2017年3月5日日曜日

舞踏評論家と舞踏家とカメラマン。それと俺。

初めて『舞踏(Butoh)』を観たのは16歳か17歳だった。




その頃、大阪に進学した姉がヒッピー界隈やアンダーグラウンド界隈に出入りしており、其れもあって大阪の人達と共同で北九州市小倉北区で3日間かけてイベントをやった。

で、その際に山海塾だか白虎社だったか、その系列の女性舞踏家が踊った。白塗りで全裸。

16歳の私には物凄いインパクトだった。

「これがアートと言うものか!」

と思った。音楽はなくて、即興詩人みたいな人が朗読をしていた。

何もかもが『私の知らない世界』で、そのインパクトは「俺もこう言う事がやりたい!」と思わせるのに十分だった。

16年間、『変人』『馬鹿』『狂人』『生意気』と言われ続けて自分の将来は惨憺たるものだろうな、と思っていた。
だが、その一夜で

「こう言う人が、こう言う事が許されるならば、俺でも何とかなるのかも・・・」と思った。

16~17歳の田舎少年の人生観を覆す程のインパクトだった。

其れが後に演劇青年になったり、超短期間とは言え舞踏グループに加入したりする事になるのかも知れない。
そんな活動が、今の活動と直結していると言う気もする。

90年代、暗黒舞踏と言うのは其の出来、不出来に限らず『その行為そのもの』が最前線だったと思う。

私は1977年産まれだから土方巽なんて死んでるし、九州の片田舎に『舞踏』だとか『小劇場』とかは来なかった。来なかった、と言うモノは『この世にない』モノと等しい。

もし、あの時に、あの一夜がなければ九州の片田舎でどんな生活をしていたんだろう、と思う。

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今も舞踏界隈と付き合はあるが、いつも気になっている事がある。気になっている、と言うより
「それ、どーなのよ?」
って言う。
多分、俺は舞踏って言う表現手段は好きなんだよな。だが、上京して数年ほどして舞踏公演に行くことが減った。
ってか、舞踏ってなんやねん?と言うか。
いや、舞踏は舞踏で良いと思うんだよな。あの手段は矢張り凄いモノがあるわけで。
1977年産まれの私とすれば高柳昌行や阿部薫もラリーズも観てないワケで、その『ジェネレーション・ギャップ』を埋めてくれたのが舞踏家たちだったワケでさ。



「それって、どーなのよ?」
と思うのが

『自称:舞踏評論家と舞踏家の関係』

である。『舞踏を評論する』と言う事で生活している人はいないが『舞踏評論家』は矢鱈と多い。下手すると客席の半分が『自称:評論家』だったりする。


俺はスタッフだったりする事が年に数回あるが客であることも多いわけですよ。で、舞踏評論家ってなぁ無料で来場するんだよな。

その公演を何かのメディアで紹介しているとは思えない。
ダンスワーク』と言う殆ど戦中の同人誌のような雑誌に記載される事もあるが、私は『ダンスワーク』を書店で見たことがないし、基本的に通信販売がメインである。
誰が読むんだよ?誰が?!。


SNSで舞踏評論家がアレコレと書くことも増えたと思うけども、例えば2004年に登場して凄まじい勢いで成長したmixiで舞踏評論家がレビューを書いていた、と言う事もない。
ブログをやっていた人も少数ながら居たけども『皆無ではない』程度のモノで。



多分、大半の舞踏評論家は「無料だから観ました」と言う処で終わるんだよな。何か書くとか、その舞踏評論家が「素晴らしい!」と思った舞踏家を次のステージへ連れて行く、って事もない。

『志賀信夫』と言う舞踏評論家が六本木の『ストライプハウスギャラリー』でイベントをやったりもしているが、『ストライプハウスギャラリー』に出演することが、その出演者にとって良しと言うモノでもないし、少なくとも志賀信夫のイベントは「これは行きたいな」と思わせる要素が皆無である。むしろ『行きたくないな』と言うモノばかりだ。

志賀のオッサンを無料でお呼びしている舞踏家はストライプハウスギャラリーにお呼び頂きたいのか?って気もするが、そんなワケでもないだろう。

だが、志賀のオッサンは無料。俺は有料。

無用の長物のようなオッサンは無料で、俺は有料。
だったら、公演費用は無料にしても良いんじゃね?って思う。無用の長物のような舞踏評論家を御招待するような公演に何故、此方が一日の生活費以上の金額を支払わなあかんねん?って言う。



以前、YOUTUBEが登場した頃に、とある女性舞踏家が自分のステージ動画をUPした。
其の際にタイトルを『暗黒舞踏』にしたらコメント欄が荒れに荒れて、中には「法的に訴えます」と言うコメントもあったらしい。
中野plan-Bで舞踏公演をやろうとして

「あの、再来月にそちらで舞踏公演をしたいと思っているのですが」

と電話すると

「あの、再来月にそちらで舞踏」

『舞踏』と言う単語を出した途端に電話をガチャ切りされるんだとか。宮内庁に
「あの、再来月に昭和天皇の戦争犯罪についてお聞きしたいのですが」
と電話しているようなもんである。

『暗黒舞踏:昭和天皇説』
『暗黒舞踏:北方領土説』
『暗黒舞踏:沖縄基地説』

と言うか。最近だと

『暗黒舞踏:福島第一原子力発電所説』

と言うか。

だが、『暗黒舞踏』『舞踏』と言うジャンルは確実に存在し、やってる方も観ている方も『舞踏』と思っている。共有されている認識である。だが、その単語は言語表現として使っては駄目、みたいな。

『オリモノ』
『へっぺ』
『土人』
『クロンボ』
『メクラ』
『部落』

みたいなモンなのか。




昨日、部屋を掃除していたら昔の日記が出てきた。その中にどうやら観に行った公演の事が記載されていた。
『テルプシコール/舞踏新人シリーズ』
である。
日記を読み返して当時も物凄い違和感を感じたし、今だと笑ってしまうのだが『テルプシコール/舞踏新人シリーズ』ってダンサーにすりゃ登竜門的なニュアンスと言うか。
で、一応、賞みたいなモノが贈呈されるんだよな。トロフィーとかじゃないと思うが。
その賞のタイトルが『努力賞』とか『最優秀賞』とかじゃなくて


『オラ!相手相撲、土俵際賞』
『YMIKOとバケツ賞』
『そのまんまいのちの海、もう一つの『器』賞』


とかである

初期は「普通のタイトル」の賞が贈与されていたようだが、段々と馬鹿げたタイトルになっている。
身内、慣れ合いの究極なんだろうなぁと思う。
別に合田の爺さんをdisりたいワケじゃないんだが(合田さんは素敵だ)。


Mと言う舞踏家の女性が公演の為にクラウドファンディングをした。その際の文章として

「舞踏は日本が発祥なのに、日本国内では知られていなくて、逆に海外での方が知名度がある。海外に行った際に舞踏を知る日本人も多い」

とあって「アホかよ」と思ったが、確かに1959年に土方巽が初演『禁色』をやって59年間経つが、舞踏と言うダンスのジャンルが、少なくとも舞踏よりもハードルが高い『宝塚』『バレエ』『日本舞踊』よりは知名度がない、やっている人が少ないのは事実である。

日本が発祥で、日本人の想像を超えた処で影響を与えた『舞踏』だが、少なくとも『盆踊り』より知名度も実践している人も認知度も低い。




大須賀さんと話して面白かったのは、大須賀さんが東京大学で『舞踏講座』をやった時にレポートの提出率が矢鱈と高かったらしい。
東大生にとって『暗黒舞踏』と言うのは、可也のインパクトがあったようで。
で、大須賀さんも私も驚いたのが、学生達が白虎社の写真や動画、テキストを通じて頭に浮かんだのが
『レディ・ガガ』
だった、と言う処で。


『レディ・ガガ』は馬鹿ではないので(馬鹿じゃスターにはなれない)ピナ・バウシュにせよ舞踏にせよリサーチして取り込んでいるワケでさ。
世界のダンス・シーンを変えたピナ・バウシュが影響を受けたことを公言しているわけで。
だが、日本では『舞踏』と言うのが、『盆踊り』『宝塚』『町内のバレエ教室』より知名度、認知度がない。



舞踏公演に行くと、下手すると客席の半分が舞踏評論家だったりする。あれってどーなんだよ?って思う。


以前、Tと言う舞踏家と会ったら「KO.DO.NAさん、メール送ったのに来てくれないんだもんな~」と言われた。
確かに、その数カ月前に公演のお知らせをFBのメールで受け取っていた。







ですよ。

舞踏評論家には無料でチケを配り、此方は満額有料って言うのが私には未だに理解が出来ないし、理解が出来ない金をなんで俺が払わなあかんねん、って思う。


私も舞台畑出身なので公演が少しばかり値が貼る理由も分からなくもない。チケット代を安くした処で演劇だと高額だろうと安くても赤字。

ただ、さ。

舞踏公演に行くと『意味不明な人々』が多すぎるんだよな。



カメラとかな。
公演を観ていてもカメラのシャッターを切る音の方が舞台で流れている音よりも五月蝿い時が多いんだよな。
昨年、明大前でダンサーと共演した時は「音は5分に一回」と言うふうに決めた。

音楽屋としては、音を入れすぎる癖があるので無音時間を多く、と。無音状態の方がダンサーが引き立つから。
で、幕を開いたらカメラが

「カシャ」
「カシャ」
「カシャ、カシャ」
「カシャ!」
「カシャ、カシャ・・・カシャ(カシャ)」
「ッピ!」

と、五月蝿くてしゃーない。

「無音状態を多くした意味がねーじゃねーかよ!」
と思ったな。自分の公演だったら激怒しているところだ。


とある女性舞踏家が公演をした。最初は着衣。で、ステージが進みながら脱いでいく。最後のシーンで全裸となり客席に向かって股をユックリ、ユックリ開く・・・と言うパフォーマンスがあったのだが、ダンサーが股を開き始めたら途端にカメラマン達が凄まじい勢いで

カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!ッピ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!ッピ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャカシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!ッピ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!ッピ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!カシャ!

となった時は流石に引いた。




演劇だとカメラマンは一人か、最大でも二人なんだよな。音が邪魔になるのと客席を占拠されるので多く入れられない、と言う事情もあるが。
だが、私が知る限りカメラマンがあれほど多いジャンルって


『バードウォッチング』

『電車ヲタ』


位しか思い浮かばない。


舞踏公演で多いのは

『謎の自称:舞踏評論家』

『カメラマン』

である。これだけで舞台の半分以上が埋まっている事も珍しくない。しかも、自称:舞踏評論家もカメラマンも高齢なオッサンが占めている。
もう、老人介護施設と何処が違うのか分からない。



友人と「舞踏公演には何でカメラマンと意味不明な評論家が多いのか」を話したのだが

「公演で客席が埋まってないと寂しいから、無料でも埋めようとするんじゃないだろうか」

と言う。確かに其れはあるだろうなぁと思う。

でも、無料で入れも赤字。

音楽で言えば、例えばデスメタルだとかグラインドコアって知名度も認知度も低いが「客席が埋まらないのは悲しい」と言う理由で『グラインドコア評論家』を無料で入れる事はない(ってか、そんな評論家はいないのだが)。
客席が疎らでも全力疾走がグラインドコア。
っつーか、音楽なんてフリージャズとか『高円寺グッドマン』が良い例だが客席が空欄状態がデフォである。



「客席が埋まらないのは辛い」

と言うのは変な話で、無料チケットを配りまくらなきゃならない状況に疑問はわかないのか?って言う。
知名度も認知度も低いのは、上記の

『オラ!相手相撲、土俵際賞』
『YMIKOとバケツ賞』
『そのまんまいのちの海、もう一つの『器』賞』

みたいな内輪ノリを延々と続けてきた結果であってさ、って言う。だから、客席が疎らでも仕方ないじゃん?って気もするし、其れが気になるなら一般客を呼べるようにすべきであって、って言う。
だが、舞踏評論家と舞踏家とカメラマンと言う『共依存関係』を捨てよう、と言う人は居ない。

客席が『老人介護施設』にしか見えなくても、だ。

舞踏評論家がSNSや知名度のあるサイトで何かを書いている、レビューを書いている、と言うのは今でも聴いたことがない。

多分、宮田徹也さんとかも同じ意見だと思うのだが(宮田徹也さんは舞踏評論家ではないが)大須賀さんが言うように舞踏(Butoh)が最前衛芸術だったのは90年代までなんだよな。
じゃあ、00年代に前衛からPOPと言うか定着したか?って言えば閉鎖的、内輪的な状態から変化がなかったので前衛から衰退へ、って言う。

『西洋美術』と言うモノが明治時代に入ってきて、日本がようやく世界に誇れる『現代美術』って舞踏(Butoh)位しかねぇんだよな。村上隆って言う人もいるけども、あれは国の肝いりなワケで村上隆が突破者ってワケじゃない。

「そんな前衛美術を愛でる私」

が集まって『オラ!相手相撲、土俵際賞』とか遊んでいたら、愛でていたはずの前衛が腐っておりました、みたいな。



小林嵯峨と言う女性舞踏家がいる。
この人のサイトを観たら脱いでる率が高い。ってか女性舞踏家は「脱いでナンボ」みたいな所がある。
知人の女性舞踏家は、本人の『思い込み』もあり30代半ばまで全裸かパンツだけで踊っていた。
失恋して、太ってしまい(やけ食い)「こりゃ、脱げる身体じゃないな」と言う事で着衣して踊り始めた途端に舞踏評論家のオッサン達は手のひらを返すように駄目出しの嵐。


私は着衣して踊り始めた時のほうが良いと思ったのだが、舞踏評論家のオッサン(何故かオッサン率が高い。老人介護施設と大差ははない)は「ふざけるな」である。

「あゝ、舞踏ってのは『オッサンによる』『オッサンの為の』『オッサン芸術』なんだな」

と痛感した。

多分、あと10年もすりゃ舞踏をやっている30代なんて居なくなるし、例えば私の知人に20代の子がいたとして「舞踏をやろうと思うんですよ」と言われたら必死で止めると思う。

「未来がないジャンルをやっても無駄だ」

って言うか。


舞踏自体に未来がないワケではない。
舞踏と言う表現手段が無効になったワケでもない。
ただ、舞踏評論家とかカメラマンだとか、『舞踏に巣食うオッサン』が減ることはないだろうし、そう言うオッサン達が一般客を寄せ付けない状態は、まだ続くだろうし。


舞踏と言うジャンルが死んだ、とは思わない。『その行為自体』が最前衛だったモノが20年弱程度で死ぬわけがない。
ただ、自民党だとか自民党を支持する田舎の人々とか、老人介護施設で若年層をこき使う年寄りみたいなモンで、周辺が腐らせる。
もう、負の連鎖がッパねぇ感じでさ。


舞踏界隈の人達はどう思っているんだろう、と思う。ってな疑問を抱くとアウトなのかも知れないが、そろそろ、こう言う提議すべきでしょ?って言う。
もう、公演に年齢制限をしてもええんやないですか?とか、役に立たない自称:評論家を招待するのはやめたら?って。

役に立たない評論家を無料で御招待するなら、俺からも金を徴収するなよ、って。


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