたが、実際に再会したのはつい最近である。


再会したのは代々木のライブハウスだった。対バンだったのである。

その時によんま氏がコスチュームを含めた総合的な演奏を行っている事を知ったのである。



まさか、シンセサイザーをラック・ケースではなく『おかもち』に入れるとは発想に驚いた。
私が想像する『モジュラーシンセ』と言うのはYMOで使われていたMOOGⅢだったので「こんなにコンパクト?」と思った。

演奏が始まると圧巻だった。


「此れは海だ」


と思った。何故かそう思った。海、またはスープ、水槽・・・。


水族館のアクアリウムを見ているような。または、真夏の海辺(岩場)と言うか。あらゆる生物が生息可能な生命のスープならぬ、電子音のスープだった。


子供の頃、港町育ちと言う事もあり海で泳いでいた。其処で魚や貝を取り、夕食になる。

調子が良い状態の海の中は「窒息しても良い」と思えるほど素敵だったし、快感だった。あらゆる生物と自分と液体が一体化しているような、呼吸困難と快感が渾然一体となる体験だった。


よんま氏の演奏は、まさに『海』だった。


あらゆる音、あらゆるノイズ、あらゆる波形、あらゆるリズムが渾然一体となり、聴覚範囲外の音すらも快感となる、そう

『体験』

だった。聴く、と言うよりは「感じる」。



それはライブだけではなく、氏が定期的にリリースしている『おしながき』と言うCD-Rでも遺憾無く発揮されており、モジュラーシンセの音だけが入っているだけなのだが、CDをセットするとスピーカーからは芳醇な海がリスニング・ルームに流れ込む。

此方はスピーカーの前で、その海に首までプカプカと浸かるだけである。










次はよんま氏が定期的に主催している『村まつり』と言うイベントだった。


このイベントの前に、インド・カレー屋で食事をしており、私のイベントに出演して頂いたのだが、そのミーティングだった。

「KO.DO.NAさん、今度は消防服のバージョンと、おかもちのバージョンがあるんですが、どっちが良いですか?」

と聞かれて、「消防服?」と、よく分からなかったので「どちらでもOKです」と答えた。



その『謎の消防服』バージョンは江古田フライング・ティーポットで観ることが出来た。



モジュラーシンセを今度は『消火器収納箱』に入れているモノだった。コスチュームとシンセサイザーは、『おかもち』の時は調理服であり、消火器のバージョンでは消防服。

一体、何処から入手しているのだろう。

『消火器のケース』なので小ぶりである。

「こんなにコンパクト?」

と、何年か前に思ったことを思い出した。


演奏が始まると、『よんま氏バージョンⅡ』と言う音だった。シーケンスなのか、リズムが強調されている。
だが、踊れる音ではない。

「イェーイ!」

と言う音ではない。

『踊りたいんだけど、踊れない』

と言うのは、つまりビ・バップであり、チャーリー・パーカーである。ありとあらゆるリズムと音色を駆使した結果、「全く踊れないダンス・ミュージック」が出来上がった。


私はSteve Reichを思い出した。Steve Reichと同じく、リズミックなのだが、そのリズムよりも切迫した(生命の危機的な)モノがあり、リズムは心臓の激しい鼓動のような切迫、緊迫、緊張したモノだった。

よんま氏のPUNK解釈、またはノイズ解釈なのかも知れない。
もっと言えば現代音楽への解答だったのかも知れない。



私事で恐縮だが、私が主催している『鳥の会議』によんま氏に出演して頂いた。実は長年、オファーを考えていたのだが事情があり、オファー出来ていなかった。
だから、氏を呼べたのはオーガナイザー冥利に尽きる。

その日はよんま氏に「やりたい事をやりたいだけヤッてください」とお願いした。

そして、よんま氏は50分の芳醇な海をバーガリガリに出現させた。



その時である。


よんま氏が普段の演奏とは違う・・・もしくは其れがよんま氏なのかも知れない・・・光景を醸し出した。

演奏ではなく『楽器との対峙』、または『音を追求』と言う状態になった。リズムでも電子音でもなく、

『音を追求する』

と言うか、それは『美を追求する』と言う事なのだが、美を追求したからと言って美となるワケではない。
だが、追求しない者に美は無い。

学生時代に読んだ『茶の本』には道教を簡単に説明している小節がある。


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「道」は「径路」というよりもむしろ通路にある。宇宙変遷の精神、すなわち新しい形を生み出そうとして絶えずめぐり来る永遠の成長である。
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その日の演奏は『音の海』でもあるが、同時に『道』『Way』『Road』だった。

方法であり、手段であり、道であり、それは何の為かと問われれば美の為であり、美を露骨に出すのは美に失礼である。
そのため迂回し、追求し続けるしかない。

メッカ巡礼なんて生易しいモノではなく、猫の子一匹いない荒れ地や砂漠を歩き続けた者だけが到達出来る音がある。

変わること、変化し続けること、一箇所に留まらないこと、求め続けること。


考えてみれば音楽家と言うのは常に求め続けるのだから、強欲で傲慢である。
だが、無欲では居られないから音を出すのである。



冒頭にジョン・コルトレーンについて書いたのだが、日本の『阿部薫』もそうなんだと思うのだが、全身音楽家が、変化出来ず、求める事が出来なくなると死ぬのだと思う。

ジョン・コルトレーンも晩年の演奏は既に変化の限界にきていたし、フリージャズと言う音楽が死んだのも、フリージャズと言う行為が変化ではなく停止したから死んだ。



イベント終了後、よんま氏に「今日の演奏はエレクトロニック・コルトレーンでした」と送ったのだが、フリージャズが死に、アヴァンギャルドが死に、前衛が死に、ポスト前衛やポスト・フリーも死んだ。

よんま氏は荒れ地を歩きながら、何でもない音に生命を与え続けている。