因みに私は『君の名は。』は観たけど全く評価していない。評価すべき部分が何処にあるのか不思議に思っている程である。
『言の葉の前』はザックリと書くと
1:靴職人になりたい15歳の高校生
2:ストレスにより味覚障害になった27歳の女性
の二人の話である。味覚障害になった女性は実は、靴職人を目指す15歳男子が通う学校の先生で、職場内恋愛が拗れて味覚障害になった、と言う設定である。
で、取り立て書く部分はない。
この映画(君の名は。についても同じ意見なのだが)が何で面白くないのか?
TVアニメよりは遥かに金は掛かっているはずだし、スタッフにも恵まれているはずなのに、pinと来ない。
背景や絵が綺麗だ、と言う意見もある。だが、其れは綺麗なだけだ。
なんっつーかなぁ。
一昔前の胡散臭い評論家みたいな事を言っちゃうんだけども「人間が描かれてない」と言うか。
綺麗な風景と、綺麗な街で(都心だが)、綺麗な二人が、綺麗に出会う。
其れは其れは素敵で綺麗だと思う。だが、『綺麗』であり『美』ではない。美が持つ毒はない。
サンリオ・キャラクターのような感じ、と言うか。
ファンタジーであり、悪い意味で『アニメ』である。マジンガーZみたいな
『カッコいいいロボット』
が
『悪いロボット』
を
『退治』
するために
『カッコいい基地』
から
『登場』
して
『カッコいい必殺技』
を
『カッコいい主人公が』
繰り出して終わる。
みたいな。マジンガーZは私は大好きなんだけど(あの糞みたいに野暮ったいデザインが最高なんである)、マジンガーZを映画化するのは如何なモノか?と言う気がする。
で、新海誠の映画は『言の葉の前』と『君の名は。』で2本観たんだけども、印象としては
『クリスチャン・ラッセン』
みたいな映画だな、と。それに感動出来る人は、恐らくクリスチャン・ラッセンにも感動出来るし、『美少女戦士セーラームーン』にも感動できると思う。
物語の構造としては、冗談みたいにチープと言うか安直な作りなんだよな。
だから、クリスチャン・ラッセンが描くイルカとか、美少女戦士セーラームーンっぽいってのはイルカは実は漁師にとっては害獣だし、意外と凶暴な側面もあるのだがクリスチャン・ラッセンは天使のように描く。
美少女戦士セーラームーンも同じようなモンだ。
邦画は駄目、ってのは誰もが共通認識だと思う。ともすると邦画の制作者ですら、そう思っている節がある。邦画で数十年ぶりに頑張ったのは『シン・ゴジラ』程度で、『シン・ゴジラ』は何処まで行っても『怪獣映画』であり『快獣ブースカ』と大差はない。強いて言えば『ウルトラマン』かもしれない。
しかし、初代ゴジラの桁外れの禍々しさを『シン・ゴジラ』が越えたか?って言うのは色々な意見があると思うけども、私には初代ゴジラの禍々しさが好きだ。
『君の名は。』と同時期に公開されていた『この世界の片隅に』の何が良かったか?って言えば、限りなく純文学なんだよな。
『君の名は。』はライトノベルとか。
我々が普段、使用している『日本語』で芸事をする、と言うのは厄介だが、日本の純文学(近代文学)は二葉亭四迷が作ったモノで、二葉亭四迷を抜きにして文学史は語る事は不可能である。
もう少し古ければ樋口一葉もだけども。
選ばれた『綺麗な人』ではなく、『その他大勢』の中からランダムにチョイスして、其れを動かす。
その過程で誰かと出会う。それは蕎麦屋だったり、従妹だったり、友人だったり、近所の老婆かもしれない。
SNSが発展しても人間は常に誰かと出会い続ける。嫌な奴だったり、不気味な奴だったり、職場の同僚だったり、親だったり。
SNSでもTwitterでもfacebbokでも何でも良いのだが、『誰とも出会わない』と言う事は生きるうえで不可能だ。
そして、誰にせよ『出会う』事は自動的に物語になる。
ただ、其れだけの話である。
其処に『綺麗な空間』『綺麗な人』と言うのは無理があるんじゃないか?って思う。
だって、人間はトコトン、醜いんだもの。
醜いから綺麗なモノを選びたがるのかもしれないが新海誠の映画程度の『綺麗さ』では人間が持つ醜く、醜悪で、悍ましさは全く解消されないと思う。
綺麗、と言うのは楽な言葉で、部屋の大掃除をすれば綺麗になる。
ブスでも化粧をすれば綺麗になる。
大枚を叩いてシャンデリアを設置すれば綺麗になる。
数百万だせば綺麗な着物が買える。
銭金によって『綺麗』を作る事は可能だ。と言うか銭金で解決出来る事は『綺麗な事』だ。
それはクリスチャン・ラッセンの絵をローンで買うように。
例えば、だ。
例に出すのは卑怯な気もするのだが宮崎駿の映画って凄く毒々しいんだよな。宮崎駿映画で初めて黒字になった『魔女の宅急便』で主人公のキキが飛べなくなるシーンがあるんだけども、監督は明言していないが、あれは初潮を迎えたからなんだよな。
宮崎駿にとってアニメーションは子供向けだが、子供向けの絵本が意外と毒々しいように宮崎駿も毒々しい。
『紅の豚』
『もののけ姫』
『となりのトトロ』
と言った作品も、思えば可也、毒々しい。毒々しいし、ダークサイドを描いている。
『となりのトトロ』なんて、後半は可也、怖いもんな。トトロ自体もやっぱり化物だし、猫バスも不気味だ。
其れは妖怪だったり、神様だったり、化物だったりするのだが、其れって人間の化身であり、人間と言う生き物のダークサイドと言うか。
と此処まで書いて思うのだけども何故、皆、新海誠の映画に感動しているんだろう。
年齢は余り関係なくのようである。
何処に感動できるのか『感動した人』と一緒に見て5秒ごとに教えてもらいたい。
『背景が綺麗だ』
と言うのだが、あのレベルの背景ならTVアニメ(特に京アニ)でも再現可能だ。だから、映像に対しての衝撃はない。
古い話で恐縮だが幼い頃に『映画ドラえもん のび太と鉄人兵団』を観に行った。
当時はTV放送と劇場版は画質が桁外れに違っていて、始まった途端に画質に圧倒されていた。
で、何故か『風の谷のナウシカ』も観に行っているだけども、小学生低学年だから話はサッパリ分からなかったけど、画質と音響に圧倒された、と言うか。
最近だと『この世界の片隅に』は画質と音響に圧倒された(ストーリーにも圧倒されたが)。
新海誠の映画には、そう言うアニメーションだからこそフル・レベルの画質を感じないし、音響に圧倒される事もない。
其れは新海誠がゲーム畑の人だから、ゲームっぽい作りになるのかもしれない。
だったら、PS3までのゲームはアプリで落ちているから、そのゲームでも感動出来る(GTA:SAは感動した)。
感動とは何だろう。
感動した!って人が多いので、考えてしまう。
『感情が動く』と書いて『感動』だけども、TVアニメ程度の映画で感情は動くのだろうか。
感情が動く事が、感動ならば。
好きな異性の仕草にも感動するはずだし、
小さな子供の声にも感動するし、
風の音
雨の音
雷の音
雲が動く音
山鳴りの音
水の音
それらには感動出来ないんだろうか。都市生活を送っていると森羅万象の音に注意は払えない。だが、好きな異性の髪の香りや、子供が遊ぶ声には感動できると思うんだよな。
「感動した」
と言うのを皆、チープに使っているんじゃないか?って思う。
チープに使っているワケではなくても『感動』と言うモノがチープになったのかもしれない。
バラエティー番組で「世界が感動した日本の云々」とかあるんだけども、そんな感じなんだろうか。
私も40歳だから、新海誠的な世界に着いていけてないだけなのかもしれない。だけども、新海誠的なるものを手放しで「感動」と言う二文字で表すのもCOOLじゃない。
岡田斗司夫が『君の名は。』を「21世紀の『ローマの休日』になるかもしれない」と絶賛していたが(岡田斗司夫は、ある作品を絶賛するとマージンが入るんだろうか)、『ローマの休日』の方が設定がぶっ飛び過ぎているからこそ、良いのである。
だって、日本に置き換えてみたら
『愛子内親王』
このブス・・・いや、公家の血が濃い妙年の娘がコッソリと皇居を逃げ出して、新聞記者(しかも、東スポの記者とかだ)と一日だけのデートをして、最後はキスして、翌日は公家と東スポの記者に戻る、と言う話である。
こんな話はまず企画段階で上司が右手に靖国の英霊を集めてぶん殴ってくる話である。
ぶっ飛んだ話だからこそ人は其処に夢を見る事が出来る。
新海誠の世界はぶっ飛んでない。綺麗な詩のようでもあるが、詩は意外とドロドロとしてるし、『言の葉の前』では万葉集を引用するのだが万葉集って無茶苦茶な和歌もあって
「名前も知らない相手と月夜にHした」
とか
「貴方が会いに来てくれないからマンコに黴が這えそう」
とか
「貴方とのHは最高だった。マジ、野獣。」
とか凄い内容のモノも多い(意外と多いのである。SEXが娯楽だった事も大きいだろうけど)。
だから、万葉集=綺麗、と言うステレオ・タイプな扱い方も品性にかけるし、万葉集を知らない人にすれば「万葉集から引用って超→素敵!」なのかもしれない。
学校で万葉集をキチンと教えないから、ってのもあるけど(ちゃんと教える事が出来ない不味い内容の和歌もあるからアレあんだけども)。
2回も例に出すのは忍びないが『この世界の片隅に』ってぶっ飛んだ内容なんだよな。何故か、って言えば
①第二次世界大戦中の日本を既に私たちは知らない
②第二次世界大戦中の市井を知らない
③第二次世界大戦中のハイパーインフレーションを知らない
④描かれた広島は既に、この世にない。
⑤第二次世界大戦中の恋愛を知らない(結婚生活に恋人期間が含まれるとか)
⑥第二次世界大戦中の音を知らない。
⑦第二次世界大戦中終結の際の悔しさや悲しさを知らない。
⑧第二次世界大戦に対して疑問を抱いていた人がいた事を知らない。
たった、70年前の事なんである。だから、80歳以上の人なら知っているはずの世界を私達は知らないのである。
第二次世界大戦中でなくとも『桶狭間の戦い』『本能寺の変』『大化の改新』にも感動出来るかもしれないが、大化の改新の頃の物価は流石に調べようがない。
だから、面白い。
映画、芸術と言うモノは例え貧乏長屋暮らしだとしても、それに接した際に万年床がちょっとした高級ベットになって「うーん!よかったー!」って言えるモノだと思うんだよ。
それはジョン・ケージの作品だろうと、阿部薫のサックスだろうと、スパイダースのシングル盤だろうと、安室奈美恵の歌声だろうと、クラナッハが描く妖精だろうと、『初代:ブレードランナー』だろうと。
俺は新海誠の映画を観て、何か嫌なモノを感じた。
「これは感動するでしょー?どーですか?」
って言うチープに使い古された手腕を見せつけられているようで。綺麗なモノを、綺麗に描く事は普通の事であって、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』でもやっている。
下手すると『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の方が毒々しい程だ。
新海誠に感動する人達は、いったい何処に感動しているんだろう。
とても、不思議でならない。
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