2019年12月12日木曜日

Sound Soup(音の海)/よんま

ジョン・コルトレーンの演奏を聴いていると

『JAZZ』
『黒人音楽』
『モード奏法』
『思想』

とは全く関係がない演奏になっている事に気がつく。何かを追求している・・・と言うか。

「自分が何を演奏たいのか分からない」

と言ったとか、言わなかったとか。




音楽に完成と言うモノはない。


もしも『完成された楽曲』と言うモノがあるとすれば、それは商業的にパッケージされたモノである。
例えば『スピッツ』のライブでは90年代にリリースされた曲も、21世紀になってもライブでは『その当時の音』に変えて演奏する。


それは音楽的には何か?すわ、クソ以下である。


然し、大半のリスナーはミュージシャンや作品の変化を好まない人も多い。アイドルにせよ、歌手にせよ、J-ROCKと言われるジャンルにせよ、変化ではなく延長を求められる。

だが、作品と言うものは変化していくモノである。

それを延長し続ける作業はミイラ作りや、死体保存技術、胃ろうのような無意味な延命治療であり、それは音楽家の作業ではない。







今回は『よんま』氏を紹介したい。


よんま氏と会ったのは21世紀になって、開店したばかりの頃の鶯谷 What's Upと言うライブハウスだった。
鶯谷 What's Upでは元々、JAMセッションを主体としたイベントを行っていた事もあり、その頃のイベントでは客も出演者も余り『区分け』がないOPENなイベントだった。
誰かが飛び入りする事も多かった。
その場で結成して出演するユニットもあった。


よんま氏は『丸首兄弟』と言うテクノポップ・ユニットで出演していた。


丸首兄弟は当時は二人編成で『純粋テクノポップ』としか言いようがない演奏だったが、素晴らしいユニットだった。

それと同時並行としてよんま氏はTB-303やTR-606と言ったハードウェアを使ったセッション・ユニットもやっていた。
ドラムが居たり居なかったり。

よんま氏のTB-303は激しく呻っていた。

皆、黙々とTB-303を操作するよんま氏の背中を見ていた。





よんま氏が丸首兄弟を脱退して、暫く何をしていたのか分からない。


鶯谷 What's Upの頃は皆、せめぎ合うような演奏をしていたし、私も演奏方法について探求していた頃だから、鶯谷 What's Upで会えば友人なのだが、それ以外の事は何も知らなかった。

音楽

演奏



それだけが全てだったし、面白くない演奏をしているユニットには近づかない(店の外に出る)と言った露骨な態度だったし、ミントン・プレイ・ハウスのような熱気だった。それ故にお互いの事は何も知らない、と言う状態だった。
お互いの音楽については知っているが、お互いについては全く知らない、と言った状態。


当時はMIXIが全盛期であり、動画サイトは無かった。YOUTUBEが登場する前の話なのである。

よんま氏はSNSに書き込むような人ではなかった。


だから、よんま氏が何時からアナログ・モジュラーシンセサイザーに着手し始めたのか不明である。

DAWがいよいよ勢いを増して来た頃だった。アナログ・シンセは人気があったが、

『自作シンセサイザー』

と言うのは、構築も購入も要領を得ない状態だった。



以前、紹介した『米本実氏』は先鞭を付けていた。だが、よんま氏と米本実氏は全く違う方向を向いていたと思う。


SNSでは再会していたが、実際に再会したのはつい最近である。


再会したのは代々木のライブハウスだった。対バンだったのである。

その時によんま氏がコスチュームを含めた総合的な演奏を行っている事を知ったのである。



まさか、シンセサイザーをラック・ケースではなく『おかもち』に入れるとは発想に驚いた。
私が想像する『モジュラーシンセ』と言うのはYMOで使われていたMOOGⅢだったので「こんなにコンパクト?」と思った。

演奏が始まると圧巻だった。


「此れは海だ」


と思った。何故かそう思った。海、またはスープ、水槽・・・。


水族館のアクアリウムを見ているような。または、真夏の海辺(岩場)と言うか。あらゆる生物が生息可能な生命のスープならぬ、電子音のスープだった。


子供の頃、港町育ちと言う事もあり海で泳いでいた。其処で魚や貝を取り、夕食になる。

調子が良い状態の海の中は「窒息しても良い」と思えるほど素敵だったし、快感だった。あらゆる生物と自分と液体が一体化しているような、呼吸困難と快感が渾然一体となる体験だった。


よんま氏の演奏は、まさに『海』だった。


あらゆる音、あらゆるノイズ、あらゆる波形、あらゆるリズムが渾然一体となり、聴覚範囲外の音すらも快感となる、そう

『体験』

だった。聴く、と言うよりは「感じる」。



それはライブだけではなく、氏が定期的にリリースしている『おしながき』と言うCD-Rでも遺憾無く発揮されており、モジュラーシンセの音だけが入っているだけなのだが、CDをセットするとスピーカーからは芳醇な海がリスニング・ルームに流れ込む。

此方はスピーカーの前で、その海に首までプカプカと浸かるだけである。










次はよんま氏が定期的に主催している『村まつり』と言うイベントだった。


このイベントの前に、インド・カレー屋で食事をしており、私のイベントに出演して頂いたのだが、そのミーティングだった。

「KO.DO.NAさん、今度は消防服のバージョンと、おかもちのバージョンがあるんですが、どっちが良いですか?」

と聞かれて、「消防服?」と、よく分からなかったので「どちらでもOKです」と答えた。



その『謎の消防服』バージョンは江古田フライング・ティーポットで観ることが出来た。



モジュラーシンセを今度は『消火器収納箱』に入れているモノだった。コスチュームとシンセサイザーは、『おかもち』の時は調理服であり、消火器のバージョンでは消防服。

一体、何処から入手しているのだろう。

『消火器のケース』なので小ぶりである。

「こんなにコンパクト?」

と、何年か前に思ったことを思い出した。


演奏が始まると、『よんま氏バージョンⅡ』と言う音だった。シーケンスなのか、リズムが強調されている。
だが、踊れる音ではない。

「イェーイ!」

と言う音ではない。

『踊りたいんだけど、踊れない』

と言うのは、つまりビ・バップであり、チャーリー・パーカーである。ありとあらゆるリズムと音色を駆使した結果、「全く踊れないダンス・ミュージック」が出来上がった。


私はSteve Reichを思い出した。Steve Reichと同じく、リズミックなのだが、そのリズムよりも切迫した(生命の危機的な)モノがあり、リズムは心臓の激しい鼓動のような切迫、緊迫、緊張したモノだった。

よんま氏のPUNK解釈、またはノイズ解釈なのかも知れない。
もっと言えば現代音楽への解答だったのかも知れない。



私事で恐縮だが、私が主催している『鳥の会議』によんま氏に出演して頂いた。実は長年、オファーを考えていたのだが事情があり、オファー出来ていなかった。
だから、氏を呼べたのはオーガナイザー冥利に尽きる。

その日はよんま氏に「やりたい事をやりたいだけヤッてください」とお願いした。

そして、よんま氏は50分の芳醇な海をバーガリガリに出現させた。



その時である。


よんま氏が普段の演奏とは違う・・・もしくは其れがよんま氏なのかも知れない・・・光景を醸し出した。

演奏ではなく『楽器との対峙』、または『音を追求』と言う状態になった。リズムでも電子音でもなく、

『音を追求する』

と言うか、それは『美を追求する』と言う事なのだが、美を追求したからと言って美となるワケではない。
だが、追求しない者に美は無い。

学生時代に読んだ『茶の本』には道教を簡単に説明している小節がある。


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「道」は「径路」というよりもむしろ通路にある。宇宙変遷の精神、すなわち新しい形を生み出そうとして絶えずめぐり来る永遠の成長である。
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その日の演奏は『音の海』でもあるが、同時に『道』『Way』『Road』だった。

方法であり、手段であり、道であり、それは何の為かと問われれば美の為であり、美を露骨に出すのは美に失礼である。
そのため迂回し、追求し続けるしかない。

メッカ巡礼なんて生易しいモノではなく、猫の子一匹いない荒れ地や砂漠を歩き続けた者だけが到達出来る音がある。

変わること、変化し続けること、一箇所に留まらないこと、求め続けること。


考えてみれば音楽家と言うのは常に求め続けるのだから、強欲で傲慢である。
だが、無欲では居られないから音を出すのである。



冒頭にジョン・コルトレーンについて書いたのだが、日本の『阿部薫』もそうなんだと思うのだが、全身音楽家が、変化出来ず、求める事が出来なくなると死ぬのだと思う。

ジョン・コルトレーンも晩年の演奏は既に変化の限界にきていたし、フリージャズと言う音楽が死んだのも、フリージャズと言う行為が変化ではなく停止したから死んだ。



イベント終了後、よんま氏に「今日の演奏はエレクトロニック・コルトレーンでした」と送ったのだが、フリージャズが死に、アヴァンギャルドが死に、前衛が死に、ポスト前衛やポスト・フリーも死んだ。

よんま氏は荒れ地を歩きながら、何でもない音に生命を与え続けている。



2019年10月24日木曜日

音楽にミスを認めない男/エリック・ドルフィー

漸く、長年の苦労だった



『God Bless This Child』


をマスターした。トランペットのスコアはあるのだが大抵、スコア化されている譜面は間違いが多く、使えたものではない。

以前、『グッド・マイ・ラブ』のスコアを取り寄せたが、スコア化した人の『思い入れ』が多すぎて、結果的に装飾音が過剰となり、吹けたものではなかった。
シンプルにメロディーだけが良い。


原曲は此れである。



ビリー・ホリデイが親と喧嘩した際に作った曲で、歌詞は非常に皮肉と言うか嫌味な内容である(そりゃ、喧嘩してキレて作った歌詞だし)。



で、此れがピアノになると、こうなる。




ジャズになると、こうなる。



(やっぱ、リー・モーガンは最高過ぎる。この人が使っているマウスピースもトランペットも当時の水準だと安物だし、マウスピースは田舎の楽器屋でも売っている奴なんだよな。マーチンのクソなモデルとバックのクソなマウスピースで、どうやってこんな音が出るんだ)





問題は此れである。



エリック・ドルフィーの名演だが、上記の曲がどうなったら、こうなるのか。

トランペットで似たような事が出来ないか?と思ったが不可能だった。不可能と言うか


「あの曲の何処を取り出したら、あーなるんだよ!」


と言うか。理解の範疇を超えている。


原曲は静かな、と言うかゴスペル的なニュアンスなのに、エリック・ドルフィーの演奏だと無音恐怖症、無音神経症のように音を敷き詰める。

コルトレーンのバンドに居た頃も、フルートを吹いても過剰なまでにブレスして、音を歪ませたフルートを演奏していた。

ブッカー・リトルとのディオなんて、考えてみればノイズ・バンドみたいなモンである。

ブッカー・リトルはブロウし過ぎて音が歪んでいる。モッサリとした・・・高音楽器なのにヘヴィー・メタルである(マイルスやチェット・ベイカーとは全く違う。後年のウィントン・マリサリスとも違う歪ませ方である)。

其処にエリック・ドルフィーが、ノイジーとしか言いようがないサックスやフルートを叩き込む。



考えてみると、菊地成孔曰く「サックスとは不可逆的であり、ノイジーな楽器」らしいのだが、晩年のチャーリー・パーカーのサックスは、アルト・サックスから倍音を取り除こうとした・・・と言うか。
純粋に美しい音色であり、それはクラリネットのような音色になっている。


金管楽器で木管楽器のようなエレガントさ。


だが、考えてみると、その『木管楽器のようなエレガントさ』は非常に『白人っぽい』んだよな。
戦前ブルースは録音環境が酷かったせいで、全てノイジーだが、既にスウィング・ジャズは登場していたし、そのスウィング・ジャズでの大御所達はオーケストラと言わんばかりのエレガントである。

チャーリー・パーカーは、その系譜と言っても過言ではない気がする。

アルト・サックスだけでスウィング・ジャズの音の全てを表現したら、超絶技巧、超音速の演奏になった・・・と言うか(勿論、カンサスシティ・ジャズの影響もあるが、カウント・ベイシーの黒さに比べて、パーカーの演奏は非常に白い)。


チャーリー・パーカー以降は「白くて、エレガントなサクソフォン」の系譜は消えて、ラヴィ・コルトレーンまで待つしか無い。



ラヴィ・コルトレーンは菊地成孔が共演したときに「モニターを使っても聴こえない程、小さな音量だった。終わってから音量について尋ねると『大きな音じゃ駄目なんだ。だって・・・濁るだろ』」と言う話が好きだ。

確かにラヴィ・コルトレーンの音量は小さく、音はエレガントだ。




然し、話は元に戻るがエリック・ドルフィー。



彼の頭の中では『音楽』と言うモノは、どう鳴っていたんだろう?と疑問が耐えない。エリック・ドルフィーのアルバムは大半は聴いているのだが、理解に苦しむフレーズや音作りが多い・・・多いなんてモンじゃない。

『Out to Lunch!』なんて、最初に聴いた時は耳から泡が出そうだった。

フリージャズのように「感じたままに演奏」ではなく、音楽理論に則った演奏なのは分かるが、其れは旋律だけであり、既に現代音楽の領域。
音はノイズ・・・非常にノイジー。

アレほどノイジーな音は、恐らく当時だと現代音楽くらいしかやっていなかったのではないか(ロックは、まだクリーン・トーンの時代である)。


wikiによると

『基本的には音楽理論に則りアドリブを展開していくスタイルである。』

とあるが一体、どう言う音楽理論だったんだ。音楽理論を追求したら現代音楽になってしまいました、と言う感じなんだろうか。



伝記によると、エリック・ドルフィーは練習の鬼だったらしく、移動中でも楽器を持って運指の練習を延々としていたらしい。敬愛するのはセロニアス・モンク・・・(思えばセロニアス・モンクも非常にノイジーなピアノを弾く人だ。

セロニアス・モンクとの共演を心から待ち望んでいたのに、其れが叶う前に死んでしまったが。



音楽理論の歴史は、私が思うに

「音楽的にNOを減らしていく」
「あらゆる音に対してYESを与え続けてきた歴史」

だと思う。

モード奏法なんて、西洋はテキスト文化だから、モード奏法の為に書籍は山のようにあるが、実際の処は実に簡単な演奏方法である。

だから、エリック・ドルフィーにとっての音楽理論は全ての音に対して「YES」を与え続けてきた音、と言うか。

エリック・ドルフィーの師匠になるのかな。チャールズ・ミンガスは演奏中に

「ガンガン、吹け!音楽にミスなんて有り得ねーんだ!」

と怒鳴っていたらしい。音楽にミスがあるとすれば、それは演奏者が「あ、ミスったな」と思った時だけである。
観客が決める事ではなく、演奏者が決める事である。

そのためには「何がミス」で「何がミスではないか」は知るべきだが、Bのコードに対してB♭のスケールは音楽理論ではアウトだが、「いやいや、アウトじゃないですよ」と言えばOKとなる。



とは言え。


エリック・ドルフィーの『God Bless This Child』は、どういう考えで作ったのか全く理解が出来ない。
ゴスペルが、なんで幾何学的な音に変換されるのか。

エリック・ドルフィーに、音楽と言うのはどう聴こえていたんだろうか。違った聴こえ方だったんだろうか。


どうしようもなく謎である。

2019年9月29日日曜日

猫の詩

実家の猫が死んだ。







とても、とても、大好きな猫ちゃんだった。

とても、とても、美しく、素敵な猫ちゃんだった。


初対面で、私は猫を「綺麗な猫だ!」と思い、猫は「大きすぎる猫だ」と思った。


ある時期以来、実家には時折、帰省していたのだが、理由は「猫」だった。

私は恋人だろうと、何だろうと、何処まで行っても分かり合えない。俺が他人と分かり合えないんだ、と言う事を小学校~高校と丁寧に、徹頭徹尾、骨の髄まで教えてくれた奴等ばかりだった。

そのクソな奴等の言う事は一理あり、彼等も私の事が分からなかったし、私も彼等の事が分からなかった。

だから、誰かを好きになったり、友情を感じる事もなく、20歳以上になった。




だが、猫や犬とは分かり合える。


学校の同級生・・・自分以外・・・の言葉は全く理解出来なかったが、猫や犬の言葉なら理解が出来た。

だから、猫だけが親友だった。

心を許せる友が『猫』だけだった。



私が足の骨を折って実家療養してた頃。

音楽的に燃え尽きてしまい、実家で療養していた頃(肺炎だった)。



心を許せる相手は、サビ猫だけだった。サビ猫は私と二人きりになると抱っこもOKだったし、目を細めて甘えてきた。
私もサビ猫の期待に応えられるように迎えていた。

お互いが迎えあっていたのだと思う。

サビ猫と私は「ペットと人間」を超えたモノだった。

私は一度もサビ猫を『ペット』とは思わなかった。
と言うか、KO.DO.NA家の誰もが犬猫をペットとしては見ていなかった。

そう言う家柄だった、と言うか。

家族と同じだった。猫も自分の事を『猫』と自覚している素振りはなかった。



実家に帰省していた理由は甥っ子や姪っ子に会う為ではない。甥っ子や姪っ子とはDNAは繋がっているが、所詮は赤の他人である。

妹や姉が、別の男性と作った人間なので、同じ血が恐らく50%は流れているのだと思うのだが、


『魂の結びつき』


と言う程のモノではない。肉親って、何処か緊張感がある関係だと思う。其処までの関係性を封じる処がある。
それは近親相姦を防ぐ為のの本能なのかも知れないが。

其れに甥っ子や姪っ子は幼すぎるし、生きている時代が違いすぎる。あと、私の子供ではない。


サビ猫に会うために帰省していた。


サビ猫が居なかったら、誰が人気のないウラ寂しい日本海側の田舎に行くと言うのだ。


①覚醒剤
②暴力
③銃
④出刃包丁
⑤拉致監禁
⑥死体


其ればかりだ。
そんな土地は疲れる。

だったら、サビ猫の方が知性があり、詩的だ。



4日間ほど家出をして、帰ってきたら様子がオカシイので病院に連れて行ったら、車に跳ねられたらしく、其れが原因なのか急性肝不全で死亡。

丁度、彼岸の日だったらしい。


今日、知った。


とても、とても、悲しくて、やりきれない。

泣いてしまおうかと思うが、泣いてしまう事は何か違う気がする。

泣いてしまうと、全て涙によって終わってしまう。

サビ猫の存在が終わってしまう。

それは嫌だ。




Nさん、Tさん、その他。

私が大好きな人は皆、死んでいく。42歳と言う年齢は、そう言う年齢なのかも知れない。

または「俺が大好きな人達は皆、死ぬ運命なのか?」とさえ思う。

誰のことを好きにならなければ、その人、生物は生き続けるのか?。



死ぬ事は誰もが確実であり、其れが早いか遅いかは神の采配だ。だが、どうして、こうも悲しくて、苦しいのか。

2019年9月21日土曜日

代田八幡神社例大祭

世田谷区に引っ越して、そろそろ2年になる。


それで代田八幡神社例大祭に行ってみた。『代田八幡神社納涼おどり』は露天が恐らく、有志の住民がやっているので地味なのだが、例大祭は『テキ屋』が参戦していて、中々、良かった。


(お神輿)







奉納芸って事で、何処から集めたのか分からない人達が何やらやっている。
その中でも『ジャグリング』が凄かった。

風船で動物とかを作るのだが、それを子供にプレゼントするんだよな。
ただ、芸の中で、それをプレゼントするのは『芸の一部』なんだが、子供たちが大フィーバー。
ジャグラーが額から汗を流しながら、風船を作る羽目になっていた。



やはり、お祭りはイイなぁと思う。



2019年9月17日火曜日

4+2=堕落

自分が42年間も生きている事が不思議で成らない。

年齢を重ね続けて42回だが、ついに

『昭和』
『平成』
『令和』

と言う3つの元号をコンプリートしてしまった。今の天皇も60代なので『令和』の次も経験するかも知れない。

私が10代の頃は

『明治』
『大正』
『昭和』
『平成』

と言う激動の時代を通過した、抜身の短刀のような人物がウロウロしていた。
やはり日清戦争、日露戦争、第二次世界大戦を経験した人物と言うのは独特である。

そう言う人物にすれば、昭和52年生まれで、思春期を平成で迎えた輩なんぞは抜き身の刀どころか

『抜身のスパゲッティ』

みたいなモノで、ヘナヘナ、フニャフニャ、グニャグニャした許しがたい存在だっただろう。

此処4〜5年は周囲の人々が死んでいく。

自分だけが取り残されている気がする。
死神が取り違えているのではないか?と思う。

「死神さん、死神さん!そっちじゃないくて、こっちでしょ?!」

と言いたくなる。

本来ならば私が死んでいて、私の周囲の人々が生きているはずなんじゃないか?
なにか、自分の手の届かない処で重大な『取り間違え』が起きているんじゃないか?。

そんな気がしてならない。

私は、何かの『まぐれ』で生きている気がする。

此れまで何人もの女性達と交際したり、寝た。
私にとって遊びだった女性は殆ど居なかったのだが全員が全員

「ついていけない」

と言って去っていった。その言葉の意味には

①警察沙汰に関わりたくない。
②葬式などの段取りに関わりたくない。
③裁判なんぞに関わりたくない。
④首吊り死体を目撃したくない。
⑤コイツと一緒にいたら人生、ご破産だ。
⑥一緒に破滅なんぞに関わりたくない。
⑦心中なんぞに関わりたくない。

と言う意味合いがあった。

「いつ死ぬのか?と心配過ぎて、疲れた」と言った女性も居た。

「いつ死ぬのか?」なんて、私が聞きたいモノだった。
自分では破滅的な生き方を避けているつもりなのだが、元来、ボンヤリした性格なので、気がついたら自死、破滅の一歩どころか半歩手前に居るらしい。

クソな臆病者なので、破滅・・・火山の火口・・・から慌てて逃げる。
それで桜を眺めたり、酒を呑んだり、煙草を吸い、トランペットの練習をしていると、やはり破滅の縁に居る。

気がつけば破滅。

思えば42年間、常に

『破滅』

『逃亡』

『破滅』

『逃亡』

と言う事を繰り返している気がする。音楽の為に破滅への道を選んだ事も多々あるが、その成果は?と言えば全線連敗であり、敗戦と廃墟とインフレと言う第一次世界大戦後のドイツのような有様である。

「いつ死ぬのか?と心配過ぎて、疲れた」と言った女性が居たのは一人や二人ではない。

だが、私は何か重要な疾患や、難病、持病を抱えているワケではないのである。
ただ、その歩み方が破滅的なのだと言う。

何人かがテを差し伸べてくれた。

私は、そのテに飛びついた。

だが、気がつけば火口の縁に立っている。

ついに42歳になった。

馬鹿で、ウスノロだが身体は意外と丈夫なのが売りだったのだが流石に42年も使い続けた身体なのでガタは致し方がない。
下駄を履いて、都内を走り回っていた頃には戻れない。

年齢、大人と言うのは

『堕落した子供』

である。年齢を重ねれば、重ねるほど堕落だ。

10年前は32歳だ。

その頃はもっと音楽、音に対して謙虚であり、堕罪でもった気がする。
今でも気持ちとしては同じなのだが、堕落しているのだと思う。

自分がどうして生き残っているのか分からない。

ただ、ハッキリしているのは『生きている』と言うのは誰かのお陰で『生きている』のであり、誰かの為に生きていたら、私は死んでいたのだと思う。

多くの女性が予言した「いつ、破滅(死)するか心配で」と言うのは、いつも実現しており、同時に回避されちる。

誰かのお陰なんだよな、と思う。



取り敢えず、死ぬまで生きてみようと思います。

2019年9月17日
24時
KO.DO.NA

2019年9月15日日曜日

音の蒸留酒/小堺文雄

「ギターの弾き方が分らないといった風に弾け」
「初めてギターを弾いた奴みたいに弾け」



マイルス・デイビスがジョン・マクラフリンに要求した話は有名だが、思えばスタジオ・ミュージシャンであり超絶技巧を売りにしていたジョン・マクラフリンにしてみれば可也、困った要求だっただろう。


ジョン・マクラフリンが「ギターの弾き方が分らない」ようにギターを演奏できたか?と言えば『In A Silent Way』を聴けば分かる。

セロニアス・モンクが超絶技巧を取得して、それを捨てる為に激しい修練を行ったが、テクニックと言うモノは捨てにくい。

工藤冬里が過去のインタビューで「上手くならないように、一日5〜15分だけギターの練習をする」と発言していたが、楽器と言うものは一日5分の練習でも日々の積み重ねでテクニックは付いてくる。



音楽、演奏と言う行為はテクニックを身に着けていけば、身につけていく程、音は濁っていく。



演奏と言う行為には『初心者』か『超絶技巧』の二つしか無い。初心者の頃の音の美しさをテクニックでカバーしていくのは「巧い」だけでは超えられないモノがある。




小堺文雄氏の演奏には4回ほど接している。インキャパシタンツではなく、小堺文雄氏がアコースティック楽器やエレキ・ギターを手にしている演奏である。


最初に観たのは、記憶が正しければ1998年の高円寺20000Vだった。


当時、月本正さんのバンドに参加した際に対バンだった。私にとって東京での初めての演奏であり、とても緊張した。
 私は月本正さんのコンセプトが理解出来ず、個人的に私の演奏は酷かったと思う。


その時に出演していた、最高にエッジが尖っており、ハイスピードで、スリリングだったのが

『宇宙エンジン』

だった。


小堺文雄氏がダンエレクトロのギターで、リチャード・ヘルのカバーをしていたのだが、猛烈にカッコ良かった。
掻き毟るように演奏し、まるで高校生が初めて文化祭で演奏するかのような爆発感だった。
巨体でギターを、それこそ掻き毟るように演奏しいてる姿だけが印象に残った。



その時。



学生時代にノイズ専門紙を発行していた私にとって『インキャパシタンツ』『非常階段』と言うのは憧憬、憧れであり、

「あ、あのコサカイフミオさんって・・・」

と思い、初めて『サイン』をして貰った人だった。

「うへっへっへ。インキャパシタンツの小堺文雄さんにサインだぜ。九州の田舎じゃ手に入らねぇ一品だべ。」

と悦に浸りながら部屋に飾っていた。
私は20歳になったばかりの馬鹿だった。




それから小堺文雄氏とは縁遠くなる。




私の生活は演劇などであり、音楽どころの騒ぎじゃなくなった。演劇を止めた後も辛い時期があり、それを過ぎて「自分で音楽を作ろう」と思って、2〜3年は部屋に篭って作曲。

トランペットを新調すること2回。

24歳でトランペットを始めたので上達は遅い。

そんなワケで、人の演奏には人づてに教えてもらうしか無かったし当時はノイズやオルタネイティヴのシーンよりもMODS系やフリージャズのシーンに居たので(居た、と言うと弊害もありそうだが)、分からなかった。

演奏やライブと全く無縁だったワケではないが、情報がなかったのである。


そう言えば当時、ノイズ、オルタネイティヴの専門紙と言えば『G-Modern』と言う雑誌があったが、年に4回発行されれば良い方で、年1〜2回の事もあった。

だから、雑誌でライブ情報を知る、と言う事も絶望的だった。




小堺文雄氏と直接、お会いしたのは何時だったんだろうか。


オファーをしたのは私の企画『鳥の会議』で小堺文雄氏にDJをお願いした時である。

その次に橋本孝之さんにオファーをした処、小堺文雄氏とのデュオになった。



小堺文雄氏がどんな演奏と言うかセッティングで来るんだろうか?。
ノイズと言うかエレクトロニクスを使うのか?

と思っていたら、当日はリゾネーター・ギターだけを持ってきた。正直、驚いた。


「え?今日はギターだけですか?」

「まぁ、なんとなく」



演奏が始まると、小堺文雄さんは「初めてギターを弾く」ようにギターを弾く。一音、一音を確かめながら演奏する。
モートン・フェルドマンのようなギターだった。
楽器と対話と言うよりも、どんな楽器、どんな音なのかを確かめるように一音、一音をユックリと演奏した。

それは『弾く』と言うよりも『鳴らす』だった。

一音と言うよりも『一滴』だった。一滴、一滴を確かめる・・・。





その次は江古田フライング・ティーポットでの山安籠さんのライブでお会いしたり(其れ以外にもお会いしていた気がするが)。
(そう言えば山安籠さんの演奏は20年前に観いていた。
新宿シアターPOOと言うハコで、月本正さんのバンドのライブがあった。それを観に行った。
そこに山安籠さんが出演していた。当時は『山赤子』と言うユニットだった気がする。)


その次が『山安籠&小堺文雄』と言うデュオだった。

10年ぶりの演奏だったらしいのだが驚愕だった。


山安籠さんがボーカルと言うかボイス。小堺文雄さんがギターやバイオリンなのだが二人共、全く音が合ってない。

合ってないんだけど、合っている・・・と言う不思議な音響空間だった。

もう、究極のモード奏法としか言いようがなかった。


その時の小堺文雄さんも、以前と同じように音を一滴、一滴、確かめるように鳴らしていた。

音を水滴のように扱う・・・と言うか。




で、ですよ。


此処からなんだけだけども先日、初めてインキャパシタンツを観た。

インキャパシタンツは学生時代にCDを買った。其れまで阿部薫だとかフリージャズを聴いていたのだが、インキャパシタンツの音は流石に強烈過ぎて、通して聴けなかった。

ボリュームを絞っても爆音なのである。

到底、食事をしながらor当時、作っていた雑誌の編集をしながらor寝っ転がりながら聴けるシロモノではなかった。

そう言う音楽だった。

『非常階段』は真似が出来る音だったが、インキャパシタンツは真似が出来ない音だった。



「すげー!」

と思いながらも九州の僻地に『インキャパシタンツ』も『C.C.C.C.』も『メルツバウ』も『ハナタラシ』も『ゲロゲリゲゲゲ』も『裸のラリーズ』も誰も来なかった。

唯一、来福していたのは『灰野敬二』だけだった。だが、それも滅多に来なかったし、チケット代が当時、演劇青年だった私には高額だった(東京から来るミュージシャンはスカパラだろうと、松山千春だろうと、灰野敬二だろうと5000円から6000円だった。当時の福岡市の最低時給は700円代である)。


だから、音源にて衝撃を受けたインキャパシタンツのライブは家から出る前に既に興奮していた。


だが、此処でインキャパシタンツのライブのレビューを書いても仕方がない。
そう言う事は有識者に任せたほうが良いし、私の得意分野でもないし。

T美川氏の演奏の後に、小堺文雄氏のソロだった。

楽屋で自分の曲の練習をしていたので「あれ?インキャパシタンツってギター使っていたっけ?」と思いながら、小堺文雄氏の登場を待つ。

大量のエフェクターを前に何をするのかな?と思ったら




ギター1本で歌い始めた。




此れは驚いた。だが、直ぐに嬉しくなった。芳醇なアシッド・フォークと言うか、一音一音、歌詞の一言、一言が水のように一滴、一滴となり、それが樽に貯蔵され、長年の時をかけて美しい香を持つ蒸留酒のような。
または一葉、一葉を詰み、それを集めて、湯によって香りはじめる茶の雫。



動画を撮影したのだが、本番のときのうような音が再現されない。
どうしても、こう言うモノは動画では再現出来ない。


トラベル・ギターでの弾き語りだったのだが、コードは間違えるし、リズムも怪しい。スコアを見ながらの演奏なので、何処かタドタドしい。

だが、それをもってしても芳醇なのである。


『人前で演奏するのは初めてです』

『歌うのは初めてです』

『ギターを3日前に買ったばかりです』

と言う音を出す。それは凄い音なのである。
どうして、こう言う音が出るのか。どうして、こうも心に響く歌なのか。
こう言うモノはテクニックと言うよりもスケールの大きさなのかも知れない。
または年齢やキャリアによって克服されるモノなのかも知れない。

『音』と言うモノへの対峙、謙虚さなのかも知れない。


書きながら思ったのだが、楽器の修練を積めば誰だって上手くなる。一日5分だろうと15時間だろうと『上達』はする。

上達した結果は何か?って言えば、初めて楽器を手にした時の音の響き、それを自分が操作している時の感動が消える。

『音』と言うモノへ最初は謙虚な姿勢であり、アンプのボリューム、弦の張替え、楽器の重さや手触り、出てくる音への畏怖、畏敬。

其れが消えてくる。

『当たり前の音』になってくる。1万円のギターでも100万円のギター(ギターに限らないが)でも、演奏し続けていけば、当たり前の音になる。

それは、面白くない音になる。



多くの演奏家は『当たり前の音』を克服するためにエフェクターや楽器の改造、何やら怪しい事を行うのだが、小堺文雄氏は常に『初めての音』と言うか、音に対して一音、一音、謙虚であり、それに対して敬意を込めて音を出す。


だから、あんな凄い音が出るのかも・・・と思う。


もう、今宵はこの演奏だけでお腹いっぱいです、と思った。




私はトランペットを演奏しているが、此処5〜6年は自分の音が面白くない。
その為、日々の練習では不自由、と言うか制限付きの練習(主にミュートを使ったルーティン・ワーク)を行ったり、過去には鉛や改造部品を装着したり、楽器を削ってみたり、胡散臭い事を多々やったのだが、最終的にあらゆる改造部品、エフェクターを外した時の音が一番、面白かったりする。


音への謙虚さ。


それは仏像を前にした時のように、対峙しなくてはならない。

仏像を切り刻むように演奏しなくてはならない。

燃える薪の中にロザリオ、仏像を投げ込み、神を殺す。

それが演奏なのかも知れない。

書いていて意味が分からないが、そんな気がしてならない。


2019年9月11日水曜日

田中智子/ソフトさん


大昔だが、『ソフトさん』と言うバンドをやっていた。






当初はティンホイッスルとアパラチアん・ダルシマーのデュオだった。

『インチキ・ケルト音楽』と言う塩梅。

それで知人の誕生日イベントで演奏。

その後、メンバーが増えて4人編成に。
私はトランペットがメインだから弦楽器は下手だし、メンバーは楽器がメインじゃない人も多かったの

で、下手も良い処だった。



頭を抱えたのは田中智子さんが「楽器が全く出来ない」「やろうとも思わない」と言う処で、仕方がないから鈴を持たせて振らせたり、なんちゃってパンクみたいな曲ではシャウトしたり。



ただ、『緩い』と言うのを遥かに超えて『緩い』バンドだったので、無茶苦茶なカバーもやっていた。

①イン・ア・サイレント・ウェイ(マイルス・デイビス)

②さよならニッポン/さよならアメリカ(はっぴいえんど)

③ピンヘッド(ラモーンズ)

④Smoke on the Water(ディープ・パープル)




ただ、集客能力が枯渇と言うか皆無なバンドで、0人が常だったので余りライブには呼ばれなかった。
一回だけ高円寺『円盤』で企画ライブをやったのだが、まぁ集客は自殺モノだった。






どうやら、田中智子が死んでいたらしい。

『死んでいた』と過去形なのは6月に死んでいたから。

今更になって知ったと言うのは、それを告知した人も最近、知ったと言う事だろう。


高円寺のアパートで孤独死だったようでもある。

『持病で死亡』

とあったのだが、双極性障害が持病だった。

レーベルから音源をリリースする為、と言うかレコーディングの為に処方量を減らしたり、ライブの回数を増やしたりしていた。

死因は書かれてないけども、なんとなく憶測出来る感じもする。

何だかなぁ・・・と思う。

何だかなぁ、と言うか実感が沸かない、と言うか。

先月、電話をしたら不通だったのだが、あのときには既に死んでいたって事か。

何だかなぁ・・・。

こう言う事を言葉にする事は難しい。

自分が、どう思えば良いのか分からない。





2019年8月26日月曜日

My RevolutionよりもMy Generation

大昔。



まだ90年代になったばかり中学生の頃。

当時、ようやく『カラオケ』と言うモノが場末のスナックから中学生でも使えるようになった。

其処で男子は『米米CLUB:浪漫飛行』を歌うのがHIPとされていた。

女子はカラオケで皆『My Revolution』を歌っていた。


そんな事をふと、思い出して『My Revolution』を30年ぶりに聴いてみる。



確かに良い曲である。



『良い曲』と言うよりも、リリースが私が10歳の頃なんだよな。
だから、私が中学生の頃だと、少なくとも3年か4年前のはずである。
だが、当時のヒット曲って息が長かったんだよな。
丁度、登場したカラオケでもHITしたのだと思う。
で、歌詞が

『反抗期を迎えた頃の中学生〜高校生』

にピッタリだった。反抗期が意味不明なように歌詞も若干、意味不明な部分がある。

『わかりはじめた/My Revolution』

などである。


直訳すると


「私の革命」


である。


これを意訳すると



『人間革命』


であり、つまり創価学会の池田大作である。

仏教的思想をPOPSに持ち込んだ最初の楽曲であり、創価学会的仏教思想をシンクラヴィアで表現した、電子音楽史上、最大の金字塔なのである・・・と思って、wikipediaを読だが

『当時、創価学会員の絶大なる支持を受けてヒットした』

とは書いていないし、余り関係がないらしい。

そもそも、電子音楽、POPS、仏教思想なんて聴いたことがない。上手く行った人はハービー・ハンコックくらいなモンだろう。
キリスト教、デスメタルとキリスト教は意外と相性が良いらしく『デス・メタル・ミサ』『HIPHOPミサ』なんてモノもあるらしい。




と言うか、この曲をプロデュースしたのは小室哲哉だが、彼の『TMネットワーク』って、こう言う『思春期の男女の心の小波』を歌ったモノが多かった。

『ぼくたちの七日間戦争』
とか(子供心に感動した。あの映画と『ライ麦畑でつかまえて』は思春期ベストである)。



思えば、『思春期の心の小波』を表現した音楽がHITした頃って、バブル景気の頃で、思春期の男女でもLPが買える時代だった、と言う事なのかも。



その時代の映画と言うのは何だったか?って言えば、すわ

『薬師丸ひろ子』

である。角川映画だったが、『セーラー服と機関銃』のインパクトは凄かった。
子供の頃にCMで薬師丸ひろ子が「カ・イ・カ・ン・・・」と言う衝撃を何と例えれば良いのか分からないが。
ただ、映画は、まだ18歳未満禁止と言う感じがした(実際、角川映画は現在だとストーカーやメンヘラと言った表現が多くてTV放送出来ないらしい)。

ただ、まだ『映画を子供だけで観に行く』と言うのは少なかったと思う。

『子供の文化』『大人の文化』

が明確な時代だった。

子供の頃に観に行く映画と言えば夏休みの『東映アニメフェア』であり、其処で『ドラえもん/のび太と鉄人兵団
を観に行くのだが、嬉しかったのは『ドラえもん映画』だと、なんと!


『しずかちゃんのフルヌード』

が3〜5秒ほど放映されるのである!!!


これが10歳くらいの男子生徒にとって、どれほどのモノか。子供料金とは言え千円と言う大金を支払う価値があったのである。あの数秒の為に!

そんなモノが『子供の映画』だった。アニメと言うのはイコールで『子供向け』。
だからこそ『AKIRA』や『オネアミスの翼』が異色、異端、驚愕として迎えられたワケで。



角川映画の薬師丸ひろ子は既にTOPスターだったが、アイドルとは違った気がする。映画音楽なども歌っているがアイドルから連想される『未成年女子が性的な事をHIPに歌う』と言うモノではなく、当時の『歌謡曲』の王道だったと思う(セーラー服と機関銃の撮影時の薬師丸ひろ子は中学生だったが)。


初期の角川映画は、やはり子供が観るようなモノじゃなかった。性的なシーンが多かったし、現代だと「明らかに精神がオカシイ」と言うシーンも多かった。

だから、TVで観る薬師丸ひろ子は「素敵なお姉さん」であり、『My Revolution』は「同世代の歌(リリースは4年前だが)』だった。



それはサテオキ。

My Revolutionは小室哲哉が音を作っていると思うのだが、シンクラヴィアやフィアライトCMIを使っているとは言え、当時の音はなんで、こんなに変な音なんだろうか。


シンセのプリセット音のようなストリングス、押し付けがましいドラム。
特にドラムの音は時代を表すが、このダサいドラムに誰も、何も思わなかったんだろうか。
良い曲なんだけども、「でも、やっぱ、ダサいよね」と思える曲でもある。

小室哲哉ってEL&Pやシンフォ系プログレのマニアなのだがEL&Pは、もう少しマシな音を使っている。



そう考えると『演歌』は強いよな。
演歌の成立は1976年だが、あまり時代に左右されない音と言うか。

演歌と言うか『歌謡曲』だろうか。

上記にUPした『薬師丸ひろ子:紳士同盟』は歌謡曲だが、音色や音列は古賀政男を感じる。



『My Revolution』は当時、最高のシンセサイザーとドラムを使う事で「1986年」に真空パックされてしまった気がする。

因みに私は『My Revolution』よりも『The Who - My Generation』の方が好きだ。



2019年8月20日火曜日

21世紀最後のテクノポップ:Covin*Kestner

池田拓実を知ったのは、実は今は無きSNS『MySpace』だった。






一瞬だけ流行ったSNSである。
自作の音源をUP出来る、と言う事でミュージシャンには好評だった。

自作の音源をUPする方法は、まだ良くわからなかったし(OSによっては対応していなかったり)YOUTUBEは当時は確か3分程度の動画だけだった。
しかもUP方法が難しかった。


ただ、他の人達がどんな音楽をやっているのか?と言う事では良いサービスだったと思う。


私は杉並区高円寺に住んでおり『60〜70年代ロック』や古い音楽、PUNK以外は余り聴けない街だった。そう言う意味で高円寺は非常に閉鎖的で特種な街だったと思う。


2007年だったと思うのだが、その『MySpace』で


『Covin*Kestner』


を知った。









初めて聴いた時はビックリした。数曲だけがUPされていたのだが、余りの出来の素晴らしさ・・・クオリティの高さに唖然とした。


4回ほど『ミュージシャン自身』を紹介していたが、今回は『Covin*Kestner』と言う音源を紹介したい。


余り語られていないユニットだし。


ただ、此れを書くに当たって調べてみたのだが余りにも情報がない。00年代のアンダーグラウンド・シーンなんて、そんなモンのような気がする。

SDLXで行われていた伝説的イベント『TESTTONE』もgoogleに情報が豊富か?と言えば、そうでもない。



インターネットと言うモノがgoogleの事を指すことになり、其処から『古い情報』とされる情報は「なかった」とされる。
「なかった」とされる情報は、アルタミラ洞窟の絵よりも価値がなく、誰にも発見されずにHTMLの海に消えていく。




MySpaceで『Covin*Kestner』を知った時。

上記の通り、桁外れのクオリティに愕然とした。ミュージシャン達が漸くCD-Rで作品を発表していた頃である。
録音機はHDDのMTRであり、中にはライブ一発録り、と言うモノも多く、意思や音楽性と反して音楽的クオリティは低かった・・・と思う。

其処に『Covin*Kestner』は圧倒的な楽曲と、音圧、音質で登場した。

初音ミクがブレイクする前で、余りの凄さに恐怖を感じた。

「この曲を作った人は、どこかオカシイのでは・・・」

と思った。

自分が知らない処で、こう言う曲を作っている人がいる・・・と言うのは何故か怖い感じがした。

何故か恐怖や闇を感じた。

怖がりならも聴いていた。ドキドキしながら聴いていた。







「音源が欲しい」

と思った。ただ、『Covin*Kestner』を何と読めば良いのか分からない。記号のような名前である。ユニット名に『*』が入っているのである。

発音することを拒むようなユニット名である。

だから、読み方すら分からないし、どう言うユニットなのかも分からない。『MySpace』は、そう言う情報が少ないSNSで音源だけがあり、あとは勝手にして・・・と言うか。
だから、消えたSNSになったのだろうが。


音源の入手方法は分からない。インディーズなので大手CDショップなどに置いているか怪しい。
じゃあ、手売りや物販か?って言えばライブの情報も分からない。


00年代って、そう言う事は多かった。


00年か01年に、新宿のシアターPOOと言うハコで偶然、観た女性一人のNOISEミュージシャンがいて。凄くカッコ良かったのだが、音源は貧乏過ぎて買えなかった。
だが、凄く印象に残っていて、一年に一度ほど思い出していた。

その20数年後に再会した時は『山安籠』と言うユニットになっており(当時は違うユニット名だった)、結婚して、お子様もいた。

だが、ビックリだった。

インターネット元年と言っても、PCは高かったし情報は多くなかった。だから、一回一回の偶然が大事だった。



『Covin*Kestner』を知って、漸く『ユニット名の読み方』を知ったのは西麻布のクラブだった。


『西麻布BULLETS』と言う相当に尖ったクラブに出演した。私は『KO.DO.NA』で出演。その時のオーガナイザーに

「コビンケスナーの池田さん」

と紹介された。


其れが、池田拓実氏との初対面だった。


「あ!あれが『Covin*Kestner』の人か!!!」


と質問攻めにしたい衝動を抑えて恐縮した覚えがある。

音源は手に入らなかったがリスペクトどころか畏怖、憧憬の存在だったから。


何故なら、フランス印象派のようなサウンドのレイヤーによる音列、音質は私が「こう言う音楽を作りたい!」と思った音だったからである。

ツンのめっているリズム。

有機的な音色。

ヘンテコな歌声。


歌に関しては、まさか人間が歌っている、とは思えない歌だった。それこそ『一音、一音、サンプリングして並べた』のではないか?と思った程である。

当時、池田拓実氏は『ToneBlues』と言うユニットをやっており、そのギャップに驚いた。

『ToneBlues』は・・・POPとは到底、呼べない音楽であり、その構造や仕組みは『不思議』としか言いようがなかった。

その時に池田拓実氏から「最後の曲に参加してほしい」と言われて、下手糞なトランペットを吹いた
(その時、池田拓実氏はウクレレとバンブーサックスを吹いていた)。

憧憬と畏怖の人の依頼なのである。断るはずがない。正直、凄く嬉しかった。






『Covin*Kestner』は過去に知人がオーガナイズするイベントに出演していた。


「ライブは良くなかったけどボーカルのテロンテロンした歌い方が凄く面白かった」


らしい。私が池田拓実氏と知り合った頃には既に解散しており、ボーカルの女性はアニソンを歌ったり、コスプレをする女性だったらしいのだが、MIXIで見つけたときには

「音楽活動は、もうやりません」

と記載していた。そのMIXIも早くに辞めていたようだった。




池田拓実氏から聴いた話では当初、YMOの『ジャム』と言う曲『だけ』を演奏するテクノポップ・・・なのか?・・・出身らしい。

氏が所有していたシンセサイザーは『EOS』と言う、当時としても低スペックなシンセサイザーだった。

「YMOのジャムだけで、シンセのメモリを全部使った」

と言う。その後、女性ボーカルが加入・・・スカウトしたらしいのだが・・・Covin*Kestnerとなったらしい。

「秋葉原でアニソン大会と言うか、アニソンを歌うイベントがあった。その際に最も歌が下手だった女性をスカウトした」

と言っていた。

その後の活動は、調べてみるとテクノポップ系のイベントに出演していたらしい。






先日、水道橋futariに池田拓実氏のイベントを観に行ったのだが、その際に「Covin*Kestnerの音源ってありますか?」と尋ねると

「いや・・・自宅にあるけども・・・」

「あ、ないんですか・・・」

「黒歴史ですからねぇ・・」

と言う。


確かに現在の氏の音楽と、Covin*Kestnerは『電子音』以外の共通項はない。だが、『黒歴史』にしては、余りにも美しい『黒歴史』ではないか。

私の黒歴史なんて、人に話せるようなモノではない。
墓場まで持っていきたい位、恥ずかしいモノばかりである。



然し、不思議だ。



フランス印象派のようなレイヤーと旋律。

ツンノメッた、妙なリズム。

人間が歌っているとは思えい不思議な歌。


このサウンドが、どうやって出来上がったのか。



テクノポップと言うジャンルがあり、其れは今でも行っている人はいる。

その『テクノポップ』と言うジャンルの

『極北』
『究極』
『彼岸』
『最果て』

と言う気がする。




それは、後に電子音楽家、現代音楽家として名を馳せる池田拓実氏の『置土産』だったのだろうか。


音源は手に入らなかったが、ふと、ストリーミング・サービスで探したら出てきた。どう言う流通になっているのか分からないが、漸く全曲を望むリスニング状態で聴ける、と言うのは嬉しい。


実は私は、YMOのマニアであり、シンセサイザーを購入したらテクノポップをやりたかった人間である。
紆余曲折あって、トランペットとエフェクターと言うスタイルになったが、元々は中古LP屋でテクノポップやNWばかりを買うので『テクノポップ少年』と呼ばれていた程である。


この超絶名盤を聞くことが出来る、と言うだけでスマートフォンを契約しただけの価値がある。


兎に角、嬉しい。

私は、この音源を自由に聴ける事が出来て、兎に角、嬉しいのである。昨夜から何回、聴き直しているか!!!

高校時代に好きだった女性とデートをしているような恍惚感である。

音楽は・・・いつだって素晴らしい・・・。




2019年8月10日土曜日

表現の不自由

あいちトリエンナーレの『少女像』について、ツラツラと書いてみたのだが。
書き終わって思うのは

「考えてみれば『左』と呼ばれる人達も『表現の自由』『多様性』を否定してきたじゃん」

と思った。

https://kodona.blogspot.com/2019/08/blog-post.html






311の直後の脱原発デモの事を思い出した。
場所は渋谷で、高円寺界隈の人達も多く参加していた。

その時に、ある『右翼団体』が参加を表明した。ネトウヨとか保守系じゃなくて、純粋に『右翼』の人達である。

「国を憂う気持ちは同じ」

と言う事での参加表明だった。

私は

「あ、これで市民運動と言うのは一歩どころか大きな前進になるのではないか?。左翼or右翼ではなく、ある目的に向かって全てが一緒になれるチャンスなのかも?」

と胸を踊らせた。




だが、参加している他の団体や個人が、『愛知トリエンナーレ』と同じように

「参加したら殺す」
「一緒に歩いている奴がいたら殴る」

と物騒な事を言って大反対となった。それで、未参加(主宰者側が右翼団体に不参加を申し入れた)となった。
そんな事、おかしいじゃないか。脱原発は左翼、新左翼だけが言える事柄なのかよ?と思う。

それをデモの前に

「おかしいじゃないか!。同じ国を憂う者同士が協力出来なくて何がデモだ!?だから、俺は此処に国旗を立てる!」
と言って国旗を掲げた人がいたが、国旗を掲げた1秒後に殴られていた。


デモの終盤に「何故、国旗が駄目なのか?」と聞いたが「国旗は駄目でしょ。やっぱ」と曖昧な返事だった。
一企業が日本の国土を大幅に奪ったワケで、これに関して右翼も左翼も無いし、国旗を掲げる自由もあったはずだが駄目らしい。
未だに理解が出来ない。



あと『ろくでなし子』さんが自身のツイッターで記載していたが、反レイシスト団体から何故か脅迫を受けたことがあった。
ろくでなし子さんはレイシストではない、にも関わらず。



あと、極端かも知れないけども『はしすみとしこ』って言う保守系のイラスト屋がいるのだけど。
この人の最初の画集が意外な事に売れた。
それでサイン会兼講演会が催されたのだが、これも『反レイシスト団体』の猛烈な脅迫とクレームで中止させられた。


『表現の自由』と血相を変えて激怒する一方。
その『表現の自由を侵害された』と言う人達も『表現の自由』を侵害している。



「いや、表現の自由と言ってもレイシズムとか弱者を貶めるとかは駄目でしょ」
と言う意見もOKなんだけども『制限付きの自由』は『自由』と言えるのか。
『はしすみとしこ』はレイシストだが、「だから、なに?」と私は思うんだよな。だって、イラストとしては平凡な出来だし、要するに『面白くない』作品なのに、何を血相を変えているんだろう・・・と思った。
(レイシズムや弱者を貶める、民族差別、職業差別、障害者差別は手塚治虫がタブーとしていたが、その手塚治虫も、そのポリシーを遵守出来たとは言い難い)
(同時に手塚治虫がアチチュードとしたタブーを、叩き壊す、と言うアチチュードも有りだとは思う)



『自由』って何なのさ?と思う。誰も定義出来ないし、定義した処で守れない。
女子高生とSEXするのは条例違反だが、山羊や犬とSEXする自由はある。それを『性の自由』とも言えるわけでさ。




随分、前の話だけども。

国分寺の『フリー・即興ジャム・セッション』に呼ばれたので演奏した。
その頃、私はトランペットを演奏する事にウンザリしていた。
もっと、メチャクチャで、もっと電力を使った音楽をやりたい、と思っていた。
真面目に吹いてもトランペットと言う楽器は『即興演奏』と言うか、デレク・ベイリーみたいな演奏は不可能である。
それで、自作のピック・アップをトランペットに装着して、ループマシンでトランペットを殴る音でノイズを作る。
延々とハウリングさせた。
トランペットを吹いたのは1分程度だったと思う。
最後はアンプにトランペットを投げ付けて終わり・・・と言うモノで個人的には満足が行くものだった。
共演者を徹底的に無視したい。
無視した処で、無視は出来ない。
だから、やりたい。
と思った。



後日、怒られた。

「ちゃんと共演者の音を聴きながら演奏しなきゃ駄目だ」

と言う。

「ほな、ブルースのセッションでエエやんけ!。フリーなんだろ?。合唱団体じゃねーんだろ!?」

と言い返したが

「音量は共演者の音量に合わせ、演奏は共演者と共に作れ」

と一点張り。

そんな演奏の、何処が『フリー・インプロージョン』なのか理解に苦しんだ。



坂口安吾の『天皇論』と同じで

『思想の自由』
『宗教の自由』
『表現の自由』

を高らかに、血相を変え、仰け反りながら、雄鶏さながらコケコッコー!と叫ぶ人ほど、その都度、『自由』の定義を変えながら『自由』を奪っていくんではないか?って気がする。



あと、『愛知トリエンナーレ』の企画者が「日本から自由が遠ざかった」みたいな事を言っていたんだけど、あれは負け犬の遠吠えなんだよな。
『自由』って生きるうえで大前提だけども、旧約聖書の頃から『自由』を奪われて、『自由』を武力なり、何なりの力で奪還している。

もう、これは源平合戦だろうと、桶狭間の戦いだろうと、島原の乱だろうと、同じなワケで。
だから、『表現の自由』を訴える人が、それを『許さない』と言う人達に惨めに、無様に屈服したんだよな。
マヌケだよな、と思う。

あんな屈服をしておきながら「自由」を謳うなんて、ヘソで茶を沸かせられるよな、と思う。

真夜、木霊する鉄パイプ:橋本孝之

あの頃、誰もが『サクソフォン』と言う楽器にウンザリしていた。


多くの可能性を秘めながら、誰も楽器の可能性を追求しているとは思えなかった。
サクソフォンを抱えた人々は誰もが似たような風貌で、似たような音を出す。

何かの模倣である事は明白で、此方が驚かされる事は皆無であり、彼等が演奏している時間と言うのは苦行のような『退屈』と言う時間だった。


『退屈』と言う名の楽器になっていた。


多くの苦悩を救いあげた楽器は、既に『苦悩』其のものとなり、あのリード楽器を見るとウンザリするようになっていた。


チャーリー・パーカーには誰もが驚き、オーネット・コールマン、エリック・ドルフィーにゾクゾクし、そして阿部薫は伝説と神話の人だった。

つまり、私達とは「全く無関係」の人々がサクソフォンと言う楽器をクリエイトしていた 。
それは伝説や神話の話であり、私達の活動や思想、思念、演奏方法やサウンドの『向こう側』には全く無関係な話だった。

会社を設立しようとする人は旧約聖書を参考にはしない。

そう言うモノだ。






ある初夏の日。

スウェーデンから来た現代音楽家であり、トランペッターの女性とスタジオで2時間ほどセッションした。
高円寺駅で待ち合わせをしたのだが案の定、1時間の遅刻をしてきた。


スタジオでの演奏はトランペットが二人、と言う編成に不安を覚えたが、実り多きモノだった。

終わってから高円寺駅の居酒屋で呑んだ。



前日に某ノイズ・ユニットを観に行った、と言う。それは素晴らしいモノであり、エレクトロニクスを多用しながらも有機的なサウンドは「Amazing!」と言う。

その日、出演していたサクソフォン奏者について聴いてみた。

「彼は面白くなかった。演奏は有機的ではなかったし、物語性がない。序破急と言うか展開が感じられない」

と言う。

聞いて笑いそうになった。


そのサクソフォン奏者は、有機的な物語性を否定し、長年の悪夢を断ち切ったた『破壊神』のような人であり、氏の演奏の肝だった。納豆を嫌悪する欧米人を見ているような感じがした。





そのサクソフォン奏者がこそが『橋本孝之』氏だった。




橋本孝之氏に関しては多くの記事がある。ジャズ雑誌だったり、色々。その幾つかを私は読んでいる。

橋本孝之氏の演奏も何度か目撃し、音源をも所有している。その音源にはライナーノーツが付いており、橋本孝之氏の半生も針穴から覗いたような有様だが、知っている。


だから、文筆業を本業とする人達とは私は落差がある。それでも書いてみようと思う。





橋本孝之氏を知ったのは何時だったか。




個人的な印象としては『彗星のように登場した』と言う印象がある。初めて氏の演奏を聞いた時。それは京都での演奏だったのでYOUTUBEであったが、まさに『彗星のよう』な演奏だった。

まず、驚きがある。

次に喜びがあり、

その次に嫉妬が入り混じる。



『嫉妬』に関しては、氏の容姿が大きかった。要するに『物凄く男前』なのである。京都市と言う事なので『物凄い男前』と言う言葉が似合う。


「実は公家の末裔では・・・」
「天皇家の血をひいているとか・・・」
「実家には奈良時代から続く家系図があるとか・・・」
「親族に陰陽師がいるとか・・・」
「平安貴族の末裔だったり・・・」
「祖父は若い頃にドイツに留学していたり・・・」
「茶道や華道とか毛筆で達筆だったり・・・」
「壷や茶器に詳しかったり・・・」
「実は能や狂言の跡継ぎなのに、親の反対を押し切り・・・」


と妙な事を思う。

アルト・サックス奏者と言うのは常に貧乏臭く、女っ気がない男性ばかりだった。

有り体に言えば『フリージャズ』『即興演奏』と言うのは、非モテ・非リア充が行う演奏であり、それは荻窪グッドマンや中野テレプシコール、中野富士見町のplan-Bだった。


だから、橋本孝之氏の容姿は驚きだった。


ライナーノーツにも記載があるように実は既婚者であり、子供もいて。
だから、常に異性を連れている・・・と言う人ではなかった。

初対面の時の、余りの上品な紳士っぷりに驚きを隠せなかった。





橋本孝之氏の演奏に接して見て『驚き』『喜び』の二つがある。




まず、サクソフォンと言う楽器は・・・と言うよりも『サクソフォン・ソロ』と言う演奏はフリージャズと言う前時代の音楽であり、20世紀の遺物である。
その頂点には『阿部薫』と言う人物がいる。

たった10分〜15分の演奏の為に途方もない量のドラックを服用し、伝説的な演奏をする・・・と言うモノ。

しかし、阿部薫の弟分だった、と言うトランペッター『庄田次郎』氏は

「阿部薫は素晴らしかった。でも、途中から『阿部薫』と言う人物を演じるようになった。それからの阿部薫の演奏は駄目になる一方だった」

と言う。庄田次郎氏から阿部薫の事を聞いたのは、この時だけだが『阿部薫』と言う人物を完全に言い表せている。



阿部薫の演奏は『フリー・インプロヴァイズ』と言うよりも、音源化されたモノを聴く限り

『ジャンル:阿部薫』

になっていた。其れは『阿部薫』と言うモノに本人が『所属した』ワケで、やはり退屈な事だと思う。

ジャンル分けが出来るような音楽は面白くない。

『JAZZ>free Jazz>阿部薫>阿部薫』

とCDショップにはコーナーがありそうな。それは生前からそうだたっと思う。



そして、阿部薫は呪いのようなモノだった。



アルト・サックスを抱きかかえ、其れをソロで演奏する人々は誰もが『阿部薫』と言うジャンルを演奏していた。
そのジャンルの為に「リード楽器とは飲酒である」と言った塩梅に呑みまくり、そして退屈な演奏を続ける。

ルイ・アームストロングが好きだから、と言う理由でディキシーランド・ジャズを続けても面白くはない。
だが、アルト・サックスを構える人々は生涯に渡って同じジャンルを続ける。


『アルト・サックスのソロ』


と言うのは、そう言った70年代新宿文化と言うか、泥臭く、文学崩れのマッチョイズムが背景にあった。

呪詛、呪い、怨念、執念、気合・・・。


下らない。下らない。下らない。






音楽を聴きすぎて、音楽が好き過ぎて、音楽に対して『退屈さ』を感じるようになってしまった。

音楽が好き過ぎて、演奏が楽しすぎて、演奏に対して『窮屈さ』を感じるようになってしまった。




橋本孝之氏のサクソフォンからは『退屈』と言う時間が一切、取り払われていた。深い森から一気に広い草原に出たような驚きがあった。

音楽を退屈だと感じていた。

だが、音楽は最高だと再認識させてくれる。

『音楽』『即興演奏』『フリー・インプロヴァイズ』と言う言葉から連想させる窮屈さ、退屈さ、平凡さ。

それが橋本孝之氏の演奏には一切、無かった。



初めてウェイン・ショーターの演奏を聞いた時。

その、ナイフのような鋭角なアドリブに心がブルブルと震えた。

初めてジョン・コルトレーンのアドリブを聴いた時。

延々と続く、叫びのような演奏に目眩を感じた。



随分前に感じた「初めて〜」が橋本孝之氏の演奏にはある。

切り裂くような鋭角さ、叫びのようなフリークトーン。

憧れにも似た、驚きを感じた。





橋本孝之氏の演奏を聴いて『喜び』を感じる事が出来たのは幸いだったと思う。

それは私が金管楽器奏者と言う事も関係しているのかもしれない。



和音が出せない。
リズム楽器としては線が細すぎる。
大量の音列を扱うには構造上、無理がある。
メロディーを演奏しても音色は一つしか無い。



DAWやエレキ・ギター、シンセサイザーに比べると『劣る部分』ばかりであり、こう言う楽器で『次の音』『次の音楽』が作れるのか?と。

過去の前例・・・アルバート・アイラー、ドン・チェリー、マイルス・デイビス、エリック・ドルフィーを聴いてみるが、どうも無理なようだ。

じゃあ、存命中の『近藤俊則』『ジョン・ハッセル』は?となると・・・なんと言うか『予め諦めている』と言うか、楽器の限界を痛感したうえでの演奏・・・と思う。



『管楽器によるソロ・インプロヴァイズには既に限界があります。』


と言うのが結論に近く、何かを諦めるしかない。





だが、彗星のように登場した橋本孝之氏の音は予め『限界』と言うモノが取り払われている。


そんな事を一切、感じた事がない。
そんな事を一切、考えたことがない。
そんな事があるわけがない。


女子中学生がPUNK Rockに憧れてギターを弾くようなアチチュードで、そのリード楽器を吹いている。



あ、今、『女子中学生』と書いたのだが、橋本孝之氏の演奏には『性別』と言うのが感じられない。男性的ではない。女性的でもない。少なくとも『男性』が考える『女性的』な演奏ではなく、本当に女性が演奏しているような印象がある。


嘗ては、FUNKが好きだった、と記載がある。


FUNKと言う非常にマッチョな音楽が好きだった、と言うのが信じられない程、『男性性』と言うのが薄い。

『男らしい』と言うのは、女々しく、愚痴っぽく、呪詛であり、つまり見苦しい。

橋本孝之氏はカレーライスを作るかのように、さも当然のようにフリークトーンを放出する。しかし、そこに愚痴や呪詛はない。
氏にとっては当たり前の音なのだから。


管楽器と言う不自由な楽器だが、実は『不自由さ』を感じているは私の問題であり、もっと『自由』だ、と言う事が橋本孝之氏の音からは発見される。



私がエフェクターを使わずに『トランペットのソロでインプロヴァイズ』を行ったのは氏の演奏の影響が強い。

適切な音量、間違いのない音、確信犯、美しい音を、美しい楽器で、美しく演奏する。

それは、この時代においても可能なのか!と思った。


トランペットはジョン・ハッセルのようにエフェクトを使わないと、ソロは出来ない・・・と思っていた。音色にも限界があるし、多くの音列を扱えるワケでもない。フリーキーな音を作れるワケでもない。

そうではなく、美しい音で、美しい旋律を、美しく吹けば良い。

それだけの事だった。

それだけの事に気がつくのに多くの時間が掛かったし、橋本孝之氏の登場抜きには考えれない事だった。





PSFレコードのオーナーだった生悦住英夫さんは

「アルト・サックスに関しては『阿部薫』以上、または同等じゃないとリリースしない」

と言っていた。だが、生悦住英夫さんは晩年に橋本孝之氏のソロをリリースした。阿部薫とは全く無関係であり、全く違う方法論の橋本孝之氏を、である。

生悦住英夫さんは『阿部薫』と言う呪いをリリースしていた。

それを終わらせたかったのかも知れない・・・と思ったり。



橋本孝之氏は間違いなく、21世紀のFree Jazzであり、21世紀の異形・奇形であり、現代の孤独と孤高である。







私事で恐縮だが、実はトランペットを吹きたくて、トランペットを選んだワケではなかった。

初めて買ったレコードは『アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズ』だった。『ジャズ・メッセンジャーズ』と言うユニット名がカッコよかった。

其処ではウェイン・ショーターが鋭角なテナー・サックスを吹いていた。

写真も動画もない時代なので空想するしかなかったのだが、兎に角、憧れた。


その後にジョン・コルトレーンを知った。マイルス・デイビスと一緒に活動していた頃のレコードであり、10分以上のアドリブは神業だと思った。

私は、まだ高校生だった。

孤独だったり、上手く行かなかったり。

そう言う事をサクソフォンと言う楽器ならば昇華出来るのではないか?と思った。

シンセサイザーを所有していたが、当時のPCMシンセサイザーは操作は直感的とは言えず計算機のような存在だった。
ピアノが自宅にあったが、鍵盤楽器では、潤む山河に鉛の弾はぶち込めない気がした。

ギターは高校1年生の頃に挑戦して『Fのバレーコード』で挫折していた。

九州の青い空、尊く潤む山河、花々草木。

それらを何かで埋め尽くしたい、と思った。

身近な処で其れを可能にしていたのは『暴走族』のコールやエンジン音だった。闇深い九州の夜に木霊するエンジン音やコールは、それはそれは・・・美しかった。

だが、暴走族は『族』と言うだけあり、掟だとかルールだとか対人関係などが面倒臭そうだった。だから、中学生の頃は憧れるばかりで、『ヤングオート』『チャンプロード』と言った雑誌を見て溜息を付くばかりだった。


思えばサクソフォンの音は暴走族のコール音に近いモノがある。


だから、憧れたのかも知れない。
暴走族よりも優雅に、遥かに多くの音を扱える。


それで吹奏楽部に入団してサクソフォンを吹いたのだが、全く音が出ない。必死で吹くが音が出ないのである。

楽器には向き不向きがあると思うのだが、サクソフォンは向いていない気がした。

「うーん。どうしたものか」

と悩んでいたら、横に箱があり、開けてみるとトランペットだった。

「これなら、どうだろう」

と思ったら直ぐに音が出た。

それだけである。だから、憧れは暴走族であり、サクソフォンだった。

40歳になって、トランペットでもサクソフォンが真似出来ない音を作れる、と言う事を知るまで「あゝ、サクソフォンだったら・・・」と思っていたフシがある。




橋本孝之さんの演奏を聞きながら書いたのだが、思えば橋本孝之さんのサクソフォンは(菊地成孔曰く)不可逆的な音なのだが、暴走族のコール音と同じで『俺は生きている!』と言う声にも聴こえる。

音を埋め尽くすのではなく、適材適所に音を入れていく。

その音と音の間が木霊する。

多くの夜を抱きしめる。そんな感じがする。フリーキーなのに優しい音。

2019年8月8日木曜日

あいちトリエンナーレ

正直、話題としては『面白くない』部類にはいる『あいちトリエンナーレ』。
皆がツイッターやfacebookで書いている。妄想、被害妄想、色々と。
流行に敏感な私も書いてみようと思う



まず、大前提として『少女像』『昭和天皇の写真を焼く』と言う作品は面白くない。
作品の発想として安易過ぎるし、昭和天皇の写真を焼くことが『作品』になったのって、頑張ってもハイレッド・センターの頃までだろ。
『少女像』の持つ意味合いを勘違いしているアホの言い分も分かるんだけど、その政治的意図よりも以前に「面白くない」なんだよな。



ただ、『少女像』や『昭和天皇の写真を焼く』と言う事が、メディアや役人が

「反日」

と表現したのは驚いた。「反日」ってネットスラングみたいなモンである。基本的にBBSやタブロイド記事でしか使われない。
市長が

「そのような主張はテラワロスで御座います!」
「本議決への反対は草不可避。『こいつ、マジ?』『お兄ちゃん、こいつ殺せない』である」

と言っていたら「あ、この市は死んだな」と思うだろうに。



『少女像』に関しては、あの作品を作った人は、どう言う意図で作ったんだろう?と思う。

韓国では10代、20代の女の子が少女像を守るテントとか作っているんだけども、彼女達は

「これは経済、武力、紛争から女性の権利を守るためのイコンだ」

と言っている。

私達の多くが第二次世界大戦について、余り詳しいとは言えない。リアルタイム世代でもないし。
同じように韓国の女の子達も「従軍慰安婦」と言ってもリアルタイム世代ではない。

だが、韓国は80年代から女性の権利を儒教と父長制の国から自分達で掴み取った経緯がある。
だからこそ、『少女像』と言うのは『従軍慰安婦反対で、反日勢力」ではなく、

『女性の権利を守るため』

のモノ。

この辺が『女性の権利を蔑ろにする』って言う国民性である日本人には、理解が出来ない処なのかも知れない。
日本人にとって女性と言うのは『淑女』と『売女』しか居ないのである。
それが幼女だろうと、10代だろうと『淑女』&『売女』
要するに、終わっている。

少なくとも『少女像』を従軍慰安婦としてしか観ることが出来ない人は、性的なトラウマでも抱えているんだろうか。または『少女像』に性欲をイタズラに刺激されているのだろうか。





『昭和天皇の写真を焼く』って言う作品が面白いのか、否か。

其れはサテオキ。

ツイッターやFB、メディアでは


『日本人の心を踏みにじる行為』


らしい。

「え?そうなの?」

と驚いてしまう。


私は、その行為によって心が踏み躙られた、とは思わない。
だが、パスポートは『日本国』と書いているので、恐らく日本人なのだろう。
然し、有識者曰く

「日本人の心を踏み躙る行為であり、精神的にズタズタにする反日」

らしい。
そうは思えない俺は「日本人」では「ない」のだろうか。



以前、ツイッターで殺害予告を送ってきた男性は私について

「九州地方出身で、目が細く、名前に『黒』が付く。恐らく彼は日本人ではないだろう」

と描いていた。

親戚に『パラオ人のハーフ』はいるが、祖父は大日本帝国陸軍の軍曹で、大陸で大暴れした人である(尋常小学校卒で、二等兵から軍曹まで行くのだから凄かったんだと思う)。
母方の祖父も大日本帝国陸軍の二等兵で、南方戦線の生き残り。
多分、日本人なんだろうけども、長い歴史で考えると

『九州地方』
『中国地方』
『四国地方』
『本州』
『北海道』

は民族的には皆、全く違う。顔立ち、身体つき、方言から食い物まで何もかも違う。

『日本人』

と括るには大雑把過ぎる。

九州大陸は嘗ては大陸と繋がっていたし、渡来人も多かった。


私の祖父は大日本帝国陸軍だったが、天皇誕生日に何かしていたか?って言えば何もしていなかった。国旗も掲げてなかったし。


そもそも、昭和天皇に限らず『天皇』と言う存在は、ただ只管に「燃やされる為」だけに居る、と言っても過言ではない。

岡田斗司夫は

「天皇ほどコスパが良くて、しかも最強のコンテンツは無い。匹敵するモノはディズニーの『ミッキーマウス』だけ。だが、ディズニー社は途方もないカネを掛けて『ミッキーマウス』と言うコンテンツを維持している。其れに対して天皇は微々たるカネで維持出来ているのが凄い」

と言う。

天皇陛下自身の年収は3億円である。
これは全盛期のジャイアント馬場の年収よりも遥かに安い金額である。

まさしく、『天皇』と言うのは天孫降臨だとか、そう言うバックボーンではなく、『安くて良質なコンテンツ』である。

だから、アメリカで『ミッキーマウス』を焼く、とかでも良いんだよな。ミッキーマウスも戦中はプロバガンダ映画に登場しているので政治的な気質は皆無ではない。
ただ、激怒するアメリカ人は多くはないと思う。



坂口安吾が物凄く上手く言っている。長くなるけど引用しよう。

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『藤原氏の昔から、最も天皇を冒涜する者が最も天皇を崇拝していた。彼等は真に骨の髄から盲目的に崇拝し、同時に天皇をもてあそび、我が身の便利の道具とし、冒涜の限りをつくしていた。現代に至るまで、そして、現在も尚、代議士諸公は天皇の尊厳を云々し、国民は又、概ねそれを支持している。
                             
 昨年八月十五日、天皇の名によって終戦となり、天皇によって救われたと人々は言うけれども、日本歴史の証するところを見れば、常に天皇とはかかる非常の処理に対して日本歴史のあみだした独創的な作品であり、方策であり、奥の手であり、軍部はこの奥の手を本能的に知っており、我々国民又この奥の手を本能的に待ちかまえており、かくて軍部日本人合作の大詰の一幕が八月十五日となった。
                                 
 たえがたきを忍び、忍びがたきを忍んで、朕(ちん)の命令に服してくれという。すると国民は泣いて、外ならぬ陛下の命令だから、忍びがたいけれども忍んで負けよう、と言う。嘘をつけ! 嘘をつけ! 嘘をつけ!』
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昭和天皇の写真を焼く事で、脊髄反射で激怒している人達こそが、最も国体を軽蔑し、冒涜し、『愛国オナニー』と言う言葉があるが、自慰の道具にしている。
これに異論がある人がいるだろうか?。

明治維新は西郷隆盛達が『天皇に洋服を着せる』事から始まっている。

武装、戦争、内乱、経済ではなく「天皇に洋服」なのである。
その西郷隆盛が天皇を崇拝していたか?って言えば違う。
やはり、利用したに過ぎない。



『昭和天皇の写真を焼く』と言う作家。
それに対しての激怒派。
強いて言えば『写真を焼いた』奴の方が天皇と言う存在を、理解している(と思う)。
激怒している人は、その激怒やクレーム、犯行予告と同じように天皇を殺したい。皇居にガソリンを持参し、彼等の行事は全て『日本人の心を踏み躙る』と言える。



しっかしなぁ。
『昭和天皇の写真を焼く』程度で、何が激怒なのか分からん。
あのトッチャン坊やが、生前、一度でも国体維持、国民の為に何かをやった事は一度もない。
WW2の『御聖断』って言うのもあるけど、御聖断がなくても戦争は終わったんだよな。天皇がシャチハタ印鑑を押しただけだしな。
国民に寄り添い・・・と言うが、いつ寄り添ったんだよ。
『歩きタバコ禁止条例』
『未成年者はSEXしちゃ駄目な条例』
みたいなモンで「不敬禁止条例」でも施行されたのだろうか。
理解が出来ない。

2019年7月31日水曜日

サウンド・ピクニック:金子 由布樹

私達がいる音楽界隈は色々な事を言われる(複数形にするな!とお叱りを受けそうだが)。
曰く

『音響系』
『ポスト音響系』
『ポスト・ノイズ』
『前衛』
『オルタナティブ』
『現代音楽』
『アンビエント』
『電子音楽』

等など。『ポスト』という人もいるが何がポストなのか分からない。
『音響系』と言っても青山オフサイトには年齢的に行けなかったので分からない。
ノイズ・ミュージックには敬意は払えど、彼等・彼女達と共に歩けない。
『現代音楽』と言うのはアカデミックであり、私達は『野良犬』みたいなモノである。

であれば、前衛だろうか。


『前衛』は戦場用語であり、その戦場の最前線を『前衛』と言う。私達の『後衛』が何処にあるのか分からないが、少なくとも『何処かの戦場』の『前衛』に居続けている。

前衛だから二等兵、または一般兵である。
そして歩兵である。

何処まで行っても歩兵でしかなく、将軍や少佐と言ったポジションではない。

ただ、一点。

その戦場の最前衛で戦っている、と事。その戦場の激しさを知っており、同時にそのスリルや興奮、アドレナリン・ジャンキーである。



金子 由布樹氏について書いてみようと思う。



どうしても氏については書いておきたい、と思うから(削除しろ、と言われたら削除するしかないが)。



フリージャズ、シカゴ音響系、クラブ、アヴァンギャルド、現代音楽と言った音楽の先を考えていた。
既に音源化されているミュージシャン達は『前衛』から降りていた。

何故か、此方も最前戦に行こうと思った。

だが、どう言う手段を選択するのか難しかった。だから、色々な手法を講じた。



金子 由布樹氏との初対面は2009年である。


その頃、六本木Super Deluxeと言うイベント・スペースで『TESTOTONE』と言うイベントが開催されていた。

私も似たような企画をしていた事もあり、オーガナイザーのキャル・ライアル氏と親しくなった。

その際に酒の勢いなのか、話の流れだったのか分からないが

「一度、セッションしませんか?」

となった。それで高円寺『円盤』でイベントを主催する事となった。



その時にキャル氏が紹介してくれたのが初対面である。




腰が低くて、やんわりとした口調。



事前情報がなかったのだが、直ぐに親しくなった。氏は素晴らしい音楽を出す可能性の塊であり、他の共演者の演奏に左右されない強さがあった。

その時はカセット・テープ(ループ式のカセット・テープだったと思う)と水中マイクをエフェクターで加工していた。

後に、氏はPCを使う音楽家だ、と言う事を知った。





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其処からの思い出をツラツラと書いても仕方がない。

だが、それが縁で、金子氏が梅原 貴久氏と組んでいる『polyphonic parachute』のライブを何度も見る事になった。

金子 由布樹氏のdreamyな音、そして梅原氏の戦前カントリーのようなギターは、其れは素晴らしい体験だった。

上手く言葉に出来ないのだが、アンビエントともエレクトロニカとも違う

『何処にも所属しない音』

が転がっていた。


『何処にも所属しない音』は、デレク・ベイリーを誰もが研究したし、ジョン・ケージを誰もが研究し、エリック・サティも研究した。

それは「何処にも所属しない音」の研究だった。


前世代には「フリージャズ」「ロック」と言った前世代には自由な音楽が合ったかも知れないが、そうではなく

『何処にも所属しない』

と言う事が目的だったと思う。


『所属』『ジャンル』になってしまうと、それは死ぬ事と同じような気がした。

少なくとも音は死んでしまう。なんとか砂粒のような音を積み重ねてサウンドを構築しているのだが、所詮は砂山であり、気をつけないと直ぐに崩れる。

『音楽』でありながら、『何処にも所属しない』と言うのは『ジャンル・レス』と言えば聴こえは良いが、子ウサギのように直ぐに死んでしまう、繊細な場所だった。


当時、金子 由布樹氏がどんな事を考えていたのか分からない。だが、金子 由布樹氏、同時代の音楽家は同じことを考えていた気がする。

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私がpolyphonic parachuteのライブを観に行ったりしていた頃から金子氏はレーベルを運営し始めた。

そして、自身のpolyphonic parachuteも音源を出す・・・!と言う。

レーベル運営なんて、誰も行っていなかった。そして、そのオカネにせよ、流通にせよ、何もかも不透明だった。

穏やかで、腰が低く、やんわりとした男性が、その修羅場に行く・・・と言うのは想像が付かなかった。
まだ、CD-Rで作品を出すのが精一杯だった頃なのである。

金子氏のレーベルは順調そうに見えた。だが、物凄くギリギリの路線を狙っていた。金子氏は何処から見つけてくるのか素晴らしい、そして『何処にも所属しない』ミュージシャンを浮上させていた。

その目利き(と言うと失礼な気もするが)は不思議で仕方がなかった。

だが、肝心のpolyphonic parachuteの音源は出来ていなかった。音自体は出来上がっていたが、ミックスダウンやマスタリングを自分たちでやっていたので、完成形が先になった。


そして、漸く発表された『polyphonic parachute』の音源は、長い時間を潜り抜けて、そして『再生可能なメディア』であるにも関わらず、何度、聴いても違う音に聴こえる、と言う偉業を達成した。

あの頃、最高に最強だった音源はpolyphonic parachuteのCDだった。これは間違いない。

サンプリングしようか?と思ったが、何処もサンプリング出来ない程、音に深みがあり、誰も真似が出来ないモノだった。




何処かで聴いた事がある音。

いつか観た風景。

何処かで匂いだ香り。

だが、それは何処か分からない。何処でもない場所。観たことがない風景。

しかし、行った事があり、観たことがある場所。

何時だったのか分からない。

産まれる前かもしれない。

死んだ後かも知れない。



金子氏は自身のレーベルを「POPSだ」と言っていた。確かにPOPSだった。



私事で恐縮だが、幼い頃の話である。

夜が怖かった。本当に恐ろしかった。寝ていたら死んでしまうのではないか?と意味不明な恐怖があった。
だから、眠れなかった。

それが解決されるのは、両親から貰ったカセット・デッキだった。一緒に貰った『ゴールデン・エイジ・ポップス』と言うテープには50〜60年代のPOPSが収録されていた。

九州の山深い、闇の中で小さなボリュームで再生されるオールディーズは、絹のように柔らかく、羽毛のように心を包み込んでくれた。


それがPOPSだった。


それが金子氏の言う『POPS』だった。


オールディーズが元々はロカビリーやロックだったのかも知れないが時間の経過と共に、熟成に熟成を重ねたウィスキーのように柔らかくなった。

「もしも、子供の頃に金子氏が音源をリリースしていたら、俺はもっと長く眠れたかも知れないな」

と思った。

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しかし、不思議だった。

金子氏は、やんわり、穏やかな風貌であるにも関わらず、どうして返す刀で尋常ではないアグレッシブさがあるのか。

普通に仕事をしながら、何処から見つけるのかトンでもないミュージシャンを発見したり、自身でも物凄い熱量でサウンドを構築していた。
同時に、イベントを主催したり。

一体、氏の何処にどんなヴァイタリティがあるのか・・・。

要するに私も含めて誰もが自分の事だけで精一杯だったのである。誰かを浮上させたり、熟成させたり出来なかった。

金子氏は関係がない話だが、嘗てRANKIN TAXIと言うレゲエDJ兼シンガーは、会社帰りにDJをしていた為、スーツでレゲエDJを朝までやっていた。そして、出社。

「そんな真似は出来ない」

と思っていたのだが、金子氏は涼しい顔で行っていた。氏の内心が涼しかったかは分からない。
逆にサハラ砂漠の熱風のような内面なのかもしれない。


金子氏の企画イベントで千駄ヶ谷に『LOOPLINE Cafe』と言うハコで演奏した。


其処には氏の『POPS』感とは程遠いミュージシャンも多く出演していた。勿論、集客は少ない。自分たちの熱意や熱狂と、他者が違う事は理解していたから、客数はどうでも良かった。
ただ、必死で素晴らしい演奏を目指していた。
それは金子氏の企画では何故か達成される事が多かった。

其処で初めて出会う人、素晴らしい音楽家と出会えた。

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此処まで書いて思ったのは「あれ?私は金子氏と一緒に演奏した事がない・・・」と思ったのだが、違った。

一度だけ一緒に演奏している。

それは『polyphonic parachute』で六本木スーパーデラックスに出演した時の事である。

確か20人近い人数で出演した。

音楽家ではない人も多く、普段は漫才をやっている・・・と言う人もいた。彼等・彼女達にピアニカや何かしら楽器を持たせた。


私は、その頃、あるバンドを脱退していた。脱退と言うよりも自然消滅だったのだが。
それにより、そのバンド・メンバー達とは決して良い仲ではなかった。

だが、集められたので、集まった。数年ぶりの再会だった。

リハーサルではピリピリしていたのだが(私と、元メンバー達)、本番が始まると何もかもを忘れた。

簡単なスコアと言うか指示表があった気がする。

音が始まると

『金子 由布樹』

『梅原 貴久』

と言う巨人に抱かれる形となった。


自分の音がモニタリング出来ていたのか分からない。誰が、誰の音か分からない。だが、演奏中は此れまでにない体験だった。


何処に連れて行かれたのか分からない。

何処に行くのか分からない。



幼稚園や小学校低学年の時の『遠足』『ピクニック』のようだった。誰かが軸をとって演奏するのではなく、両人による『サウンド・ピクニック』だった。


あれほど幸せな音楽体験は一生、忘れることは出来ない。


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実は氏が、現在進行形でやっている『鳴らした場合』に関しては実は聴いていない。色々と生活が変化したり、仕事などで聴くタイミングを逃したからである。

今回、こうやって書こうと思ったのは理由がある。



数ヶ月前。


江古田フライング・ティーポットで金子氏がベース、ギター、氏と言うセッティングで演奏をした。

1stは探り合いだった。


だが、2setである。


金子氏が何気なく『サイン波』を出した。


ピー・・・・


椅子から転げ落ちそうな程、驚いた。サイン波なんて誰でも出せる。取り立て難しいサウンドではないし、DAWだとプリセット音として入っている。

だが、氏が出したサイン波は途方もなく美しかったのである。

理由は分からない。


サイン波は誰が出しても『サイン波』である。シンセサイズで作れる音と言うモノではなく『音の元素記号』みたいな音なのに、途方もなく美しい!。

『ファウスト』ではないが「時よ止まれ・・・」とさえ思った。


演奏終了後に、サイン波について聴いた。


「やっぱり、出す人によって違ってくるんかも知れないですね」


と涼しげに言う。


話が前後してしまうが、金子氏は本を数冊書ける程のグルメでもある。料理の達人が『米』を炊くのと、素人が炊くのでは違ってくる。


あゝ、この人が作る音と言うのは『自画像』なんだな、と思った。


寝ても、覚めても、夢の中でも、胃袋でも音楽家。

だから、レーベルでも自分の企画でも、何でも彼の音になってしまう。彼は自主企画をやろうと、呼ばれて演奏しようと、何もかもを料理してしまう。


其れが『金子 由布樹』と言う巨人なのだと思う。

その真髄が、あの日の江古田フライング・ティーポットで見せた『珠玉のサイン波』だった。







2019年7月8日月曜日

主戦場/ネタバレあり

先日、『主戦場』と言う映画を観に行った。 






従軍慰安婦問題は私も10年以上、モヤモヤしたモノを抱いていて、その背景とか色々を知りたいからである。 
インターネットで調べようと思うと、インターネットの特徴なのかもしれないが 

『馬鹿な右翼』 
『馬鹿な左翼』 

が、非常に分かりにくい文体で書いているのでウンザリする。 




で、『主戦場』。 

私の投稿を観て「よっし!この映画を観に行こう!」と言う奴ぁいないので、ネタバレ上等で。 



まず、従軍慰安婦問題で『従軍慰安婦は居たのか?』で言えば居た。
写真も従軍慰安婦だった人も記録も軍の書類も残っている。 

問題なのは 


「強制連行だったのか?」 


と言う所である。 

この部分でウヨクな人々は靖国の英霊を右手に集めて殴り掛かってくる。 
もう一つが 

「彼女達が性奴隷だったのか?」 

である。「彼等は性奴隷だったのか?」だったらBL漫画数冊が書けるのだが1943年の日本軍でガチホモは多くはない(日本軍でガチホモと言う設定での傑作は『戦場の挽歌』と言う小説がある。素晴らしい文体なのでググって読んでほしい)。 
因みに奴隷の定義は国際連合が1926年に定義している(当時の大日本帝国も署名している)。 
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「その者に対して所有権に伴う一部またはすべての機能が行使される個人の地位または状態をいい、『奴隷』とはそのような状態又は地位に置かれた者を言う。 
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結論から言えば 


「強制連行であり、性奴隷だった」 


である。 


『強制連行』『奴隷』は殆ど同義語である。 
奴隷の定義は国連が定義しているが、従軍慰安婦達が高額所得を得ていた、としても(例えウヨク側が主張するように彼女達が高額所得だったとしても)奴隷である事には変わりがない。 
そして強制連行だが、まず『自由意志ではない』と言う部分である。そして『それを自由に辞める事が出来ない』と言う部分である。 



強制連行だったし、性奴隷だった。 
じゃあ、これを何故、日本政府やウヨクが認めないのか?と思っていた。 
国を愛するならば過去の過ちも愛するのが『愛』ってもんだろ、と。 



ところが『主戦場』を観たら事情が違っていた。その事情ってのが物凄いんだけど、つまりは『女性差別』なんだよな。 
ネトウヨの大御所みたいな人は「フェミニスト運動ってのはブスが始めたんだ。見た目も悪けりゃ中身も悪い、って言うね」「ブスとSEXする為には顔に紙袋を被せなきゃ無理だ」と平然と言う。 


それと、戦前~戦中の日本において『女性』と言う人々に『人格』なんて無かった。 
『自由意志』と言う観念すらなかった、と断言出来る。 


映画『この世界の片隅に』で驚くのは 

「会った事もない男性と突然、結婚させられる」 
「処女を失った翌日の朝4時には炊事洗濯、家事を永遠のように行う」 
「戦争で四肢欠損となっても仕事量は減らない」 

である。国内で、この有様なので他国だと更に・・・ある。 

婚姻と言う奴隷制度である。 




当時の日本軍にすれば他国の女性と言うのは『犬や猫』と同じニュアンスだったらしい。 
だから、どんな手段であれ連れてきた女性が「強制的に連行された」と言っても理解出来ない処がある。 
判りやすく言えば全国津々浦々に 

『猫カフェ』 
『子犬カフェ』 

がある。 

その猫や犬が、発言権を持ったとして

「私は道を歩いていたら、誘拐されたのです!」

と言っても、 

「いや、猫ちゃん。君はキャットフードを食べたし、グルーミングもしてあげたし、子猫を3匹も産んだじゃないか?。強制連行と言われるのは心外だ」 

となる。 


ようするに『従軍慰安婦施設』と言うのは現代の『猫カフェ』だった、と言うか。 
少なくとも当時の大日本帝国海軍、陸軍にとっては『猫カフェ』程度だった。


そして、その『女性に対して人権を認めない』と言うのは戦中の話ではなく、現代でも同じなのである。今は『女性』に限らず、『人権』と言う言葉は万葉集の和歌の一節のような響きになりつつあるが。 

『従軍慰安婦』の時代には女性には人権も自由意志もなかった。 
しかし、それは現代でも同じである・・・と言うか。 

そもそも、日本と言う国に『人権』があった時期が1秒でもあったのか?と言うか。 



国民は社会の奴隷であり。 

政治家は老いた有権者の奴隷であり。 

資本家は株主の奴隷であり。 

株主はシステムの奴隷であり。 



リストカット、自殺未遂と言った行為は、それに対しての静かなアンチ・テーゼなのではないか?と気もしてくる。 

若年層の自殺は先進国TOP1は伊達ではない。 




ネトウヨ達が、どうして『従軍慰安婦』問題を「なかった」と言うのか。と言うかネトウヨ達の「従軍慰安婦は無かった」と言うのは証言者である元・慰安婦達の『存在自体を否定』と言う罵倒よりも酷いスタンスである。 

其処へ元・保守派と言うかネトウヨだった女性が言う。 


「ナショナリストは自国のミスを認めたら、ナショナリストではいられないのです」 
「しかし、その結果、私には敵が消えました。今では自由です」 


つまり、ナショナリスト(ネトウヨ)は『自由ではない』のである。その『自由を制限された人々』が、かつて『自由を制限された人々』を罵倒する。 

そうする事でしか、自分が自分でいられない・・・と言う脆さを感じる。 

同時に、そうする事が絶対に正しい!と主張する人々は恐ろしい。正直に怖いし、不気味だ。 


『櫻井よし子』は日本会議だし、ウヨク。 

だが、私がKIDだった頃の『櫻井よし子』はニュース・キャスターであり、バイリンガルで容姿も素敵だし、意見もキレがあり、「素敵な大人の女性」と言うモノだった。 

現代では既に『妖怪』になってしまった。 


ナショナリストと言うのは病なんだろうか。 



で、加瀬英明と言う人物がいる。この人はエール大学、コロンビア大学に留学した経験があり、政治にも関わっている。 
オノ・ヨーコの『従姉』である。 

この人が言っている事が無茶苦茶過ぎて唖然とした。 

オノ・ヨーコと、彼がどのくらい接点があるのか分からない。ただ、 

「オノ・ヨーコのラブ&ピースの思想と、ネトウヨ、ウヨク的な思想は相性が良いのかもな」 

と思った。 

ネトウヨと言うよりも『日本会議』だが、この『日本会議』には神社庁も絡んでくる。 
嗚呼、面倒臭い。 


だから、スピリチュアルな事が好きな人は何故か神社も好きである。守護神とかオーラとか。 

安倍晋三の妻が大麻推進派だが、神社で振り回される白い奴は元々は『大麻』『麻』である。だから、神道や神社もOK。 

あと、『神道』もスピリチュアル系は好きだ。しかし、『神道』って明治時代なんだよな。死物狂いで遡って江戸時代末期。 

いつの間にか『古来より信仰されてきた日本の宗派』になっているが、そんなワケがねぇだろ。 

以前、出馬して落選した『三宅洋平』も、選挙期間中は『アンチ与党』だったが、落選後に安倍晋三と電話で話したら号泣しながら感激。 
「お互い世界を愛し、国を愛する憂国の士である」 
らしい。 


従軍慰安婦問題についての映画を観たら 

「人権を認めない人達が、人権を認めない」 

と言う物凄い状態を目にして、正直、不気味で怖くなった。 

2019年7月6日土曜日

世界をチューニングする男/直江 実樹

ジミ・ヘンドリックスがウッドストックで『星条旗よ永遠なれ』を見る。




この映像は映画『ウッドストック』でも最高のシーンだが、不思議な感覚を覚える。


演奏者はジミ・ヘンドリックスと言う20代後半の青年のはずなのだが「演奏をしている」と言うよりも
「淡々とチューニングをしている」と言う印象も受ける。

湯浅学氏は嘗て、ジミ・ヘンドリックスのギターを「ギターが勝手に鳴っている。」と表したが、まさしく、である。

そう言う事はジミ・ヘンドリックス以外だと余り見当たらない。ジョン・コルトレーンは素晴らしいサックスを吹いたが「ソプラノ・サックスが勝手に鳴っている」と言う感じはしない。





色々な処で散々、紹介されている気がするが直江 実樹』氏を書いてみたい。



私の稚拙な文章で氏が気を悪くしなければ良いのだが、指先が思うように書いてみよう。




『直江 実樹』と言う存在を知ったのは何時だったのだろうか。2005年よりも前だった気がする。
まだインターネット環境は全体的に貧弱だったので『口コミ』『評判』等が強かった。その中で

『ラジオ選曲家』を名乗る人物が登場した。短波ラジオ選曲家だったかも知れないが、『選曲家』と言うのはDJであり、ラジオを選曲?と言う事で驚いた。

今は無い『マイスペース』で直江 実樹氏が登場した時に音楽仲間の間で話題になった。

「ラジオを楽器にしているらしい」
「ラジオ選曲家って、なんだ?」
「ジョン・ケージみたいな人なの?」
「現代音楽の生き残り・・・みたいな?」

YOUTUBEは無かった。YOUTUBE自体、出来上がったばかりで動画のUPの方法も分からなかったし、何よりも動画の長さは3~5分が限界だった。

だから、会う、または彼の演奏に接する事でしか音楽を体験する事は出来なかった。



其処で「直江 実樹と何処で、どう出会ったのか?」と言うのを思い出そうとするのだが、全く思い出せない。



まるで小学生からの同級生や幼馴染のような感じもする。



その頃、渋谷系から始まり、現代音楽、HIPHOP、ブルース、音響系、シカゴ系、フリージャズの再構築と再考、ジャズ、1969年前後の世界各地のロック、オルタネイティヴ、クラブ系。

雑多な音楽を浴びるように聴き、「どうやったら、次の音楽を作れるのか?」と言うのが私がウロウロしていたシーンの課題だった。

「次の音楽」ってなんやねん、と言う気もするが、そう言う気分だったのである。

音、サウンド、その彼方。

コードやリズム、ハーモニーではない音、サウンド、その向こう、彼岸の音を目指していた人達は場所や時間を問わずに出会っていた気がする。


そこに直江 実樹氏がいた。




初対面の直江 実樹氏の音は、友人から聴いていた評判を遥かに上回る素晴らしさだった。氏が抱きかかえている古いラジオは『名機』らしいのだが、私には分からない。
音も素晴らしかった。


何より印象的だったのは、氏が演奏すると、必ず素晴らしい音、サウンド、声、台詞・・・その他、全てが彼を媒介に飛び込んでくるのである。

ラジオにはアンテナが必須だが、そのアンテナが『直江 実樹』氏であり、ラジオは勝手に鳴っているだけであり、直江氏は、その媒介になっているだけのような印象を受けた。


直江 実樹氏がチューニングしているワケではない。

電波が直江氏をチューニングしている。

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演奏以外での直江 実樹氏は穏やかな人である。紳士な人である。

一度だけ「何処から演奏を始めたのか?」を尋ねた事がある。
氏は「演劇の音響」と答えた。

『演劇の音響』と言うが実際に演奏するワケではない。指定された場所で指定された音をCDやカセットテープで流すのである。

私もやっていた事があるのだが、あれはクラブDJの頭出しよりもシビアであり、キマった時の快感は中々、乙なものである。

舞台と言う1時間半から2時間のリズムの中で音を出すのであり、垂れ流せば良いワケではない。



ただ、『どうしてラジオを楽器として使うようになったのか?』は分からない。



直江 実樹氏と話していてNOISE系の話題が出た事は一度もない。個人的に好きなノイズ・ミュージシャン(SEED MOUTH)は居たようだが『好き』と言うよりも『師』と言うモノでもあった様子である(この辺は直江氏に直接、聞いたワケではないので憶測でしかないのだが)。

直江氏の口から出てくるミュージシャンは常にシンガー・ソングライターやファンク、それも80年代のブーツィー・コリンズだったりする。

会えば、会う程、雲を掴むような人である。

だが、演奏中はパリ万博でのニコラ・テスラのようなCOOLさ。そして他の共演者を食い散らかす凶暴さと獰猛さ。

演奏終了後の優しさ。

憑依している、としか言いようがない。『電波』と言う得体の知れないモノが氏に憑依している・・・そうとしか言いようがない。




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中学生の頃、両親が使っていたオーディオを貰って、ラジオのエアチェックに夢中になった事がある。
九州の北部だった為、チューニング中に北朝鮮や韓国、米軍の放送が何時も入った。北朝鮮の放送は常に力強く、何かをプロバガンダしていた。米軍は常にリラックスして笑い声ばかりだった。

九州の辺境であり、草深い田舎町で「素敵な音楽」と出会う為にはチューニングし続けるしかなかった。

その数年後。

「あ、ラジオは楽器になるんではないか?」

と思った事がある。福岡県の田舎町なので現代音楽なんぞは知らない。

ただ、その頃、ミニコミ、またはフリーペーパーが流行っていた。北九州市戸畑区で現代美術家にインタビューを行った。インタビューはラジカセで録音した。

帰路の駅は海沿いの静かな、人気の無い駅だった。

到着する電車20~30分後だった。

ふと、「此処でラジオを付けたら何がキャッチ出来るんだろう?」と思った。中学時代の実家では北朝鮮と米軍だったが、此処では?と思ったのである。

その時に海沿いだが、山沿いでもある妙な立地の為か、美しいサイン波が流れた。その音に感動した。

「これを楽器として使えれば面白いのでは?」

と思ったが、再現性がない、と言う問題で止めた。実にツマラナい青年である。




直江 実樹氏も、恐らく・・・全くの憶測だが・・・私と同じようにラジオから美しい音を体験したのだと思う。

それを継続するか否か。


直江 実樹氏は継続し、私は諦めた。

諦めたのではない。

直江 実樹氏は『選ばれた』

私は『選ばれなかった』


の違いである。だが、同じ経験をしている人は多いと思う。然し、『電波に選ばれた』と言う人は直江 実樹氏だけである。

選ばれし者の恍惚と不安・・・。

思えば直江 実樹氏は演奏中、非常に神経質な表情をすことが多々ある。それは『選ばれし者の不安』なのかもしれない。






先に

『COOLで凶暴な側面を持ちながらも、演奏終了後は紳士であり優しい直江 実樹氏』

と書いたが、この部分を説明する為に冒頭のジミ・ヘンドリックスがいるのである。



ジミ・ヘンドリックスも普段は礼儀正しく、腰が低い人物だったらしい。
恐らく、それは彼が長年、仕事として関わり続けたブルースやR&Bの世界では当然の事であっただけかも知れない。

もしくは、ジミ・ヘンドリックスと言う人物が『ギターを演奏している』ワケではない。彼自身は空っぽの存在であり、『エレキ・ギター』と言うモノが彼の人格だったのではないか?。


それと同じく、直江 実樹氏も、本質的には紳士であり、優しさに溢れた人物だが、そう言う人物は時折居る。
直江 実樹氏はラジオを手にした時の『直江 実樹氏』こそが氏の人格や性格、そして戦い方なのではないか。


直江氏と演奏した事は何度かあっただろうか。


考えてみると殆どない気がする。圧倒的にリスナーであり、対バンだった。



直江 実樹氏は空を飛べるのか?と思うほどフットワークが軽い。
然し、その芳醇な音のワリにはソロが余り多くはない。
過去にVELTZレーベルから音源を2作出したキリで、後は有志によるライブ録音、録画である(この2作は傑作中の傑作だった)。

だが、氏の音はマイクロフォンで増幅される音ではなく、その空間に音を紙飛行機のように柔らかく飛ばし続ける音である。

是非、氏のライブに足を運んでほしい。

50年前に作られたラジオとは思えない芳醇な音、そして柔らかく憑依した氏の姿は常に感動と共にある。

氏がチューニングしているのはラジオだけではなく、会場で場を共にしている人々の心かもしれない。



2019年6月29日土曜日

全身音楽家:米本実

物の怪、妖怪と言うモノが私達の生活から消え。
そして、00年代にアヴァンギャルドを志した人達の多くは討ち死にし。

クリアで、耳に心地よい、アイドルや往年のPOPS、BGMのような音楽がメインストリームに対しての『サブカルチャー』となった。


それは此方側の敗北なのであろうか。


敗北、勝利。それが何だ。此方は音の彼方を目指すだけであり、そうではない『あちら側』『こちら側』は何時だって存在しており、それが嘗ての同朋が『あちら側』になっただけである。


暫く「素晴らし音楽家」「素晴らしい盤」をメジャー、マイナー問わず連載してみようと思う。
月1か、週1か分からないが(長文を書くのは疲れる)。



2016年に書いた『米本実』氏について再度、書いてみたい。
http://kodona.blogspot.com/2016/08/blog-post_14.html

この『米本実論』を書いた際に、本人から追加文章の申請があったのだが、何故か今になった。



米本実氏は不思議な人である。



氏を知ったのは、私が米本実氏に出会う前だった。自分だけの音、と言うモノを作るために『自作楽器』と言うモノを考えた。
その際にシンセサイザーも検討していた。
買うと高いが、作れば安上がりじゃないのか?と言うモノだった。

其処に米本実氏が既にホームページで自作シンセサイザーを紹介していた。それを見て

「敵わない」

と思った。


実際に会ってみると、非常にフランクな人だった。だが、もう少し踏み込むと、その並外れた音楽知識、音楽理論、演奏能力に驚く。

自作モジュラーシンセサイザーを、米本実氏はまるでエキゾチック、またはメタPOPSのように演奏する。

然し、米本実氏はエキゾチカでも、POPSの人でもない。紛れもなく『現代音楽家』である。

そして、米本実氏が制作した『system Y』と言うモジュラーシンセは『現代美術作品』であり、
『サウンド・アート』でもある。



然し、『system Y』は余りにも巨大過ぎて自宅から持ち出すのに難儀するらしい。では、自作シンセサイザーだけの人なのか?と言えば違う。

米本実氏は先に書いたようにシンセサイザーだけではなく『楽器』と名が付くモノであれば全て演奏できる。

マーカス・ミラーやプリンス、スティーヴィー・ワンダーのような人でもある。


その米本実氏の素晴らしい作品が・・・恐らく5分程度で作ったと思われる・・・『彼女の家』である。
1998年に製作されたモノらしい。

YAMAHAの『PSS-110』と言う、シンセサイザーと言うよりもガジェットのようなキーボードである。

『ゴミ』として捨てられていた、と言うキーボードで、スティーヴ・ライヒも裸足で逃げ出す音を作っている。


しかも、1998年である!!!



現代音楽の音源など、非常に手に入りにくい時期だった。然し、米本実氏は野生の勘なのか、ハードコアなミニマル・サウンドをイトも簡単に作ってしまう。




facebookで米本実氏が発表した時は、主に「可愛い」「面白い」「私もPSS-110を持ってました!」と言う感想ばかりで、曲自体に何かを感じた人は少なかったようである。


なんと言う事だろうか・・・。


だが、SNSに作品を発表する、と言うのはEDMやアイドル、1分程度のラップ以外は、そんなモノである。
インスタグラムが流行っているのも、ツイッターの140文字すら読めない人が増えてきた、と言う事ではないだろうか。

インスタントな刺激。

これは米本実氏のような『現代音楽家』『現代美術家』にとって不幸な時代と言わざるを得ない。


否。


米本実氏のみならず『音楽家』にとっては苦しい時代なのかも知れない。1分、1分半と言った時間で『音楽』と言う時間芸術では届けたいサウンドの0.00000000001パーセントも伝わらない。

だから、ライブを行うしか無いのだが、嘗ては頻繁に演奏をしていた米本実氏は最近は鳴りを潜めている。

理由は分からない。

ただ、何となく分かるのは


「米本実氏と言う人物が何者か分からない」

「米本実氏の音楽は耳障りが良いワケではない」


と言う事が、令和時代のオーガナイザーには警戒されるのかも知れない。耳障りと言うが、PUNKやPOPS、HIPHOP、フォークやEDM、テクノのように

『一般的に認知された音楽』

ではないからである。


米本実氏はEDMだろうと、PUNK的な音だろうと何でも作れる。だが、そうしない。


それは『鬼才』『異才』として産まれた人物の宿命なのだろうか。


米本実氏の『PUNK解釈』は、実はある。正直、既存のPUNKよりも米本実氏の音の方がNYのHC、サイケデリック系よりも遥かに切実であり、肉体的である。

それが

『マン-マシン・インターフェースに関する考察Vol.1』

である。


僭越ながら、私が企画している『鳥の会議』と言うイベントに出演して頂いた。


池田 拓実氏(現代音楽家であり電子音楽家の大御所)に米本実氏との共演を打診すると、池田 拓実氏が

「米本実氏の『マン-マシン・インターフェースに関する考察Vol.1』とならばOK。何よりも私が見たい。物凄く影響を受けた作品だから」

と言う事で、実は私も良く分からない状態で、本番となった。



(鳥の会議#7~riunione dell'uccello~/ 米本実/マン-マシン・インターフェースに関する考察Vol.1)




大きな紙に『0』『1』と言う数字が書かれている。二進法の記載である。それが1m☓1mの紙に何枚もある。

「シンセサイザーは鍵盤を押すと実は二進法で音をCPUで処理して音を出しているに過ぎない。ならば、逆に二進法を人力で入力するのは、どうか?」

と言うコンセプトだったと思う(詳細を記載したサイトがあったのだが、何故か消えている)。

要するに「人間がシンセサイザーのCPUとなる」と言うモノであり、マン・マシーンと言う名前の通りクラフトワークからのオマージュだったと思うのだが、どう考えてもクラフトワークを超えている。


まるで冗談のような有様だが、米本実氏は真剣そのものだった。居合の達人のような、何かを破壊しかねない凶暴さでパッチングしていく。

観ていた人からは「物凄く野性的だった」と言う言葉があった。シンセサイザーと言うデジタル楽器を使いながら、こうも凶暴、野性的になれるものなのか、と思った。

嘗てデトロイト・テクノのミュージシャンが曲作りの際に全裸で作った、と言う話があり「なんて野性的なんだろう」と思ったが、米本実氏に比べれば可愛いモノである。

当日、PAを担当した私ですら、薄っすらと恐怖を感じた程である。



米本実氏と言うのは、そう言う人物である。



演奏中は居合の達人の前に座るような、フリージャズやオルタナティブを超えた処に居る。


「テクノポップの人?」
「シンセサイザーの人?」


ではない(『楽しい電子楽器/自作のススメ』と言う本の著作者でもあるので、あながち間違いではないが)。


『全身音楽家』と言うしかない。