会田誠が話題になっている。
http://news.livedoor.com/article/detail/16094218/
私は、この一件に関して多くを知らない。そもそも、その大学の授業を受けてないし、会田誠について多くを知っているワケでもない。
ただ、彼がデビューした頃は知っている。知っている、と言うよりは鮮烈なデビューだったと思う。
彼は立体ではく、絵画だが、そのモチーフやデッサン力は90年代の現代美術としては十二分にインパクトがあったし、描かれている少女が美しかった。それが悲惨な状態だとしても(あ、誤解を招きそうだな)。
ってか、実際の漫画で言えば『古屋兎丸』なんて「あ、この作家さんは気が狂っているんだな」と思った。
ガロで連載していたが、当時のガロは前衛漫画の最先端だったし、そこに古屋兎丸もいたし、そのインパクトに比べれば現代美術はまだ大人しい方だったと思う。
それはサテオキ。
この一件に関しては物凄いモノをクリエイターに叩きつけている。
『現代美術とは』
『美術とか』
『現代アートとは』
『現代音楽、現代美術とは』
と言うか。なんで、此処に『現代音楽』が来るんだよ?って感じだが、現代音楽は現代美術と殆ど同時並行で日本に登場している(現代美術は大正時代で、現代音楽は昭和と言う違いはあれども、50年代末からは同時並行だ)。
で、会田誠とは何者か?と言えば『現代美術の作家様です』となる。
次に『現代美術とは何か?』となる。少なくとも会田誠の作品はイラスト作品ではなく『現代美術』と言う範疇で行われており、今回の一件も『現代美術』について、である。
『ヌードを考える』
と言うモノで大学側が講義をしたワケだが、裸婦画は普遍的なテーマを持っており、それこそ時代によって随分と変化する。
だから裸婦画、ヌードと言うモノをセレクトしたのは当然である。
で、裸婦画(ヌード)は『西洋美術』の範囲である。これは間違いなく、『西洋文化』の一部である。
西洋、と言うよりは『ヨーロッパ文化』と言うか(だからアメリカ文化ではない)。
此れについては、あとで書きたいのだけども『ヨーロッパ文化』って処がポイントで、『現代美術』と言うモノは『ヨーロッパ文化』のモノである。
大雑把に言えば、ヨーロッパの掃き溜めであるアメリカ合衆国も入れても良いのかも知れないが。
『美術』と言うものが印象派を通過して『現代美術』となる過程において、ヨーロッパ文化って多民族の文化を只管、食い続ける事で(これは西洋音楽も同じだが)生き延びた。
その際に最後にヨーロッパの『美術』が喰えたモノが『浮世絵』だったワケで、浮世絵の2次元空間に衝撃を受けたし、春画のデフォルメされた陰部にも衝撃を受けている。
だが、浮世絵は現代美術ではない。現代美術が『ネタ』にしたモノである。
で、ですよ。
『現代美術とは何か?』
と言う事で言えば村上隆が定義したモノが最も適切だろう。
①東京芸術大学、または芸術大学を卒業した人
②修士課程で論文を書いた人
③出来れば博士号を持っている人
である。いや、これは村上隆が言っているんだから間違いない。これと似たモノは『現代音楽』にもあるしな。
「はぁ?こんモノは学歴じゃないか。美してく、心が満たされるモノが美術だろ!」
と言うのは簡単だが、そう言う意見は19世紀で終了している。『美術』が『美術』であった時代は3つの要因が必須で
①写真が発明されてない
②印刷技術が未発達
③貴族階級と言う身分制度
である。歴史書を紐解かなくても、3つとも消えている。写真はモノクロだったが、19世紀には既にカラー写真が登場しているので、オワコン。
だからこそ『印象派』ってのが出てくるし、其処でゴッホからピカソまでがのた打ち回るながら描いていたワケで。
其れを踏まえた上で。
会田誠の裸婦画は、そう言ったヨーロッパ的な裸婦画を、日本風にアレンジした、と言うだけである。四肢切断とかゴキブリとSEXとか、この辺は本人が深く考えたワケではなく
「これ、面白くない?」
と言う事で作っただけで、会田誠としては四肢切断だろうと何だろうと、女性を可愛らしく、ファニーに描く、と言う事が重要なんだと思う。
其処に何らかの『オマケ』が付いてくるが現代美術の歴史で言えば『四肢切断』とか、身体に傷を付ける、ってのは意外と古い。
会田誠よりも遥かに古くからある。
だから、会田誠が凄く新しかったワケではないんだよな。村上隆もそうなんだけども、現代美術と言うフィールドだから生きているワケで。
勿論、会田誠が『ヌード』と言うモノに対して無自覚って事じゃない。裸婦画をきちんと認識していると思う。だから、ああ言う作品が作れるワケだし。
其処で現代裸婦画では最も知名度がある会田誠を講師に迎える事は、当たり前の事だし、その『現代裸婦画』について、彼が「西洋美術としての裸婦画との距離感」を語るうえで、彼なりの話し方になってしまった、と言うのは仕方がないし、『会田誠がキモい』と言うのは問題外である。
「ヌード・デッサンでオナニーをした」
と言う発言が本当か否かは分からないが、ヌード・デッサンor裸婦画で欲情するのは当たり前だと思う。
篠山紀信だとかアラーキーとか、90年代のセルフ・ポートレイト・ヌードとかあったんだけども、西洋美術での裸婦画も、それをオーダーした貴族男性にとっては「高価なエロ本」だった事実もある(だから、居間とかに飾らずにカーテンで隠したり、自室にコッソリと飾る、と言うモノだった)。
性欲なきアートがあるのか?
と言う気もするし、グレン・グールドが「僕にとって音楽こそがエクスタシーなんだよ」と言う発言の通り、リビドーなきアートと言うのは成立するのか?と言うか。
リビドーと言ってしまうと「はい、勃起」って感じもするが、アートによるリビドーと身体的反応は違う。
ある作品(それが古典だろうと現代美術だろうと同じこと)を見て「素敵だな」「素晴らしいな」「感動するな」「カッコイイな」「美しいな」と思う感情は、その感情の氷山の一角でしかない。
もし、その作品に衝撃(美しい、とか素敵でも良いのだが)を受けたのであれば、それはパースペクティブな感情に変換されるはずで、そのパースペクティブな感情の中に「ムラムラするな」ってのもあるんだけども、其れをスライスして、言語変換した際に
「素敵」
「可愛い」
「感動する」
と言う事に置き換えられるワケである。
だって、恋に落ちた時に、その感情を言葉には出来ないと思う。
言葉に出来る感情であれば、それは恋ではないのだから。
「可愛い」から恋に落ちるのではない。
「恋に落ちた」から可愛いのである。
あー、しかし、俺は一体、何を書いているんだろう。最近、体力不足なのかも知れないし、ちょっと風邪気味だからなのかもしれないが長文を書く集中力が持続しない。
あ、そうだ。
会田誠や現代美術を擁護しているワケではない、って事を書きたいのである。
先に書いたように、そもそも『美術』は
①写真がない
②印刷技術が未発達
③貴族階級と言う格差社会
が大前提で、現代美術は
①東京芸術大学、または芸術大学を卒業した人
②修士課程で論文を書いた人
③出来れば博士号を持っている人
である。
だから、「美しい」とか「心が満たされる」モノ『ではない』。とうの欧米では違うと思うのだけども、少なくとも日本では学歴が大前提である。
美しい、とか心が満たされるモノは、PS4とか、スーパーマリオとか深夜アニメだったり、Nintendo Switchやドラゴンクエストや、鳥山明のイラストだと思う。
だって、Nintendo Switchにせよ、鳥山明のイラストにせよ、18世紀だったら油絵で途方もない銭と時間を掛けなきゃ出来なかったんだから。
あと、現代美術って上記のように『芸術大学を卒業している事』である。
だから、非常に『閉鎖的』なんだよな。現代美術の閉鎖性は、流石に私でもチョット、たじろぐ程である。
ある画廊の、ある種の人達によって共有されるものであって、其れが第三者が「これ、面白くないじゃん」と言うのは「あ、こいつは分かってない奴だな」と言う事で終わる。
ヲタ的な空間でもあるが、ヲタは意外と「いやいや、この作品はですね!」と説明してきてくれる事もあるので、ヲタよりもキツイ。
あと、会田誠はスキャンダラスな人でもあるし、村上隆もスキャンダラスだとは思う。あと、ちょっと古いけどカオス*ラウンジとか。
そうやってスキャンダル的に売るしかないんですか?と思ったりもするのだが、90年代に現代美術って何故か盛り上がったのだが、その頃も結構、スキャンダル的なモノを目指していたと思う。
当時、SNSがなかったから話題になりにくかっただけで。
高校生の頃。
『九州派』と言うか、北九州市で現代美術グループが結成された。ノイズ・ミュージックから美術や立体、音響芸術と幅広かった。
その彼等のグループ展が戸畑区で行われたので行ってみた。
確か少し寒い時期だったと思う。
閉店した古い銀行がイベント・スペースになっていて、其処に向かう際に右手に海、そして周囲は真っ暗だった。
「辺鄙な場所でやるんだなぁ」
と思った。
で、行ってみてスペースの中央に置かれた2☓2くらいのガラス・ケースがあって「なんだろう?」と思って近づいたら、心臓が止まるかと思った。
ガラス・ケースには夥しい数の『ゴキブリ』が入っていた。
私は虫が苦手で、足が震えた。
「あー、それ、大丈夫ですよー。アースが入っているから、蓋をとっても逃げ出せないんですよ~」
と、その際に在籍していた人に言われたが
「この人達は気が狂っている!」
と思った。ホンっとビックリして、紅茶を出されたのだが(来客は私だけだった)紅茶を飲めなかったモンなぁ。
あの頃、SNSがあればツイッターやFBで多少の話題にはなったかもしれない。其れが良い話題か、悪い話題かは分からないが。
でも、現代美術の作家達は、何処かスキャンダル的なモノを作ろうとしていたし、現代美術に興味、またはソソられていた人達も、そう言った過激な作品を求めていた気がする。
SNSがないからこそ、そのスキャンダル性は牧歌的だった気もする。
だから、なんだろう。
現代美術って00年代で終わったのかも知れない。
あと、現代音楽も、この件に関しては考えなくてはならない、と思う。現代美術の会田誠、及び大学が、こう言った提訴を受けたのは、ぶっちゃけて言えば
『現代美術の人達がサボっていたから』
である。作家、客、偉い人達(大学の先生とか)が理論武装をしなかったし、「へ?これが現代美術でやんすか?」と言う問いを無視し続け、「いや、分かってない奴だよねー」で終わらせていたからである。
その作品に精神的な傷を受けた、と言う事はちょっと理解し難いのだが(個人的に会田誠の作品よりも現実世界の方が遥かにグロくてキモい)、
「現代美術には様々な表現方法があり、中には見るに耐えないグロい作品も多い」
「だが、グロいorキモい、と言うモノを『美しくないから駄目』と吐き捨てる事はOK?NG?」
「ISISの処刑動画はグロい。だが、ウィーン・アクション派や動画もグロい。両者には『死者の有無』があるが、其れ以外では何か?」
「その作品に接した際に『誰も傷つかない作品』は『作品』と呼べるのか?。観光地のポストカードやエレベーターのBGMと、ゴッホの晩年の作品の違いは何か?」
と言う事を問うても良かったし、其れは作家や関係者達で問われ続けるべきだったし、それを言語化すべきだった。
それをサボってきたのは、会田誠でもあるし、現代美術界隈、全ての人々だし、断罪されても良いのかも知れない。
そう言えば、会田誠が森美術館で個展をやった際に抗議があって、問題になった時に、知人が
「あんなモノは現代美術じゃない!」
「政治的問題を提議するのが現代美術だ!」
「ホニャララと言うEU圏の作家の、ホニャララと言う作品は、ホニャララと言う理由で政治的でもあり、宗教的でもある。これこそが現代美術だ!」
と豪語していた。だが、彼はフリージャズを通過して『音響系』とか小さな音で弦楽器を演奏する人だったが、自分の音楽に関しては「これぞホニャララだ!」とは言わなかった。
その際に違和感を感じたのは「『これが現代美術だ』『~は現代美術ではない』と言う権利は誰にあるのか?」だった。
ただ、現代美術が『大学』『学歴』と言ったモノに支えられている以上、「現代美術はカクカクシカジカなのです!」とは誰も言えないよな。
誰も言えないモノに対して4万円を払った提訴した女性は、弁護士がついて成功報酬で行けば10万は超えるから大学から1千万円くらい、掴み取ってくれば良いと思う。
そうすればエポックメイキングになるかもしれない。または会田誠の知名度をUPさせるだけかもしれない。
ちょっとした試金石になるのかもね・・・と思ったり。
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