2013年5月5日日曜日

2013野戦の月



昨日、『劇団野戦の月』を観にいった。




新木場なんて初めて行った。意外と近くて驚いた。だが、駅にはディズニーランド帰りの客ばかりだった。


で、新作の『蛻でんでこ』である。2年半ぶりらしい。

思えば私が毎回、観にいっているのは『OM-2』と『野戦の月』だけである。何故かそうなっている。両劇団とも作風もスタイルも全く違うが。


『毎回』と言っても場所が不便すぎたりしたり、仕事の都合で何度か見逃しているが最近は結構、見ている。

この劇団との関わりは17年前に遡る。



当時、福岡で『劇衆南組』と言うド・アングラ劇団に居た。その前はDJなんだから凄まじい乖離でえある。
当時、行きつけのクラブと言うか飲み屋のマスターが同劇団を気に入っていて「手伝わないか?きっと素敵な体験が出来る」と言うので行ってみた。


東京の劇団が来る!って感じで田舎者はちょっとドキドキ。何しろ私は当時、19歳なのだ。

で、テントとセット設営。

「え?これで全国巡業するのか?ちょっと手間がかかりすぎじゃね?」

と驚いた覚えが。で、私の姉に確か(記憶は曖昧だが)同劇団の看板役者が勝手に片思いと言うか恋をして、だが姉には既に彼氏がいて、

「失恋だぁ~」

と泣いていたらしい。因みに其の時、私は仕込みを手伝った。



17年も前の話なのに昨日のように思い出す。



舞台は上演時間は確か3時間を遥かにオーバーしていた。上演が終わったのが11時とかだった。九州と言う言う土地柄か、劇場はヒートアップどころじゃなくて、熱狂と混沌だった。


終わってからテントの中で酒を呑む。で、「うちに来ないか?」みたいな感じで誘われたのだけども(確か相手は当時、桜井大蔵氏の妻だった人)断った。理由は簡単で

「こんな怖い人達と行動をともにするなんて!」

だった。当時はホンッと怖そうな人ばかりが揃っていた。桜井大造氏を筆頭に怖かった。

『客演』

と言いながらも毎回、出演していた『え~りじゅん』氏なんて怖くて私は、目をあわせられなかったほど。


テント内は薄汚くて、でもガチなインテリと、客との不思議なサロンだった。今、思い出したが私はテントで知り合った男性と「これからのクラブ・ミュージックについて」と言うテーマで話していた。

何だかそう言うムードがあったのである。「フリーダム!」ってか。妙に居心地が良かった。
後に入団する唐組にはない雰囲気だった。











さて、舞台の話に。




(開演前のテント)



(シカラムータ)



(開演前)


(開演直前)




結論から言えば非常に『惜しい』ポイントばかりだった。『傑作』か?と言えばそうではない。寧ろ逆である。
非常に『惜しい』舞台だった

例えば前々回の舞台は若年層の貧困、ネカフェ難民などに焦点を当てていて、其れが素晴らしかった。

前回は『震災後』と言うテーマだった。アングラ演劇の特権だと思うが『震災後』をアレほど美しい言葉で表せたのは『劇団野戦の月』だけだろう。
尚且つ、そう言う時事ネタを素早くヤルって言うか。それが彼等の魅力なんだろう。
毎回、心臓を抉られるような素晴らしい台詞と舞台である。


で、今回のテーマは二つあった。

①TPP
②親子関係

「TPPが騒がれているからってTPPを露骨に持ってくるのは如何なものか?」

と思った。前回、前々回と小劇場が持つ『ニュース性』と言うか、其処は物凄く早かったし、其れを言語化する技量に舌を巻いたのだが、今回の『TPP』と言う問題を持ち込む際に一寸、其処が余り『詰め』られてない、と言う気がした。

後半に、その遺伝子改良植物に対抗する為の『種』を持って行くのだが、

「種を撒こう!」

じゃなくて

「この種で戦おう!」

になっていた。「戦おう!」ではアジテーションになってしまわないか?と思った。『現状』を抉り出し、其れを見事に昇華させるのが同劇団の得意技と言うか、持ち味だと思うのだが

「戦おう!」

では昇華も炙り出しも出来てない、って気がする。特に『TPP』と言う問題を戯曲の中では第一次産業に絞っている。それでは判り難い。
誰も第一次産業(農業)については判らないんだもの。


それと『父と子』と言うのが出た。桜井氏の戯曲では珍しいテーマだったと思う。

『蠅の王』と言う人物が、実は主人公である『虻』と言う人物の父親であり、対決・・・または対峙、そして彼は今後は『蠅の王』と父の座に付かされる。

「ちくしょう!何もか俺に押し付けやがって!」

と主人公は言うのだが、個人的な好みで申し訳ないが、その『父と子』と言う構図がある以上、『子』は何処かで変化しなくてはならなかった、と思う。

其れこそ古典的な構図なんだが『野戦の月』の戯曲は基本的には実際には可也、古典的・伝統的な演劇スタイルである。

だが、同時に『変化』と言うモノこそが演劇の本質なんではないか?と思う。


『人物の内面が変わる』
『人物自身が変わってしまう』←シェークスピアや歌舞伎の得意技

『人物は変わらないが環境が変わってしまう』←チェーホフとか。

『何もかも変わらなくてはならないが遭えて変わらない』←ベケットとか。

『既に何もかも変わってしまっている環境の中で何も変わらない人々』←ベケット

『逢えて何も変わらない』


など。例えば歌舞伎なんかが判りやすいがAと言う人物が何かの拍子で怒りのメイクに変わる。シェークスピアも嫉妬だとか魔法等で変化してしまう人の哀愁喜劇。
家を売られる、って時に暢気に舞踏会なんぞをヤル貴族階級。
延々と会話して「よっし!俺たちだって!」と叫び変化しようとして結果的にスタート地点に戻る。


其れが数時間の『舞台』と言う中で行われるからこそ、其処に『人間』『演劇』の面白さがあるわけで、それが『理由もなく単に変化なし』では、技量不足をなじられても仕方が無い。または演出不足と言うか。

舞台を見ていて「遭えて変化せず」と言う必然性はなかったと思う。不条理演劇ではないし。

主人公が台詞を言い終えて、嘗て父親から受け取った拳銃を捨てる、または放銃するだけでも、其れは出来た、と思う。

これは私の好みだから読み飛ばしても言いと思うんだけども、其れが『出来る』環境下にありながら、其れを理由もなく『やらなかった』と言うのは非常に疑問に思う。だって、桜井氏にも渡辺薫氏にも出来たはずなんだもの。



毎回、火や水、車、バイク、その他、様々なモノを劇場に持ち込むが、一貫しているのは伝統的演劇スタイルである。

能とか歌舞伎に近い。

1)モノローグの応酬はない
2)舞台上に3人~4人以上が登場する事はない(ラストは除く)
3)一人がモノローグをしている最中は他の役者は背景と化す。
4)原則的に『台詞』で成り立つ演劇

派手な舞台を作るが、基本的にはこんな感じ。


今回の新作の戯曲に関しては脚本が余り練られていない・・・と言うか此方に届かない。

だからこそ演出が光るべきだったのだが、其処がなかった。逆に言えば桜井氏の戯曲の『骨格』と言うか『コア』が剥き出しになった状態だった。

其れはそれで、とても(野戦の月としては)珍しい事なんだけども、それによって役者の『粒の小ささ』が目立ってしまう。


初期の頃であれば、其れこそ滅茶苦茶な役者達が、無茶苦茶に突っ走ったり、飛び跳ねたりして何とかなっただろうが、今の野戦の月の役者達(桜井氏、ばらちづこ以外)はまだ、其処まで育っているワケではないし、育ったとしても根岸さんみたいな風にはならないと思う。

多分、世代的に今の役者達と私は近いと思うから尚更、そう思う。

唐組に居た頃に痛感したもんなぁ。「大久保鷹」と言う大古参が唐組にいたのだが「絶対に真似出来ない」とか。


あと、ラスト。


焚き火を燃やしながら森美音子が去るのだが、その去り方が余りにも「演劇的ではない」と言うか「普通」に歩いていた。ちょっと、それはないんじゃないか?と。
役者も音楽家も人前に出ている時間は全て『演技』である。『歩く』も演技。最後に力尽きたのか、それにしても『終わりよければ全て良し』が、『終わりは余り良くない』じゃ寂しすぎる。




とは言え。




人は勝手に育つ。『渡辺薫』氏も『ロビン』も『森美音子』も最初に観た時は「こりゃ酷い」と思った。
『森美音子』さんなんて、最初に観たときは舞台の天井で叫んでいたのだが、その際に衣装は古臭い(時代背景を表すような)衣装なのに、思いっきり見えていたパンツが結構、色っぽかったりして「どうもねぇ・・・」と思った。

最初って言うか99年頃に大量離脱があって、その後だから高井戸陸橋横の広場だった。『段恵民』と言う人なんて、『野戦』には珍しく「この人、芝居を齧っていたな」と言うか、異色の人だったけどもカラーが違っていた。

「とほほ!」

と思ったのだが(舞台は素晴らしかったけども)、其れは単に戯曲の力に支えられたモノだった。でも、今回、観て「おお!」と思ったのは、彼等が凄く伸び捲くっている。

「もう直ぐ野戦の月になる」

と言う期待感がある。一人で舞台を制する事が出来る感じもする。皆、素敵だ。



だから桜井氏が現状は『汚れ役』と言うか無茶な役をやるのだが、若手に一発やらせても良いのではないか?と思うのだが・・・その辺は『作・演出』でありながら同時に『役者』と言う欲なのかもしれない。

でも、若手(と言っても何年も経つが)の伸びが如実に感じられる。きっと次回の公演では素晴らしい役者達になっているだろう。


『ばらちずこ』は毎回、圧巻。

あの人がいなきゃ、話が始まらない、って気がする。



あと、個人的に『つくしのりこ』が出演していないのが寂しかった。毎回、台詞は定規の如く『棒読み』。能面のような表情。
でも、あの人が出ると、芝居にアクセントが付く。「お!出た出た!」って思っているんだけども、今回は一寸、フラットな舞台だったから逆に彼女の出演を熱望したほどである。

あと『武内理恵』が凄く良かった。ってか純粋に『好み』なんだけども舞台上では少年役だったし、確かに少年っぽかったから「新しい男性役者かな」と思っていたのだが、其れにしては美少年。
美少年大好きな私は萌え萌えだった。
思えばNYのABC no rioでライブした時もアフターアワーセッションの時に二十代のギタリストが、とってもcuteで「可愛いー!」と思って写真、取り捲った程だったしなぁ。多分、この辺の私の『好み』は少女漫画の影響だと思うけど、良かった。
まさか女性とは思わなかった。



辛辣に書いているようだが、基本的には彼等・彼女達の大ファンなのである。期待を裏切らないでよ・・・とオッちゃんは思ってしまうのですよ。



テントを出て『ばらちづこ』さんと少し話していたら吉野茂さんがいた。と言うか野戦の月を観にいくと『必ず』と会う。申し合わせたかのように会う。
で、吉野さんは何時も女連れなんだが、今回は珍しく一人。

「たまには」って事でテントの中で一杯だけ酒を頂く。思えば『劇団野戦の月』のテント内でアルコールを嗜むのは17年ぶりなんである。

17年前に観た同劇団の風景と、今は全く違う。

リュウセイオー龍君がいたので「龍君~!。今は幾つなの?」と聴いたら「28歳です」と言う。

私が会った頃は小学校低学年とかだったのに。

「とほほ。道理で俺が歳をとるはずだ」

と言ったら苦笑いしていた。




(終演後)


(終演後)


(終演後の舞台上から見た客席)



(打ち上げ中)






帰りに友人と「常に満塁ホームランの劇団なんて皆無である事は判っているんだけども、やっぱり一寸、寂しい」「『野戦の月』を観た!って感じが全然、しない」「前回がホンッと大傑作と言うか奇跡のような舞台だったけに・・・」と話しながら帰宅。

新木場駅はディズニーランドと近いらしく、GWって事もあり高校生~大学生カップルや子供が多い。

で、地下鉄の中で吉野家の牛丼をテクアウトして食っている学生風のカップルがいる。彼氏の顔付きや服装、彼女の靴やスカートを見ても「裕福」ではない事は一目瞭然。

「学生だし、貧乏だから、こう言う部分で経費削減しないと駄目なんだろうなぁ。しかし地下鉄車内で『牛丼』はねぇだろ」

と思った。削減した経費でコンドームを買ったりするんだろうか。二人がディズニーランドのホテルに泊まれる日は来るのだろうか。余程のディズニー中毒者でも『ディズニーランドのホテル』に泊まるのは躊躇するらしい。経済的な面で。


資本主義の夢だわな。










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