2019年9月29日日曜日

猫の詩

実家の猫が死んだ。







とても、とても、大好きな猫ちゃんだった。

とても、とても、美しく、素敵な猫ちゃんだった。


初対面で、私は猫を「綺麗な猫だ!」と思い、猫は「大きすぎる猫だ」と思った。


ある時期以来、実家には時折、帰省していたのだが、理由は「猫」だった。

私は恋人だろうと、何だろうと、何処まで行っても分かり合えない。俺が他人と分かり合えないんだ、と言う事を小学校~高校と丁寧に、徹頭徹尾、骨の髄まで教えてくれた奴等ばかりだった。

そのクソな奴等の言う事は一理あり、彼等も私の事が分からなかったし、私も彼等の事が分からなかった。

だから、誰かを好きになったり、友情を感じる事もなく、20歳以上になった。




だが、猫や犬とは分かり合える。


学校の同級生・・・自分以外・・・の言葉は全く理解出来なかったが、猫や犬の言葉なら理解が出来た。

だから、猫だけが親友だった。

心を許せる友が『猫』だけだった。



私が足の骨を折って実家療養してた頃。

音楽的に燃え尽きてしまい、実家で療養していた頃(肺炎だった)。



心を許せる相手は、サビ猫だけだった。サビ猫は私と二人きりになると抱っこもOKだったし、目を細めて甘えてきた。
私もサビ猫の期待に応えられるように迎えていた。

お互いが迎えあっていたのだと思う。

サビ猫と私は「ペットと人間」を超えたモノだった。

私は一度もサビ猫を『ペット』とは思わなかった。
と言うか、KO.DO.NA家の誰もが犬猫をペットとしては見ていなかった。

そう言う家柄だった、と言うか。

家族と同じだった。猫も自分の事を『猫』と自覚している素振りはなかった。



実家に帰省していた理由は甥っ子や姪っ子に会う為ではない。甥っ子や姪っ子とはDNAは繋がっているが、所詮は赤の他人である。

妹や姉が、別の男性と作った人間なので、同じ血が恐らく50%は流れているのだと思うのだが、


『魂の結びつき』


と言う程のモノではない。肉親って、何処か緊張感がある関係だと思う。其処までの関係性を封じる処がある。
それは近親相姦を防ぐ為のの本能なのかも知れないが。

其れに甥っ子や姪っ子は幼すぎるし、生きている時代が違いすぎる。あと、私の子供ではない。


サビ猫に会うために帰省していた。


サビ猫が居なかったら、誰が人気のないウラ寂しい日本海側の田舎に行くと言うのだ。


①覚醒剤
②暴力
③銃
④出刃包丁
⑤拉致監禁
⑥死体


其ればかりだ。
そんな土地は疲れる。

だったら、サビ猫の方が知性があり、詩的だ。



4日間ほど家出をして、帰ってきたら様子がオカシイので病院に連れて行ったら、車に跳ねられたらしく、其れが原因なのか急性肝不全で死亡。

丁度、彼岸の日だったらしい。


今日、知った。


とても、とても、悲しくて、やりきれない。

泣いてしまおうかと思うが、泣いてしまう事は何か違う気がする。

泣いてしまうと、全て涙によって終わってしまう。

サビ猫の存在が終わってしまう。

それは嫌だ。




Nさん、Tさん、その他。

私が大好きな人は皆、死んでいく。42歳と言う年齢は、そう言う年齢なのかも知れない。

または「俺が大好きな人達は皆、死ぬ運命なのか?」とさえ思う。

誰のことを好きにならなければ、その人、生物は生き続けるのか?。



死ぬ事は誰もが確実であり、其れが早いか遅いかは神の采配だ。だが、どうして、こうも悲しくて、苦しいのか。

2019年9月21日土曜日

代田八幡神社例大祭

世田谷区に引っ越して、そろそろ2年になる。


それで代田八幡神社例大祭に行ってみた。『代田八幡神社納涼おどり』は露天が恐らく、有志の住民がやっているので地味なのだが、例大祭は『テキ屋』が参戦していて、中々、良かった。


(お神輿)







奉納芸って事で、何処から集めたのか分からない人達が何やらやっている。
その中でも『ジャグリング』が凄かった。

風船で動物とかを作るのだが、それを子供にプレゼントするんだよな。
ただ、芸の中で、それをプレゼントするのは『芸の一部』なんだが、子供たちが大フィーバー。
ジャグラーが額から汗を流しながら、風船を作る羽目になっていた。



やはり、お祭りはイイなぁと思う。



2019年9月17日火曜日

4+2=堕落

自分が42年間も生きている事が不思議で成らない。

年齢を重ね続けて42回だが、ついに

『昭和』
『平成』
『令和』

と言う3つの元号をコンプリートしてしまった。今の天皇も60代なので『令和』の次も経験するかも知れない。

私が10代の頃は

『明治』
『大正』
『昭和』
『平成』

と言う激動の時代を通過した、抜身の短刀のような人物がウロウロしていた。
やはり日清戦争、日露戦争、第二次世界大戦を経験した人物と言うのは独特である。

そう言う人物にすれば、昭和52年生まれで、思春期を平成で迎えた輩なんぞは抜き身の刀どころか

『抜身のスパゲッティ』

みたいなモノで、ヘナヘナ、フニャフニャ、グニャグニャした許しがたい存在だっただろう。

此処4〜5年は周囲の人々が死んでいく。

自分だけが取り残されている気がする。
死神が取り違えているのではないか?と思う。

「死神さん、死神さん!そっちじゃないくて、こっちでしょ?!」

と言いたくなる。

本来ならば私が死んでいて、私の周囲の人々が生きているはずなんじゃないか?
なにか、自分の手の届かない処で重大な『取り間違え』が起きているんじゃないか?。

そんな気がしてならない。

私は、何かの『まぐれ』で生きている気がする。

此れまで何人もの女性達と交際したり、寝た。
私にとって遊びだった女性は殆ど居なかったのだが全員が全員

「ついていけない」

と言って去っていった。その言葉の意味には

①警察沙汰に関わりたくない。
②葬式などの段取りに関わりたくない。
③裁判なんぞに関わりたくない。
④首吊り死体を目撃したくない。
⑤コイツと一緒にいたら人生、ご破産だ。
⑥一緒に破滅なんぞに関わりたくない。
⑦心中なんぞに関わりたくない。

と言う意味合いがあった。

「いつ死ぬのか?と心配過ぎて、疲れた」と言った女性も居た。

「いつ死ぬのか?」なんて、私が聞きたいモノだった。
自分では破滅的な生き方を避けているつもりなのだが、元来、ボンヤリした性格なので、気がついたら自死、破滅の一歩どころか半歩手前に居るらしい。

クソな臆病者なので、破滅・・・火山の火口・・・から慌てて逃げる。
それで桜を眺めたり、酒を呑んだり、煙草を吸い、トランペットの練習をしていると、やはり破滅の縁に居る。

気がつけば破滅。

思えば42年間、常に

『破滅』

『逃亡』

『破滅』

『逃亡』

と言う事を繰り返している気がする。音楽の為に破滅への道を選んだ事も多々あるが、その成果は?と言えば全線連敗であり、敗戦と廃墟とインフレと言う第一次世界大戦後のドイツのような有様である。

「いつ死ぬのか?と心配過ぎて、疲れた」と言った女性が居たのは一人や二人ではない。

だが、私は何か重要な疾患や、難病、持病を抱えているワケではないのである。
ただ、その歩み方が破滅的なのだと言う。

何人かがテを差し伸べてくれた。

私は、そのテに飛びついた。

だが、気がつけば火口の縁に立っている。

ついに42歳になった。

馬鹿で、ウスノロだが身体は意外と丈夫なのが売りだったのだが流石に42年も使い続けた身体なのでガタは致し方がない。
下駄を履いて、都内を走り回っていた頃には戻れない。

年齢、大人と言うのは

『堕落した子供』

である。年齢を重ねれば、重ねるほど堕落だ。

10年前は32歳だ。

その頃はもっと音楽、音に対して謙虚であり、堕罪でもった気がする。
今でも気持ちとしては同じなのだが、堕落しているのだと思う。

自分がどうして生き残っているのか分からない。

ただ、ハッキリしているのは『生きている』と言うのは誰かのお陰で『生きている』のであり、誰かの為に生きていたら、私は死んでいたのだと思う。

多くの女性が予言した「いつ、破滅(死)するか心配で」と言うのは、いつも実現しており、同時に回避されちる。

誰かのお陰なんだよな、と思う。



取り敢えず、死ぬまで生きてみようと思います。

2019年9月17日
24時
KO.DO.NA

2019年9月15日日曜日

音の蒸留酒/小堺文雄

「ギターの弾き方が分らないといった風に弾け」
「初めてギターを弾いた奴みたいに弾け」



マイルス・デイビスがジョン・マクラフリンに要求した話は有名だが、思えばスタジオ・ミュージシャンであり超絶技巧を売りにしていたジョン・マクラフリンにしてみれば可也、困った要求だっただろう。


ジョン・マクラフリンが「ギターの弾き方が分らない」ようにギターを演奏できたか?と言えば『In A Silent Way』を聴けば分かる。

セロニアス・モンクが超絶技巧を取得して、それを捨てる為に激しい修練を行ったが、テクニックと言うモノは捨てにくい。

工藤冬里が過去のインタビューで「上手くならないように、一日5〜15分だけギターの練習をする」と発言していたが、楽器と言うものは一日5分の練習でも日々の積み重ねでテクニックは付いてくる。



音楽、演奏と言う行為はテクニックを身に着けていけば、身につけていく程、音は濁っていく。



演奏と言う行為には『初心者』か『超絶技巧』の二つしか無い。初心者の頃の音の美しさをテクニックでカバーしていくのは「巧い」だけでは超えられないモノがある。




小堺文雄氏の演奏には4回ほど接している。インキャパシタンツではなく、小堺文雄氏がアコースティック楽器やエレキ・ギターを手にしている演奏である。


最初に観たのは、記憶が正しければ1998年の高円寺20000Vだった。


当時、月本正さんのバンドに参加した際に対バンだった。私にとって東京での初めての演奏であり、とても緊張した。
 私は月本正さんのコンセプトが理解出来ず、個人的に私の演奏は酷かったと思う。


その時に出演していた、最高にエッジが尖っており、ハイスピードで、スリリングだったのが

『宇宙エンジン』

だった。


小堺文雄氏がダンエレクトロのギターで、リチャード・ヘルのカバーをしていたのだが、猛烈にカッコ良かった。
掻き毟るように演奏し、まるで高校生が初めて文化祭で演奏するかのような爆発感だった。
巨体でギターを、それこそ掻き毟るように演奏しいてる姿だけが印象に残った。



その時。



学生時代にノイズ専門紙を発行していた私にとって『インキャパシタンツ』『非常階段』と言うのは憧憬、憧れであり、

「あ、あのコサカイフミオさんって・・・」

と思い、初めて『サイン』をして貰った人だった。

「うへっへっへ。インキャパシタンツの小堺文雄さんにサインだぜ。九州の田舎じゃ手に入らねぇ一品だべ。」

と悦に浸りながら部屋に飾っていた。
私は20歳になったばかりの馬鹿だった。




それから小堺文雄氏とは縁遠くなる。




私の生活は演劇などであり、音楽どころの騒ぎじゃなくなった。演劇を止めた後も辛い時期があり、それを過ぎて「自分で音楽を作ろう」と思って、2〜3年は部屋に篭って作曲。

トランペットを新調すること2回。

24歳でトランペットを始めたので上達は遅い。

そんなワケで、人の演奏には人づてに教えてもらうしか無かったし当時はノイズやオルタネイティヴのシーンよりもMODS系やフリージャズのシーンに居たので(居た、と言うと弊害もありそうだが)、分からなかった。

演奏やライブと全く無縁だったワケではないが、情報がなかったのである。


そう言えば当時、ノイズ、オルタネイティヴの専門紙と言えば『G-Modern』と言う雑誌があったが、年に4回発行されれば良い方で、年1〜2回の事もあった。

だから、雑誌でライブ情報を知る、と言う事も絶望的だった。




小堺文雄氏と直接、お会いしたのは何時だったんだろうか。


オファーをしたのは私の企画『鳥の会議』で小堺文雄氏にDJをお願いした時である。

その次に橋本孝之さんにオファーをした処、小堺文雄氏とのデュオになった。



小堺文雄氏がどんな演奏と言うかセッティングで来るんだろうか?。
ノイズと言うかエレクトロニクスを使うのか?

と思っていたら、当日はリゾネーター・ギターだけを持ってきた。正直、驚いた。


「え?今日はギターだけですか?」

「まぁ、なんとなく」



演奏が始まると、小堺文雄さんは「初めてギターを弾く」ようにギターを弾く。一音、一音を確かめながら演奏する。
モートン・フェルドマンのようなギターだった。
楽器と対話と言うよりも、どんな楽器、どんな音なのかを確かめるように一音、一音をユックリと演奏した。

それは『弾く』と言うよりも『鳴らす』だった。

一音と言うよりも『一滴』だった。一滴、一滴を確かめる・・・。





その次は江古田フライング・ティーポットでの山安籠さんのライブでお会いしたり(其れ以外にもお会いしていた気がするが)。
(そう言えば山安籠さんの演奏は20年前に観いていた。
新宿シアターPOOと言うハコで、月本正さんのバンドのライブがあった。それを観に行った。
そこに山安籠さんが出演していた。当時は『山赤子』と言うユニットだった気がする。)


その次が『山安籠&小堺文雄』と言うデュオだった。

10年ぶりの演奏だったらしいのだが驚愕だった。


山安籠さんがボーカルと言うかボイス。小堺文雄さんがギターやバイオリンなのだが二人共、全く音が合ってない。

合ってないんだけど、合っている・・・と言う不思議な音響空間だった。

もう、究極のモード奏法としか言いようがなかった。


その時の小堺文雄さんも、以前と同じように音を一滴、一滴、確かめるように鳴らしていた。

音を水滴のように扱う・・・と言うか。




で、ですよ。


此処からなんだけだけども先日、初めてインキャパシタンツを観た。

インキャパシタンツは学生時代にCDを買った。其れまで阿部薫だとかフリージャズを聴いていたのだが、インキャパシタンツの音は流石に強烈過ぎて、通して聴けなかった。

ボリュームを絞っても爆音なのである。

到底、食事をしながらor当時、作っていた雑誌の編集をしながらor寝っ転がりながら聴けるシロモノではなかった。

そう言う音楽だった。

『非常階段』は真似が出来る音だったが、インキャパシタンツは真似が出来ない音だった。



「すげー!」

と思いながらも九州の僻地に『インキャパシタンツ』も『C.C.C.C.』も『メルツバウ』も『ハナタラシ』も『ゲロゲリゲゲゲ』も『裸のラリーズ』も誰も来なかった。

唯一、来福していたのは『灰野敬二』だけだった。だが、それも滅多に来なかったし、チケット代が当時、演劇青年だった私には高額だった(東京から来るミュージシャンはスカパラだろうと、松山千春だろうと、灰野敬二だろうと5000円から6000円だった。当時の福岡市の最低時給は700円代である)。


だから、音源にて衝撃を受けたインキャパシタンツのライブは家から出る前に既に興奮していた。


だが、此処でインキャパシタンツのライブのレビューを書いても仕方がない。
そう言う事は有識者に任せたほうが良いし、私の得意分野でもないし。

T美川氏の演奏の後に、小堺文雄氏のソロだった。

楽屋で自分の曲の練習をしていたので「あれ?インキャパシタンツってギター使っていたっけ?」と思いながら、小堺文雄氏の登場を待つ。

大量のエフェクターを前に何をするのかな?と思ったら




ギター1本で歌い始めた。




此れは驚いた。だが、直ぐに嬉しくなった。芳醇なアシッド・フォークと言うか、一音一音、歌詞の一言、一言が水のように一滴、一滴となり、それが樽に貯蔵され、長年の時をかけて美しい香を持つ蒸留酒のような。
または一葉、一葉を詰み、それを集めて、湯によって香りはじめる茶の雫。



動画を撮影したのだが、本番のときのうような音が再現されない。
どうしても、こう言うモノは動画では再現出来ない。


トラベル・ギターでの弾き語りだったのだが、コードは間違えるし、リズムも怪しい。スコアを見ながらの演奏なので、何処かタドタドしい。

だが、それをもってしても芳醇なのである。


『人前で演奏するのは初めてです』

『歌うのは初めてです』

『ギターを3日前に買ったばかりです』

と言う音を出す。それは凄い音なのである。
どうして、こう言う音が出るのか。どうして、こうも心に響く歌なのか。
こう言うモノはテクニックと言うよりもスケールの大きさなのかも知れない。
または年齢やキャリアによって克服されるモノなのかも知れない。

『音』と言うモノへの対峙、謙虚さなのかも知れない。


書きながら思ったのだが、楽器の修練を積めば誰だって上手くなる。一日5分だろうと15時間だろうと『上達』はする。

上達した結果は何か?って言えば、初めて楽器を手にした時の音の響き、それを自分が操作している時の感動が消える。

『音』と言うモノへ最初は謙虚な姿勢であり、アンプのボリューム、弦の張替え、楽器の重さや手触り、出てくる音への畏怖、畏敬。

其れが消えてくる。

『当たり前の音』になってくる。1万円のギターでも100万円のギター(ギターに限らないが)でも、演奏し続けていけば、当たり前の音になる。

それは、面白くない音になる。



多くの演奏家は『当たり前の音』を克服するためにエフェクターや楽器の改造、何やら怪しい事を行うのだが、小堺文雄氏は常に『初めての音』と言うか、音に対して一音、一音、謙虚であり、それに対して敬意を込めて音を出す。


だから、あんな凄い音が出るのかも・・・と思う。


もう、今宵はこの演奏だけでお腹いっぱいです、と思った。




私はトランペットを演奏しているが、此処5〜6年は自分の音が面白くない。
その為、日々の練習では不自由、と言うか制限付きの練習(主にミュートを使ったルーティン・ワーク)を行ったり、過去には鉛や改造部品を装着したり、楽器を削ってみたり、胡散臭い事を多々やったのだが、最終的にあらゆる改造部品、エフェクターを外した時の音が一番、面白かったりする。


音への謙虚さ。


それは仏像を前にした時のように、対峙しなくてはならない。

仏像を切り刻むように演奏しなくてはならない。

燃える薪の中にロザリオ、仏像を投げ込み、神を殺す。

それが演奏なのかも知れない。

書いていて意味が分からないが、そんな気がしてならない。


2019年9月11日水曜日

田中智子/ソフトさん


大昔だが、『ソフトさん』と言うバンドをやっていた。






当初はティンホイッスルとアパラチアん・ダルシマーのデュオだった。

『インチキ・ケルト音楽』と言う塩梅。

それで知人の誕生日イベントで演奏。

その後、メンバーが増えて4人編成に。
私はトランペットがメインだから弦楽器は下手だし、メンバーは楽器がメインじゃない人も多かったの

で、下手も良い処だった。



頭を抱えたのは田中智子さんが「楽器が全く出来ない」「やろうとも思わない」と言う処で、仕方がないから鈴を持たせて振らせたり、なんちゃってパンクみたいな曲ではシャウトしたり。



ただ、『緩い』と言うのを遥かに超えて『緩い』バンドだったので、無茶苦茶なカバーもやっていた。

①イン・ア・サイレント・ウェイ(マイルス・デイビス)

②さよならニッポン/さよならアメリカ(はっぴいえんど)

③ピンヘッド(ラモーンズ)

④Smoke on the Water(ディープ・パープル)




ただ、集客能力が枯渇と言うか皆無なバンドで、0人が常だったので余りライブには呼ばれなかった。
一回だけ高円寺『円盤』で企画ライブをやったのだが、まぁ集客は自殺モノだった。






どうやら、田中智子が死んでいたらしい。

『死んでいた』と過去形なのは6月に死んでいたから。

今更になって知ったと言うのは、それを告知した人も最近、知ったと言う事だろう。


高円寺のアパートで孤独死だったようでもある。

『持病で死亡』

とあったのだが、双極性障害が持病だった。

レーベルから音源をリリースする為、と言うかレコーディングの為に処方量を減らしたり、ライブの回数を増やしたりしていた。

死因は書かれてないけども、なんとなく憶測出来る感じもする。

何だかなぁ・・・と思う。

何だかなぁ、と言うか実感が沸かない、と言うか。

先月、電話をしたら不通だったのだが、あのときには既に死んでいたって事か。

何だかなぁ・・・。

こう言う事を言葉にする事は難しい。

自分が、どう思えば良いのか分からない。