2013年11月25日月曜日

フリージャズ

フリージャズを志していた時期があった。





「何年前の事だっけ?」と思ったのだが911前後だったので2000~20003年頃である。当時は本気でフリージャズを志していた。

『フリージャズ』

と言うフォーマットであれば自分が見ている森羅万象、異性、人、感情、その全てが表現出来ると思っていた。

当時、20代前半。

思えば当時は洋服を買うときにメンズだとブカブカになるのでレディースしか着れない程、私は細かったし華奢だったし、外見通り内面も華奢だった。



で、


ニュージャズ・シンジケート』と言うジャム・セッションに通っていた。恐らく当時、都内最大音量を誇るジャムで、年齢層は高かったがキャリアのある人が多かった。

怖かったけども必死で通っていた。


当時はまだTPも下手糞で(今も下手だが)、20分も吹けば唇はバテバテ。30分を過ぎるとGから上が出なくて、1時間となると音が出なくなっていた。
コードなんて判らなかったし、リリックやフレーズの貯蓄も皆無。テクニックも皆無。

全くのズブの素人だった。

それでも必死で周囲にあわせて45kgの身体で吹いていると吐気がしてくる。ステージを走って降りて、トイレでゲロを吐いて、水で口を濯いで、そのままステージに上がって、また吹きまくる。

翌日は全身が筋肉痛のようにボロボロになっていた。


そのNJSを主催していたのが『庄田次郎と言う男で、ボディビルで静岡県チャンピオンになってしまったような人物。で、同じくトランペット。

http://www.ne.jp/asahi/miz/njs/profile.htm

今、思えば庄田次郎氏のTPは下手糞と言うか、力任せに吹くだけのアナクロなトランペットなんだが、その『肉体派トランペット』と言うか大音量で、強力なスタミナに驚愕した。


氏と3回り以上、年下の私では到底、敵わない人物だった。伝説の『阿部薫』の兄弟弟子だった、と言うキャリアもあり凄く尊敬していたし、憧れでもあったし、同時に「いずれは倒さなくては」と思っていた。その日が何時になるのか検討も付かなかったが。
何しろ当時は基礎練習のやり方すら判らなかった位である。庄田氏にすれば私は、ガキで、熱意はあれども何もかもが追いついていないウスノロ。

そう言う事もあったのか可愛がって貰った覚えがある。庄田氏が贔屓にしていた糞みたいなバーに連れて行かれたり(店主が若干、狂っていた)。

当時の庄田氏はウィスキーをロックでバカスカと呑みながら狼の如く吹き捲くっていた。バラードのような演奏もしていた。
桁外れの酒豪で、其処にも「すげー!」とか思っていた。


当時、NJSに通っていた『若手』としては

①岡庭さん
②コヒヤマさん
③私
シークレットカラーズの面子

だった。私を含め『若手』(と言っても皆、30手前だったのだが)の共通項目は

「如何にして庄田次郎を倒すか」
「どうすれば庄田次郎以降を作れるか」

だったと思う。口には出さなくても、そう言う気持ちだった。だからタンテの奴が居たり、岡庭氏は大音量ギターを弾いたり、エフェクティブな演奏をしたり、私は溺れる子猫の如く必死に吹いたり。


多分、丁度、分岐点だったんだと思う。


思えば世界共通時期なのだが『音響系』と言う演奏スタイルがシカゴ~日本~ユーロ圏で登場し始めた頃だった。で、其れまでとは全く違う演奏スタイルと、70年代の肉体派の演奏スタイルがぶつかり捲くっていた。

何しろ演奏する場所がないのでフリージャズのセッションに行くしかなく、其処でエレクトリックと肉体派が、心理的にも具体的にも衝突していた。

その最前線に居たのは岡庭氏でもあり、コヒヤマ氏でもあり、私(NJSに行かなくなってからだが)でもあり、シークレット・カラーズの面々でもあり、同時に庄田次郎だった。


今、思い出したのだが入谷の『なってるハウス』のJAMに行った時にオクターバーとディレイを持ち込んだら露骨に嫌な顔をされた。で、「使わないでくれ」と言われた。
あと、年長者だったフリージャズの人とセッションしてディレイで音を加工したら死ぬほど嫌がられた。

「ジャズは電気を使っちゃ駄目」

と言う不文律のようなものが確かにあり、要するに50年代と同じようなセッティングでやらなくてはならなない、と言うような感じだった。



信じられないような話かもしれないが、本当にそうだったんである。



そう言った雰囲気と不文律の象徴が『庄田次郎』だった。だからこそ倒すべき存在だった。


--------------------------------------------------------

ミュージシャンは10代の男の子みたいなもんで、好きな相手と一晩、ヤレるとなると雑種の犬の如く尻尾を振りながら、何処にでも行く。

照内央晴』氏

とは、10年以上前に知り合い、その頃に一度だけセッションしているのだがセッションの内容は確か精神障害者が経営するライブハウスのJAMで、しかも『寅さん』のテーマソングをファンク風にアレンジして、と言う思えば黒歴史である。

とは言え照内央晴氏。多分、都内TOP3のピアニスト。

こんな美女とやりたがらない男は男とは言えない。音の中に居る奴なら必ず勃起するピアノを弾く男である。



場所は『神奈川県金沢文庫』と言う辺境にある『ブルームーン』と言うジャズバー。


電車に乗って目的地に向かうが何時まで経っても到着しない。

「永久と言う名の列車・・・」

と中二病っぽい事が頭を過ぎる。持参したエフェクター(ループマシン、マルチ)が重たくて疲れる。

改札で照内さんと合流し、ドトールで世間話。


其の後、『ブルームーン』へ。


行くと店には庄田さんが居て「お!来たか!」と昔と同じく大声でベラベラと喋り捲る。何と言うかニュアンスとして唐組の唐十郎を彷彿させる感じである。体型も似ているし、

「この人、多分、一人のときは暗い表情しているんだろうなぁ」

と思わせる部分も似ている。力任せで、肉体派って処も同じ。


幸い唐さんはギターが少し弾けるだけで、JAZZやROCKは大嫌いな人だからジャズバーに来る事は100%ないが(若い頃は頑張って行っていたらしいが、嫌だったんだとか)。
(因みに唐十郎がギターを習い始めた理由ってのが「芝居じゃ食えないし、流しのギターで食うしかないかなぁ」と思ってドイツ人のギター講師について習っていた。動機がそんな消極的なモノなので、あまり上達しない。ある日、そのドイツ人講師に「大鶴君!月光を弾いてみなさい」と言われて弾いたら、講師から「大鶴君(唐さん)!君には才能がない!出て行け!」と怒鳴られて泣きながらギターを止めたんだとか。だが、当時の状況劇場の劇中音楽は機材がなかったので唐さんや、当時の劇団員がギターを弾いたり、弾き語りだったりしたので良かったのかもしれない)


WEBでは綺麗な感じのジャズバーだが行ってみると薄汚かった。店のママさんも来てないので、ビールを買って呑む。

で、ママさんが来たので照内さん、私、矢野さん(バイオリン)のトリオでやる事に。演奏する前に一寸、ハイな庄田さんが

「まずはオマエ達がやれ。な!で、俺が後で徹底的に壊すから、な!完成したものを壊すのが俺の役目だから、な!」

と言う。

「っけ!。そうは行きませんよ。そうそう、ヤワじゃありませんよ。此方も伊達でやってるワケじゃないですからね。上等ですよ」

と言い返すと

「な!テメー、言いやがったな!おい!●●!聴いたな!こいつ、言いやがったぞ!よーっし。じゃあ、見せてみろ!」

と言う。庄田さん、こう言うのは嫌いじゃない。



で、行き成りハムノイズからスタート。


実を言えば結構なプレッシャーだった。庄田さんもあるが照内さんの存在もデカい。この二人に負けない演奏、となると此方も芸の総動員。

ノイズからスタンダードプレイまで。

ハウリングならお手の物。だが、途中でエフェクターが不調。帰宅後に調べてみたらケーブルが断線していたのだが。で、マイクがもう一本あったのでブレス音と、色々。



で、次のセットが庄田さんと、ドラムのディオ。


トランペット同士だと判る雰囲気ってのはあって、庄田さんが明らかに此方のTPを意識しているのがわかった。

3セット目は庄田さん、ドラム、バイオリン、照内さん、KO.DO.NA。



借りた芸の恩は芸で返さなくてはならない。伊達や酔狂で15年も吹いているワケではない。庄田さんが出来る事を此方も出来る上で、庄田さんが出来ない事を見事にやらなきゃ駄目。
で、照内さんの音にも対応しつつ・・・。


ビールを便ごとラッパ呑みしながら、犬の如く二人で叫びながら演奏。庄田氏が上半身脱ぐので(ボディビルをやっていた為か脱ぎたがる)、此方も上半身だけ脱ぐ。


完全にバトル状態。


で、終わり。


店のママさんから「マイクをハウリングさせないで」と言われたが、ケーブルでハウリングさせている事を説明。

「機材は大丈夫だけどお客さんの耳が壊れちゃう」

「この位で壊れるほど耳は脆くない。壊れても3日程度治る」

と呟く。



終わって照内さんに「今日は此方の完全勝利ですな」と伝える。感触として「圧勝」と思った。音楽は勝負事じゃないけども、どこか『勝ち/負け』はある。私自身、10年間、負けっ放しだったから。

勝利は嬉しい。


終わってから庄田さんに

「今日は有難う御座いました」

「おう」

「昔、NJSで僕を含めて『どうやって庄田さんを倒すか』って言うテーマがあったんですよ」

「あ~。それは当時、凄く感じてたよ」

「昔、シゴかれたし、だから今日は失礼だとしても全身全霊で挑ませて頂きました」

「嬉しいね。オマエの演奏は面白かった。絶賛はしないが面白かった」

と言う。


まぁ、ちょっとは借りを返せたかな、と思った。照内さんとも濃厚な時間を過ごせたし、本当に良い夜だった。



15年越しのリベンジ



店のママさんが「またライブしてねー」と抱きついてきた。

「もう、ズーっと抱きしめちゃいたい!」

「お望みなら私は朝まで抱きますよ」

と頬にキスして帰宅。



音響派はCOOOOOOO+++++Lじゃなきゃね。

照内さんとノンビリと帰宅。思えばユックリと話すのは初めて。だけど、1000回目の会話のように話せる。不思議だ。多分、照内さんの前世は中国の傭兵とかで、私も同じ部隊だったに違いない。



さて、最大の恩師である唐十郎に借りを返せる日は来るのだろうか・・・。


0 件のコメント: