2016年8月25日木曜日

ニール・ヤング



結膜炎になった。




今年で2回目である。結膜炎と言うか眼球の粘膜が弱っていて、其れでコンタクトレンズを入れると痛い、と言うものである。

粘膜・・・放射能か?と思ってしまう。

幸い、今月末と9月18日以外は人前で演奏する機会はないので眼鏡で過ごすことになった。

眼鏡生活は面倒だし、ウンザリなんだが今年初めに結膜炎になった時も2ヶ月位、眼鏡生活だったので慣れてきた。

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レコードの針が折れてしまい、漸くレコードの針を買った。

CDは紛失しても別に構わない気がするのだが、レコードだけは未だに『無人島に持っていく音源』である。
SP盤は最近、トンと御無沙汰なのだがレコードの音こそが音楽の音、と言う気がする。

何と言うかスピーカーから出てくる音との対峙の仕方がCDとLPでは違う、と言う気がする。

音質を考えるとLPの方が明らかに悪いのである。これは構造的に致し方がない事で。

そう言えば5.1chサラウンドとか、ハイゾレ音源が全く流行ってないのは音響機器の金額と言うより、実は

『音が良すぎると疲れる』

と言う事なんだと思う。ニール・ヤングがmp3について

「音質が酷い」
「CDはマスタートラックのデータの15%しか再生できず、CDをMP3やAACに変換すると、音の豊かさや複雑さがかなり失われてしまう」
「ふざけんな」

と言っているが多分、マスタートラックのデータは例えば過去のメディア(アナログ盤やSP、テープ)でも15%も入っていたのか?と言う気がする。15%を何とかリッチに聴かせようと70~80年代のスタジオでは血も滲むような馬鹿げた音を作っていた。

サンハウスの『レモンティー』なんて、骨太なブルース・ロックなのに、この有り様だしな。 

   



冒頭の発振器も意味が分からんし、ボーカルにコーラスをぶっ掛けている意味も分からないし、ドラムのシンバルにフランジャーと言う世界一、ダサいエフェクターを入れているのも意味が分からない。
ニール・ヤングが聴いたら耳、鼻、口、眼球から血を吹き出しながら激怒しそうな音である。


そもそも、音楽なんて15%程度が伝われば良いモノなんだと思う。


問題は15%の密度であって、The Beach Boysの『ペットサウンズ』の『Wouldn't It Be Nice 』なんてCDじゃないと買えないが(アナログは高値)、素晴らしい音だ。 
 
 

因みに今、部屋で流している曲は私が一番、大事にしている盤で

マレーネ・ディートリッヒ『永遠の名花』

である。映画で歌った曲を、ろくにマスタリングもされずにメトロール・レコードと言う、糞どーでも良い会社(テイチク)からリリースされている盤である。

映画のフィルムから起こされた音源なので音はニール・ヤングが言う「15%」どころか2%すら怪しいんじゃないか?と思う。

当時のマイクや録音方法からして致し方がないのだが、しかし私には愛おしい音である。

火事や津波が起きたら、まず此の盤を持ち出すと思う。


音質?カンケーないね、と思う。

『と思う』と書いたが、LPじゃないと音楽を聴く気になれないのは何故なんだろうか。YOUTUBEで聴くことも可能なのだが、YOUTUBEでは聴いた気がしない。

YOUTUBEは何処まで行っても『映像記録』と言う気がする。各個人が持っている映像をシェアする、と言うか。だから音声データをシェアするのではなく、映像がメインと言うか。

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で、私事で恐縮だがCDをプレスしてリリースする事になった。枚数は200枚程度。

当初は500枚を考えていたが冷静に考えて「そんなに売れるか?」と思って200枚にした。大体、バーコードも取ってないのでアマゾンや流通に乗せることも出来ないし、ライブでの手売りや小売店で売る以外に方法がない。

NYでベンジャミンが自作のCDを1000枚プレスしていたが「一生で売る」と言う有り様。

1000枚ともなると部屋の場所と言う問題もある。

夕方頃になって近隣をリヤカーを引きながら、ラッパを吹き

「こ~どなぁ~~、こどな!こぉ~どなぁ~、こどな!KO.DO.NAのCD、いらんかぇ~」

「アンビエントでノイジーなKO.DO.NAのCD!こ~どなぁ~、こどな!」

とやり、CDを買いに来た主婦と

「ちょっと、1500円は高いから、もっと安くしないさいよ」

「いやー、奥さん。今回のCDは三陸沖から仕入れたモノばっかりでっせ!。新鮮で、生きが良いんですよ。見てくださいよ!このCDの裏!ピカピカでっしゃろ?」

「そうねぇ。此の時期のKO.DO.NAは今しか入らないからねぇ」

「そうでっしゃろ?此の時期のKO.DO.NAはアブラが乗っていて刺し身でも行けますよ!」

とヤルわけにも行かない。



大体、私の音源も一応、コペンハーゲンのレーベルからリリースされており(ituneだが)、それと同時にKODAと言うデンマークのジャスラックに登録されているのだが、私の音源が何かに使われるとは到底、思えない。


其れに売れてないだろうし。

悲しいが、そんなもんだ。

2016年8月14日日曜日

米本実と言う名の背徳

米本実』と言う現代美術家がいる。



現代美術家でありながらも、彼をアカデミックな作家として見る人は少ない。
現代音楽家として見る人も多くない。著作が『自作シンセサイザー』についての本であることもあり、

『自作シンセサイザーの人』

だったり

『テクノポップの人』

と見る人も多い。

実際に米本氏は『system Y』と言う巨大なシンセサイザーを作っているからかも知れない。
そして、その巨大なシンセサイザーで演奏活動を欠かさない。



米本実氏のライフワーク、及び作品である『system Y』は膨張し続ける巨大なシンセサイザーである。

常に膨張しており、元々の原型は小さな金属箱に入った発振器でしかなったのだが、現在では壁一面と言う有り様である。



そして、膨張し続け、完成、と言うものがあるのか他人には判別出来ない。



本人ですら完成形が見えてない、と思われる。
見えない完成に向けて時としてシンセサイザーとは思えないようなパーツを組み込んだりもする。
本人は「シンセサイザーだ」と言う。

シンセサイザーとは何か?
電子音楽とは何か?


そう言う意味で言えば求道者である。


道を求める。


だが、米本実氏にとって電子音楽は『悟り』や『修行』ではない。あくまでもツールであり、道具である。
料理人にとっての包丁であり、鍋であり、大工にとってのノコギリや釘である。

だが、米本実氏は大工でもなければ料理人でもない。






シンセサイザーとは何か?


 電子音楽黎明期の電子音楽家達は「この世の森羅万象を表現する」為にシンセサイザーを利用していた。既存の楽器では出せない音を求めた。

その後のテクノポップや今の続くテクノの人々は新しい楽器として、または新しいダンス・ミュージックのツールとして電子楽器を利用した。

『森羅万象を表現』と言っても当時の電子楽器のスペックは其れは余りにも無理があるモノだった。例えば坂本龍一が『音楽図鑑』で森や大自然を表現しようとして、トランペット奏者である『近藤等則』から「シンセサイザーのスペックで森林を表現するなんて無理だよ」と言われているが、電子楽器と言う機材の性質上致し方がない部分もある。

米本実氏が行っている事は『自作シンセサイザー』だが、大半の人が誤解しているだが米本実氏は

『電子音楽家』

ではない。彼と接してみれば分かる事だが、実は弦楽器から鍵盤楽器まで大半の楽器は扱える。楽器の特性や使い方を米本氏は2秒もあれば掴みとってしまう。

だから、鍵盤楽器や弦楽器でも良いのだが、数秒もあればピアノなら、ピアノ。ギターやドラムの叩き方や、その楽器がもつ限界点を見抜いてしまう為、その楽器を演奏することが出来ない。

結果的に『自分が使える楽器』を作らざるを得ない。

「自分にしか使えない楽器〜理論を作る」と言う意味ではジョン・ケージが自分に和声の感覚がない事に気付き、易や偶然、自作電子楽器、グラフィック・スコアに行ったのに似ている。

だが、米本実氏は先に書いたように和声の感覚もあれば楽器の操作も長けている人物なのである。


既存の楽器にウンザリして電子音楽に行った人としては高橋悠治デイヴィッド・チューダーがいる。


高橋悠治やデイヴィッド・チューダーに近い場所に米本実氏はいる。


だが、高橋悠治やデイヴィッド・チューダーのように米本実氏を捉える人は多くはない。



何故か?



『現代音楽』『現代美術』が持つパブリック・イメージと米本実氏が余りにもかけ離れている為である。


黙々、淡々と学術的に、アカデミックな、高尚な、そう言った『現代美術作品』と氏は対極にある。



米本実氏は音楽家としての側面が強いのだが、『米本実』と言う人物をパッケージングすることが不可能に近い事もある。

『パッケージング可能』と言うのが現代美術作品であり、米本実と言う『作品』をパッケージングする事は既存のメディアでは不可能に近い。

上記に書いたように『現代美術作品』(現代曲やパフォーマンス、現代美術などを含む)が持つイメージ。

『黙々、淡々と学術的に、アカデミックな、高尚、国家、資本』

この『黙々と淡々』がない。
しかし、作っている作品は相当にアカデミックであり、 高尚である。
既存の現代音楽など足元にも及ばない程、構築されている。


米本氏はアカデミックな作品に対して常にアンチを唱える。其れが本当にアカデミックであり、高尚であるならば、田舎の小学生でも分かる作品であるべきだ。
其れこそがアカデミズムであり、芸術である、と。


発表された際、衝撃的だった事もあり「世界で4人しか理解出来ない」と言われた特殊相対性理論と一般相対性理論だが、今では小学生でも理解出来る内容である。

その背景には、

1:それを細部まで把握している。

2:それが正しい事を知っている。

3:それを説明するための言語を内在させている。




米本実氏のライブ・パフォーマンスで、米本実氏の全容を垣間見れる事が出来る。

氏は

「これから行うパフォーマンス」

「使う機材」

「どのような背景の作品なのか」

「このパフォーマンスが私達の生活、生き方、思想をどれだけ反映しているか」

を全て説明してしまう。


難解な作品を「難解な作品です」と丸投げするのではなく、何も知らない観客を数分で『電子音楽愛好家』のレベルまで引き上げてしまう。

いや、もっと言おう。

『電子音楽、及び、現代音楽愛好家』
にまで引き上げてしまう。

米本実氏のパフォーマンスを観る前と、観た後。Before after。

明らかに違うのである。

米本実氏は説明と言う名のパフォーマンス、そして音によるパフォーマンスによって愚人を賢者に変える。

その意味で米本実氏のパフォーマンスは道教、または老子哲学に近い。


『このパフォーマンスが私達の生活、生き方、思想をどれだけ反映しているか』


アート、美術、現代音楽、現代美術、宗教、美、美学、美術。

これらが私達の生活や思想、生き方に影響している事は誰もが知っている。だが、それを言語化すること、そして再体験すること。
それが米本実氏である。






米本実氏のパフォーマンスの大きな部分は『音が出る歓び』である。


楽器をやった事がある人ならば、楽器を初めて触った時の音に感動したことがあると思う。だが、楽器を続けているうちに、それは習慣となり、当たり前の音になってくる。

楽器をやったことがない人であれば、好きな異性に触れた時の歓び、子供がいる人であれば産まれた子を抱いた時の歓び。

始原的な歓び。


米本実氏のパフォーマンスは『電子音楽』『電子楽器』『シンセサイザー』と言う人間的ではない楽器・・・作品を使って始原的な歓びを常に与える。



例えば、だが。


楽器を触った時に出てきた音。子の笑み、恋、それらは個人的な歓びである。自分にしか分からない歓びだ。

米本氏は、その歓びを第三者に伝える。

100%、デジタルで伝える。


アート、芸術、美、全ては歓びと快楽である。

快楽である以上、背徳である。
背徳である以上、罪である。
罪だからこそ、歓びである。
歓びだからこそ、自由である。
自由、それこそがコスモポリタンである。


米本実氏は背徳、罪、歓び、自由、そしてコスモポリタンを具現化する。


しかし。


米本実氏の作品は『現代アート作品』としては究極であるにも関わらず、それを『現代アート作品』と見る人は少ない。
冒頭に記したように、米本実氏をまったく見当違いなニュアンスで捉えている人が多いからである。


確かに米本実氏の作品の中には『ケースの中に水中モーターを入れて浮かべる』『シンセサイザーのケースがゼンマイで動く』と言った遊びなのか、本気なのか、気が狂っているのか、判別に苦しむ作品も少なからずある。

それと同時に『現代アート』らしからぬ『言語化』。

日本の風土、または日本人の気質としてアーティストと言うのは『黙々淡々と』と言うのが誉れとされている。此れは大昔から続く『職人的美学』なのかもしれない。

しかし、である。

生真面目に、黙々淡々と作品を作り続けた偉大なアーティスト達がどれだけ不遇な人生を送っただろうか?
高尚な、アカデミックな作品がいったい、何人に理解されただろうか?

私達は事前の説明も、情報もなくロックやポップス、現代作品を知っただろうか?
印象派やモーツァルト、バッハからロックン・ロールを何の説明もなく観る、または聞かされた際に、それを理解出来ただろうか?
それらを理解せずに生きる事が出来るだろうか?

人間以外の動物にとって花は生殖の為であり、食用でしかない。

『花』が美しい、と誰が発見したのだろうか?

その花なしに、愛する人へ言葉を伝えることが出来ただろうか?

愛する人に言葉を伝える為の言語は何処から?

愛する人へ捧げる言語こそが花であり、そして美の本質であり、始原的な快楽である。



再度、言おう。

快楽である以上、背徳である。
背徳である以上、罪である。
罪だからこそ、歓びである。
歓びだからこそ、自由である。
自由、それこそがコスモポリタンである。


罪であり、背徳だからこそ、其れを直視せずに生きようとする。

1の真実よりも1000の嘘。

1000、2000の嘘にまみれようと我々が禽獣ではなく人間でいる以上、嘘を付き続けることは出来ない。

歓び、歌い、罪に塗れ、快楽に溺れ、自由を求める。
米本実氏は、嘘八百で塗り固められた現代アートへ常に中指を立て続ける。

米本氏が突き立てる中指こそが現代アートであり、そこには始原的な歓び、原罪と言う名の快楽と背徳、罪。そして自由とコスモポリタンがある。


米本実氏は狂人かもしれない。


米本実氏が狂人として存在する社会に私達は生きている。

2016年8月8日月曜日

TOMOVSKY/カンチガイの海


ネットサーフィンをしていると時折、思い出にぶつかる。


この曲はTOMOVSKY(トモフスキー)の『カンチガイの海』である。この曲がリリースされたのは1996年だから私はまだ高校1年生頃だったかも。

多分、ラジオで聴いたのだと思う。『トモフスキー』と言う変な名前のシンガーなのか、バンドなのか分からなくて、深夜ラジオで聴いて心を掴まれた。

初めてTVに出演した時も見ていたし、ライブが衛星放送で流れた時も聴いていた。

でも、余り深入りしなかった。

なんでだろう?と思っていた。凄く好きだったし、凄く素敵な曲ばかりだったし、ライブも最高のCOOLだったし、とにかく頭の先から爪先まで最高にファンタスティックだった。

まだ16〜17歳で、世の理も知らず、何も知らなかった。



中学生の頃。

それまで単なる同級生達が、突然、『女性』になる。それに対して、まだ子供である男子は戸惑っていた。

そんな同級生だった女性にドギマギしていた。

そんな同級生達のちょっとした仕草や声、歩き方から立ち姿にドキドキしていた。
十代だから、それはリビドーに直結していた。
十代だから、そんなリビドーを嫌悪していた。
十代だから、そんなリビドーには逆らえなかったのだけども。

高校生になったが、高校は男子校だった。だから他校の女生徒にドギマギしていた。


大人になった・・・と言うか少なくとも『童貞』と言うモノが遥か彼方の出来事、まるで戦中の思い出のように、リアリティがなくなった身分になると、思えば封建的な九州大陸の、封建的な福岡県の、封建的な北九州市の、封建的なルックスの女子達に、何故、ドキドキしていたのか理解出来なくなっている。


今日、ネットでTOMOVSKY(トモフスキー)の曲を聴いたら、ドギマギして、それがリビドーになっていたのは、きっと、その

『同級生だった女性』

の仕草や、香り、仕草、表情、歩く姿、走る姿、立ち姿、それらがアートだったんだと思う。
アートと言う言葉が胡散臭いのであれば『美』だった、と言うか。

毎日、現れる『絶対の美』に対して、指先すら触れることが出来ない美に対して、眺める事さえ阻まれるような美に対して。

此方はどうする事も出来なかった。

盗賊のように奪うことも出来なかったし、イカロスのように近づく事も出来なかったし、言語化することも出来なかったし、太陽が焼き尽くすのを、眺めることしか出来なかった。太陽を眺める事が出来ないように、祈る事しか出来なかった。
だが、言葉に出来ない以上、祈る事すら出来ない。
『言葉は神と共にあられた』ワケで、此方は初期人類のように、絶対の美を前に、其れは恐怖であり、悦楽であり、猥雑であり、神秘であり。

こう言う時期ってのは10代だったから感じれたんだと思う。

『学校』と言う閉鎖的な空間もあったと思うけども、『学校』と言う機関がない時代(江戸時代や明治初期とか)でも、同じだったと思う。

当時、同級生と交際すると言うのもあったし、周囲にそう云う奴は多数いたのだけども、私はボンヤリとした・・・と言うか馬鹿だった、と言うか、その事象を眺めるのが好きだった、と言うか。

だから、『同級生だった女性』に愛の告白をしても、「じゃあ、その後はどうすれば良いんだ?」と困惑した。

初めて告白した女性の事は覚えている。

確か15歳だったか、16歳だったか。

江藤と言う中学生の頃の同級生と駅で久し振りにあったら『同級生だった女性』になっていた。

その美に圧倒された。

どうすれば良いんだろう?と思った。その江藤とSEXをする、なんて考える事も出来なかった。
途方もない美術作品と性行為が出来るワケがない。


少ないロジックで「じゃあ、愛の告白をしよう」と思った。

江藤の家の前で待ち伏せ。思えばストーカーじゃん、って感じだが90年代はOKだった。

で、江藤が学校から帰宅してきた。

江藤が「っあ」と言った。何の為に私がいるのか直ぐに察した「っあ」だった。
全身全霊の力を込めて言った


「あの・・・江藤の事が好きなんやけど・・・」


全身全霊なんだけども、声は小さい。「好きなんやけど・・・」と言った先が続かない。

「交際してくれませんか?」

「文通しませんか?(まだケータイはない時代)」

「まずはお友達から」

「バンドやろうぜ」

とか、幾らでも言いようがあったんだろうけども、それだけしか言えなかった。

江藤は俯いて

「ごめん・・・部活とか忙しいけん・・・」

と言う。

「ごめん・・・」

と言って恥ずかしい気持ちでいっぱいになって、逃げるように帰った。


帰りながら「此れが人生か」と思った。「恥ずかしい、恥をかく、と言うのが多くなりそうだな」とか。





あの頃。



『同級生だった女性』に対して性的にモヤモヤする自分が嫌いだった。何故、嫌いだったのかズーッと分からなかった。

TOMOVSKYの歌声は、其れを的確に歌っていた。それが何だか恥ずかしかった。

モヤモヤしてしまう自分が嫌いだったし、どうすれば良いのか分からなかったし、『分からない事』を理解する事も嫌だった。

今日、TOMOVSKYの『カンチガイの海』を聴き直してみたら、何だか手品のタネ明かしと言うか。

10代の私は、10代の同級生だった女性達の美に圧倒され続けていた。
でも、その態度は『美』に対して、凄く正直な態度だったんだな、って。

畏怖、恐怖、悦楽、恍惚。

それが『美』であり、それは生きる時間の中で一瞬しかない。中学生から高校生と考えると、たったの6〜5年間だ。

それまでの時間と、それからの時間のほうが遥かに長い。




何度も書くが、九州と言うのは封建的で保守的な土地である。
だから、男子は丸坊主、角刈り、ヤンキー的なリーゼント。

そんな街で「男らしくない」と言われ続けた私が(手芸とか好きだし)意中の女性と寝る事が出来るはずもなく。

でも、それで良かったと思う。



音楽、音、楽器、電子音、スピーカー、音響装置、全ては美の為。
楽器や音を操作する事は美に対して畏怖、恐怖、快感、芳香を感じる事である。


美は恐怖だ。


其れを教えてくれたのは『同級生だった女性』達。

日々、美の海で藻掻いていたのが私。






変わった
君が変わった
同じさ
変わったのは
君の中の僕だけ

君のカンチガイの海を
僕は泳いでいただけ
君のカンチガイの海を
浮かんでいただけ。

まるで神様みたいだね
まるで神様みたいだね
勝手に世界を作って
お好みのヒト住ませていた
自分勝手な神様


















2016年8月4日木曜日

タッチ

大分女子マネの練習除外ハプニングで、SNSに批判殺到
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160802-00000030-sph-base
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甲子園と言えば『タッチ』である。

野球部のマネージャーと言えば『朝倉南』である。

朝倉南と言えば、あの地獄の名言

「甲子園に連れて行って」












である。


この「甲子園に連れてって」って鬼のような名言でさ。


ファウストにおける「時よ止まれ、おまえは美しい」並に地獄の文言と言うか。


大体、甲子園に連れてって、ってさぁ!!!!!
意味、分かってのか?!!



お前ぇ、甲子園がどう言う場所か知ってんのか?

江夏とか王貞治とかイチロー とか江川とか山本譲二(北島三郎の弟子)がウロウロしていた場所だぞ?
で、脱水症状で審判が死んだりするような悪夢のような場所だぞ?
試合に負けたら泣きながらグラウンドの土を持って帰らなきゃならない場所だぞ?


テメーがやっていた新体操で言えば


「オリンピック日本代表に連れてって」

に近い。


はたまた、音楽をやっている側としては

「紅白歌合戦に連れてって」
「レコード大賞に連れてって」
「フジロックのオレンジコートのトリに連れてって」

とか、そのくらい、難易度が高い。




っつーか、その台詞ってお前は『かぐや姫』かよ!
無理ゲーな事を、言うってさぁ!!!


なんだ?

『タッチ』ってのは『現代版竹取物語』なのか?



しかし、『タッチ』では殆ど境界性人格障害のような要求を出してくる朝倉南の要求どおり上杉 達也は甲子園に行くんだけども、やはりメンヘラに振り回される若い馬鹿男の典型と言うか、甲子園には行かずに愛の告白をしてフィニッシュなんだよな。



そりゃ、10代のうちに童貞を捨てたいって気持ちは分かるさ。

ワテかて、漢や。そらぁ、童貞っつーのは悲しいもんさ。
そらぁ、誰かて10代のうちに童貞は捨てぇもんやで。
せやけど、甲子園に行って、ドラフト貰えりゃ朝倉南より良い女を腐るほど抱けるだろ?!
そー言う打算的っつーか、目先のモノっつーか、明日の100万円より、今日の10円っつーか、そう言う九州ヤクザみてぇな奴の漫画が何でヒットしたんだ?



大体だぞ?


『ドカベン』の山田太郎なんて未だに童貞なんだぞ?
『巨人の星』の星飛雄馬も童貞だ!


野球道と言うのは、そんなテメーのリビドーなんぞで成し遂げられるモンじゃねぇーんだぞ?


女の一言だけで甲子園に行けるってか?

それを星飛雄馬の前で言えるか?
番場蛮の前で言えるか?

星飛雄馬のオヤジの前で言えるのか?
多分、殺されるぞ!?


しかし、この野球部のマネージャー事件で久しぶりに『タッチ』を思い出したのだが、思えば見どころがない、非常に退屈な漫画だったなぁと思っていた事を思い出した。
野球と言えば


『侍ジャイアンツ』
『巨人の星』
『アストロ球団』
『あぶさん』
『男どアホウ甲子園』
『がんばれ!!タブチくん!!』
『ミラクルジャイアンツ童夢くん(リアルタイムだった)』
『野球狂の詩』

だろ!!!

『タッチ』なんぞ野球漫画とは言えぬでごわす!


それよりも上記の大分県野球部マネージャー事件についてなんだけども

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「脳科学者の茂木健一郎氏(53)は『高校野球自体はすばらしいスポーツの祭典だと思いますが、『丸刈り』を含め、謎の様式美、禁則が多すぎますね。』と疑問を呈した。」
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って、何で高校野球について茂木健一郎が語ってんだよ。そもそもドクター中松と同じで「一体、何が凄いのかまったく分からない偉人」じゃねーかよ。


因みに毎年、夏の甲子園が人気なのは未だに

野球賭博

が人気だからである。甲子園の場合、レートが高いうえに中々、読めない展開がスリリングで人気らしい。

大抵、日本で人気のスポーツは賭博の対象となるか、否かである。

俺はどう考えても『全国高等学校クイズ選手権』の方が面白いと思うのだが、クイズ大会じゃ賭博の対象にならねぇからなぁ・・・。

2016年8月3日水曜日

お盆、そのまえに

祖母と食事した。






祖母宅に行くと、相変わらず『宮崎県〜鹿児島県都城市弁』と『九州弁』が混じった罵声を浴びせられる。

「キチンとしろ」

と言う。

「してるよ。うるっさいなぁ」

「しゃーしぃ!(うるさい!)。お前は昔からアーダコーダ。もーちょっとシャキっとしー!(もう少しキチンとしろ)」

「しているつもりなんだけどねぇ」

と言う。


祖母が罵声を浴びせるのは何時ものことで、口は悪いが心はウォームと言う人だから罵声は祖母なりの思いやりである。

何しろ育ての親だ(両親が常に不在だった為)。

其処へ母が来て、祖母の飯をつまみ食い。

「ん?バアちゃん、味を変えたんやろうか?」

と不思議に思っている。

其処へ祖母がやってきて、何やらやる。すると祖母の味になる。
祖母には珍しく素麺とかアッサリ系だった。

「じゃ、食べようか」

となる。祖母はウルサイし、此方もカチンと来るが怒っても仕方がない。












で、目が覚めた。






祖母は死んでいるし、確か風邪で寝込んでしまい葬儀に行けなかった。

お盆前ではあるが、出てきたか、と思った。 先日の墓参りが効いたのか?と。



私は葬式と言うのが大嫌いで、何が嫌かって


『葬儀会場で一夜を過ごす』


事である。何で、そんな場所で死体と一緒に寝泊まりしなきゃならねぇんだよ。古代宗教の儀式かよ?って。

死んだら、死体。

違うか?って思うんだけども。


とは言え、祖母は出てきた。私の父も死後、6年以上に渡って私を叱咤してきたが、祖母にまで・・・と思った。

どうも御先祖様からは罵倒される存在らしい。

安藤裕子ソロ・アルバム/Before becoming the form


ある日。



近所で経営している『OTOlab』の石倉夏樹さんから連絡が来た。

「遊びにおいでよ」

「楽器もってきてね~」

とのこと。何時もどおり朝まで起きていたので寝ぼけナマコだったが楽器を持って徒歩5分のOTOlabへ行く。


何度も来ているのだが、大抵は石倉さんとお喋りしたり、レコードを聴いて終わっている。

スタジオに到着するとスピーカーから、此れまで聴いたこともない程、鋭い音く、切ない音が流れている。

「こりゃ誰だよ?こんなスゲぇ音を出す奴ぁ。スティーヴィ・レイシーか?」

と思ったら

『安藤裕子』さん

だった。

ソプラノ・サックス二重奏と言うか。即興で二重奏にしている。

安藤裕子さんと言う人は何時もバンドの中で活動している人で、音質は柔らかい。
その為、音量面で常にバンド・サウンドに埋もれていて、安藤裕子と言う演奏家としての技量や、センスは全く謎だった。

まさか、こんな凄い音を出すとは・・・と絶句。


ソプラノ・サックスを二重奏(ソロ)ってのは聴いたことがない。

「すげぇ・・・」

と思っていたら

「KO.DO.NA君も入って」

と行き成り言われる。この音に対する私は全く準備ができてない。其処まで引き出しが多い方でもないし。

とは言え、本採用されるとは思わなかったので演奏。




後日。

「CD出来たので送りますね~」

と安藤裕子さん。


で、聴いてみた。素晴らしい出来だ、と思う。

最後のテイクで私との共演が収録されていた。寝起きの演奏だったし、驚いた。一曲のみの参加だが、不思議な事に上手く行っている。

其れよりも安藤裕子さんの音である。


今年のベスト盤!


と言っても良いのだが安藤裕子さんが余り宣伝をしてない。現状、手売りだけ。

MOTTAINAI!


私はノーギャラとは言え、このアルバムに参加出来たことを本当に嬉しく思うし、多くの人に手に取って貰いたいと思う。

この音は誰も真似出来ないし、安藤裕子さんしか出来ない。
        
 

ジャケットは手作りだが、中身は正倉院クラス。






(録音中の私と安藤裕子さん/撮影:石倉夏樹さん)

                     


因みに上記のPVは私が嬉しくて作った。Linux で動画編集は初めてだったが、意外とWindows よりも動きが良い。