2017年7月5日水曜日

室野井洋子

舞踏家の室野井洋子さんが死んだらしい。 

死んだのは一昨日の夜10時。原因は『肺がん』。 


私はHAIGANと言うバンドに所属しているが、其れとは無関係である。 


室野井洋子さんの死を知ったのは先ほどで、チャーリーさんがFBでシェアしていた岡田、と言うオッサンの知らせである。 

そのお知らせを見た瞬間、 

「ざまぁ」 

と思ってしまった。 

「やっと、死んだか」 

みたいな。嫌な奴だなぁ~と思った。 


不謹慎かも知れない。

だが、室野井洋子は実際に凄く嫌な人だったし、陰険で陰湿でホンッっと酷い人だった。 


舞踏家としては、志賀信夫が「良いダンサーを失った」と書いていたが、正確には 

『良かったダンサーを失った』 

である。舞踏家:室野井洋子が其れこそ東京NO1だった時代は彼女が札幌に移住するまでだろう。 
芸が身を助ける、と言うか、陰険で陰湿で粘着質なクソ女だったが、そう言うのを遥かに上回るモノをステージで披露していた。 

『女性舞踏家40歳定年説』 

と言うか、女性舞踏家って40代中頃になると「可愛い私」が『中年の私』になってしまい、芸の引き出しが少ない舞踏家(舞踏家なんて皆、引き出しが一個位しかないが)が大半だから、可成り厳しくなる。 

だが、室野井洋子さんは、そうではなかった。 

恐ろしくストイックだったし、日本刀とかドス(短刀)のような青白く燃え上がる炎のような、海の中で燃え続ける火、氷山で生存とか、そう言う鋭さがあった。 

あんなに舞踏家は居ない。之からも出てこないと思う。 

実践で使われた日本刀の先端のような、禍々しく、恐ろしく、魅力的な舞踏家だった。 



暗黒舞踏界隈って『ダンスワーク』が良い例だが、未だに『土方巽が~』とかヌカしている。 


だが、皆、「土方巽ガー」と声高に言うが 

①土方巽の女癖が極端に悪かった 

②物凄く性格が悪かった 

③顔を整形手術している 

④暗黒舞踏のオリジナルネーターなのに、一度、それを辞めようとしていた(女絡み) 

⑤時代が違いすぎる(当時の舞踏公演は3時間半) 


を抜きにして語るから、『無駄伝説』と言うか。言えば言う程、舞踏ってのが腐る。 


俺は音楽だけども、表現、パフォーマンスの最先端は常に『舞台』にあると思っている。音楽から最先端が生まれるのではなくステージ・パフォーマンスから生まれるモノだと思っている。 

だから、『舞台パフォーマンス』を腐らせていく人達は死ねば良いと思っている。 


室野井洋子さんは土方巽ガーみたいなモノとは全く無縁だったし(室野井洋子さんは天使館系列の青龍会と言うグループ出身である。その前はバンドに一瞬だけ鍵盤で加入しているが、スタジオで演奏し始めた途端、「つまんない」と言って脱退している)、日々、腐っていく舞踏とは全く無縁だった。 

『だった』と過去形なんだけども。 


札幌に移住してから数年してから東京と札幌を往復してソロ公演をやっていた。今は無き『アートランド』である。 

あと、美学校でWSをやっていた。 

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その頃である。 

私は演劇から足を洗い、紆余曲折あり「トランペットでソロ」と言う形態を探っていた。フリージャズには「アルト・サックスでソロ」と言う盤も音源も豊富なのだが(フリージャズと言う音楽形態はアルト・サックスでソロの為にあるんじゃないか?ってくらい多い)トランペットで、ってのが無かった。 

だから、彼是と模索していた。近藤敏則がいるが彼はやはり『バンド』だったし、彼のソロ演奏は『電気トランペット』と言うより、もはやシンセサイザーであり、トランペットである必然性が感じられなかった。 
其れに、近藤敏則の演奏はソロでもバンドでもフリー・ジャズの人であり、参考にならない。 

黒人音楽をルーツとした音楽ではなく、真っ白な音楽がやりたかった。 

その頃に縫部憲治さんから「室野井とやるから、君を音楽として招きたい」と言われた。 

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室野井洋子さんと知り合ったのは20歳の頃で、福岡県に来ていた。青龍会は元々は東京のグループだったが 

①金 

②女 

③人間関係 

と言う『グループが解散する理由』の全てをコンプリートして九州に移転した。私はスタッフをやったり、WSをやって人が足りない時に行ったり(だから、私も実は舞踏を少しやっていたのである)。


その青龍会が「がんばるぞー!」って時に、青龍会の原田氏は、室野井洋子さんの師匠だから、手伝いに来た。 

人間関係を言えば室野井洋子さんは原田氏の元カノである(不倫だが)。で、当時も原田氏は別の女性と不倫関係であり、 

『元カノVS今カノVS妻』 

と言う凄まじい光景となった。室野井洋子さんは照明OPをやった。室野井洋子さんは『ギャラがない』『人間関係』と言う事で可成り御立腹だったが、何故か私は気に入られた。 

で、電話番号を教えて貰った。 

唐組に入るために上京しようと言う事で、人間関係を作らなくてはならなかった。90年代はネットもSNSもないからアナログに人間関係を作るしか無かった。 

其れで入団試験の際に室野井洋子さん宅に泊めてもらった。 

入団試験には合格して(ってか誰でも受かる試験なんだけど)、上京した。その際に室野井洋子さんと部屋探しを手伝ってくれた(室野井洋子さんは途中で飽きたらしく、これ以上ない、って位の酷い部屋を進めてきたが)。 

その後、インドカレーを食べた。 

で、上京祝いをしてくれた。 

当時、私は20歳で、室野井洋子さんは『年上の素敵なお姉さん』と言う感じだった。既に東京NO1だったし、パフォーマーとしては雲の上。 
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男女関係の事は私はよく知らない。概要だけは聞いたが当事者でもないし、私には無関係なので知らない。 

上記の縫部憲治さんからのオファーは清水寺の舞台から飛び降りるような話だった。 

だって、私はライブと言っても15人も入れば超満員のハコでしかやっていなかったし、無名以前の存在だったから。 

雲の上の存在である室野井洋子さんと縫部憲治さんと、ってのは心臓が止まるほどだった。 
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舞踏の音楽をやった事がないので、国立の稽古場で稽古を重ねる。当時、アンプを持参していたのだが、デカいアンプに車をつけて必死で押しながら稽古場に行っていたのを思い出す。 

で、美学校で室野井洋子さんがWSをやっているから、音をやってみろ、と言われて演奏。 

打ち上げで、参加者のピアニストの女性からdisられて、私も言い返して、ゴチャまぜ。 

で、本番。 

本番は凄く受けた。自分がやっている、またはやろうとしている事に間違いはないんだな、と手応えを感じた。 

ただ、音が受けてステージ・パフォーマンスはイマイチだった事もあって、室野井洋子さんは御立腹だったが(彼女は大抵の事は責任転嫁をする人である)。 


だから、私の活動は『あの時の』事が一直線状にある、と言っても過言ではないのだが、室野井洋子さんからオファーを受けたわけではないし、恩に着る事もないとは思う。 

『切欠』なんて、あの時以外にも沢山あったのだし。 

ただ、天才:室野井洋子さんとステージを共に出来たことは自分の中で大きかった。 

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芸事の世界は『義と借りと恩』だと思う。ヤクザな世界だから、一泊一膳の礼儀で人を殺す、と言うか。 

だが、室野井洋子さんとの関係性は2015年に終わる。 

以前、書いたのだが『縫部憲治追悼公演「ランゲルハンス島異聞」』での事である。 

遠藤 寿彦と言う奴から脅迫メールを受け取っていた。遠藤 寿彦は当日の音響OPをやる予定だったらしい。 
だが、音響OPと言ってもフェーダーを固定するだけで、別途、用意するようなモノではなかったが、室野井洋子さんは無料で使える馬鹿を探していた。 
だが、その馬鹿が私が参加することでバックレた。 

「つまり、KO.DO.NAが悪い」 

と言う事でフライヤーに私の名前の記載をしなかった。フライヤーは室野井洋子さんがデザインだが、記載をしなかった。 

こう言う処が陰湿で、陰険で、粘着質と言うか。 

「何故、フライヤーに俺の名前がないのか」 

と言う事が判明するのは本番が終わってからだった。そして、その際の舞台は『此れ以上はない』と言う程、酷かった。 


芸事は義理と人情と渡瀬の世界だが、名前は商売道具である。元々、恨みがしい人柄でもあったし、其れへの返答と言うか『仕返し』が『フライヤーへ記載しない』と言う処がウンザリだった。 









人が死んだら、例えどんな人で「良い人だったのに」となる。 













だが、其れって凄く卑怯な気がする。生前、酷い奴だった人は、死んでも酷い奴だったし、皆が「素晴らしいダンサーだったのに」と言うのだが、私が最後に見た2015年のステージは最低最悪、地獄以下だった。 


東京NO1だった室野井洋子さんだが、彼女は其れを捨てて札幌に行った。だから、札幌に移住した時点で、天才:室野井洋子は終わっていたんだと思う。 


FBのタイムラインでも、ツイッターでも、「うぅ、かわいそう・・・」と言う。肺癌だし、年齢的にも60歳手前位だから早すぎる死だったのかもしれないし。 

だが、私にとっては 

「酷い奴でしたよ」 

と言う言葉しか出てこない。ホンッっと酷い人だったし、嫌な人だったし、陰険で、陰湿で、粘着質で、常に責任転嫁。自分の出来が悪い時は、自分ではなく自分以外の奴が悪い、と言う思考回路の持ち主。 

殺しても、死なないような人だったので呆気無く死んでいるのに驚いたが。 

「素晴らしい舞踏家が・・・」 

とか 

「素晴らしい人が・・・」 

とか色々と言うのは、そりゃ言葉は綺麗だと思う。だけど『最低で最悪で、酷い人でしたよ』と言う人が居ても良いだろう。 




室野井洋子さんは東京・・・否、世界最強のダンサーだったのに、それを捨てた。でも、ダンサーとして生きた。

アホの土方巽が『病める舞姫』と言う舞台をやった過去があるが、土方巽は別に病んでもなかったし、マッチョイズムの世界の人だったが(そのマッチョイズムが後期高度高齢者を惹きつけるんだと思う)、室野井洋子さんは『病める舞姫』だった。

家柄は知らないが、『舞う姫』であった事に異論を唱える人は居ないだろう。



天才であるダンサーが、天才が天才であることを証明する前に死んだ。



それは大きな事だし『クソ以下で、嫌な奴が芸の素晴らしさでねじ伏せていく』と言う事をやっていた人だった(過去形)。


俺にとって、室野井洋子さんは最低で最悪で、酷い人だった。 此方が『仕返し』をする前に死んでしまった。

でも、死んじゃった。 

「前に進まなくては」 

と何故か思った。 何故かわからないんだけど、「もっと、前に進まなくては」と思った。


そう思ってしまう、と言う事は室野井洋子さんの死に対して私は「嫌な奴でしたよ」と言いながらも何かを感じているんだと思う。


色々な事。

様々な事。

多種多様な事


『死は、その人の最後の教え』

と言う。

そうなのかも知れない。室野井洋子さんは最低最悪の、陰険で陰湿な人だったけども、私に何かを思わせる。


父殺しならぬ、姉殺しをしなきゃならないのかもな、って思う。