其れで、唐組時代に御世話になった2人が亡くなった事を知った。
可也、ショックで、仕事を切り上げて帰ろうかと思ったほどだったのだが無理なので一人で悶々としていたら、同僚の20歳の男の子(コピーバンドでギター、勤怠悪し、発達障害っぽい)
『人生相談』
を持ち掛けてくる。その内容が無茶苦茶で
①女にモテたい
②バンドを続ければモテモテになるのだろうか?
③音楽一本で行く生活と成功の人生を選択するか?
④平凡な人生を選択するか?
と相談してくる。二十歳のバンドは『コピーバンド』であり、コピーバンドに成功も失敗もないし、客は高校時代の同級生だけである。
モテるとか、成功とか無縁の話である。
暑いし、ウザいし、ウンザリして
「成功、成功って言ってるけど、君にとっての『音楽で成功』って何を指すの?」
と聴いてみた。『成功』を矢鱈と連呼する辺は経済誌とかSIPA!的と言うか。音楽に失敗も成功もねーよ、と思うのだが。
5秒ほど考えたようで
「好きな事をしながら経済的に食える事です!」
と言う。しかし、「好きな事」と言うのは『コピーバンド』である。だが、目指しているのは『オアシス』と『クリープハイプ』とか『ワンオクロック』である。
私は『オアシス』も『クリープハイプ』『ワンオクロック』にも詳しくないが、少なくとも『コピーバンド』ではない、事は知っている。
因みに彼はグラフィックデザイナーにも成りたくて学校に通いたい、らしい。
人が喪に服したいのに、何で俺が第二次成長期のガキの『人生相談』』を受けなきゃならんのだ。
その日の仕事は、とても、とても、とても、疲れた。
堀本能礼さんは3年前に死んでいた。
知ったのは昨日だった。
堀本能礼さんには思い入れが凄い。
私は1997年に劇団唐組の公演を見ている。それで感激、感動、衝撃を受けて入団するのだが、その時に公演は唐十郎の傑作
『秘密の花園』
だった。今でも覚えている。
オープニングの堀本さんの台詞。
「・・・日暮里は・・・キャバレーの多い・・・街です・・・」
この呟きのような、詩から始まる抒情詩演劇は身体中が震えた。最高っての遥かに超えていた。
堀本さんは自己破壊的な演劇がメインだった。
ぶっ壊れるか、またはぶっ壊れているのか?と言う激しい演劇スタイルだったし、堀本さんのズングリムックリな体型と、小鳥の歌声のように伸びる声質が素晴らしかった。
自己破壊的な演劇をする人が、主人公を演じ、抑圧的な演技は官能的でもあり、二十歳の私は死ぬほど憧れた。
「あんな役者になりたい」
と思っていたし、「あんな役者になりたい」と思ったから唐組に入ったようなモンだったし、入団したら、何故か可愛がって貰った。
堀本さんの入団の経緯はチョット、複雑って事もあり先輩風を吹かす事も稀だった。
勿論、厳しい人だったのだが、唐組の先輩達は「厳しい」を遥かに超えた人達ばかりだったので(厳しい、と言うより『理不尽』)堀本さんに懐いている人は多かった。
私が座員だった頃の公演は『眠り草』と言う、唐組低迷期に相応しい「どうでも良い」作品だったのだが、其処でも堀本さんは爆発的な、破壊的な登場、演技を行い、最高だった。
退団した時。
私の部屋には風呂が無いので銭湯に行くのだが、堀本さんとは良く会っていた。退団したので会わせる顔がなかったのだが、ある日、夜中に高円寺の家に来た事があった。
「オマエが辞めた理由も分かるし、俺は其れを批判したりしない。だから、俺を見て逃げたりするなよ。オマエはオマエで、俺は俺だろ?」
と言ってくれた。嬉しかった。
その後に
「・・・で、悪ぃんだけどさ。ちょっと金がなくてな。300円、貸してくれないか?」
と言われて貸した。貸したが、返されてない。
堀本さんは伝説が多い人だった。
当時、唐組は停滞的で唐さんもヒットが出せなかったし、時代は平田オリザであって、テント芝居は過去の遺物になっていた。
客層も団塊世代が多く、数少ない若い客は「演劇の勉強をするために」と言う『過去の遺物』と言うか、
①原爆ドーム
②お城
③幕末時代の旅館
④博物館
⑤B-29
⑥ラスコー洞窟の壁画
⑦吉野ヶ里遺跡
⑧前方後円墳
⑨クフ王のピラミッド
⑩妙な地方の、妙な街の、妙に古い、意味不明なお祭
と言う感じだったと思う。
時代は平田オリザであり、ベケット再評価であり、一人芝居や小スケールの芝居がメインだった。
其処に『紅テント!』と言うのは、確かに無理があったと思う。
唐さんは「今こそテント芝居だ!」と言っていたけど、もしかしたら自分に言い聞かせていたのかも知れない。
それでも、堀本さんは世の事なんぞ関係なしに爆発的で、破壊的な芝居を続けていた。
世の流れの云々は関係なしに、堀本さんの演技は何時も最高だった。
「一体、どうやったら、あんな芝居が出来るんだろう・・・?」
と思っていた。
私の憧れの役者だった。ホンっと憧れた。真似が一切、出来ないのだから困った。盗めるなら盗むが、全くのオリジナルであり盗める部分が皆無と言うか、堀本さんにしか出来ない演技だった。
自己破壊的な演技だったけども、日常生活も自己破壊的だった。状況劇場、唐組は伝説的な人が多いのだが、堀本さんは別格だった。
もう、亡くなっているから書くのだけども堀本さんは一度、入団したのだが辛すぎて退団している。
だが、その後に唐さんの公演を見て「やっぱり俺には此れしか無い!」と思い、唐さんの自宅に行き、土下座して再入団が許された、と言う経歴の人だった。
そんなワケで唐さんに酒が入ると「コイツぁ(堀本さん)はいつ、逃げるか分からないからなぁ!」と嫌味を言われると
「も!も!も!申し訳御座いませんっ!」
と額から出血するほどの土下座をし続けるのが常だったらしい。
あと、唐さんの元に、まぁ偉いヒトから『伊勢海老』が3匹送られてきた。
それを唐さんの家に届ける任務を堀本さんが請け負った。
自転車で伊勢海老を確認するために蓋を開けると3匹の伊勢海老が2匹しかいない!
其処で堀本さんは勢い良く川に自転車と共に落ちた。
泥まみれになって唐さん宅に向かい、土下座しながら
「申し訳ありません!途中、川に転落してしまい伊勢海老を1匹、逃してしまいましたー!!!」
しかし、伊勢海老は事務所の浴室で見つかった。新鮮と言うか生きていたので逃げ出していただけだったのだが、堀本さんと言う人を象徴するような逸話だったなぁと思う。
辻孝彦さんは今月、亡くなった。癌だったらしい。
辻さんには本当に可愛がって貰った。その怪優っぷりは職人芸としか言いようがないのだが、誰かが辻さんのような演技を出来るか?と言えば不可能だった。
一体、どう言う経歴を積めば、あんな演技が出来るんだろう?と思っていた。
唐組は(当時は)やっぱり色々な意味で『濃い』『破綻』『理不尽』な劇団で、多分、日本一、ハードな劇団だったと思う。
其処に福岡県の小劇場でやっていた小僧が入団するのだから右も左も分からない。
東京と言う街も分からなしい、街に慣れる前に唐組だったし、テント芝居の経験は『全くの未経験』では『なかった』が(劇団野戦の月を手伝った事があった)、色々と「ワケの分からない掟」があって、戸惑った。
座員の問題もあったのかも知れないが私は春公演のツアーに同行した。その前の年は同行できなかった座員もいたらしいから、ラッキーだったのかも知れない。
でも、唐組の事も、演劇の事もよく分からない私をナントカ、サポートしてくれた。
理由は分からないけど、可愛がってもらった。
その後、唐組は夏に『座内公演』と言う内輪の発表会と言うか、そう言う公演があるんだよな。
其れは唐さんが温めている戯曲の軽い公演だったり(2000年公演の『鯨リチャード』は、その際に30分程度の形で発表された)。
だが、基本的には『内部オーディション』と言う感じで、唐さんの旧作(主に唐組時代)を新人が演じる・・・と言うモノだった。
その際、現在の座長である久保井研氏に頼むか、当時の看板役者だった鳥山昌克氏に頼むか、辻さんに頼むか新人同士で話し合った。
で、久保井研氏は「良い評判が取れるとは思うけど・・・」と思いながら外した。理由は簡単で、久保井研氏は新人や若手と殆どコミュニケーションすることがなかった事と、何処か得体の知れない不気味さがある事もあって駄目だった。
その不気味さには、『女癖の悪さ』と言うモノもあったと思う。
新人は皆、20歳の子供であり、久保井研氏の事は理解が出来ない処があったし。あと、怖かったって言うのが一番だった気がする。
鳥山昌克氏も候補にあがった。唐組で最強の腕力と、最強の演技力と、怪優からスタンダード・プレイまで出来る素晴らしい役者だったし、舞台監督と言うポジションの為か全体のまとめ役もしていた。で、勿論、鳥山さんも過去に座内公演で演出を担当した事があったが、その時は一幕目の途中で唐さんが激怒して終わった、と言う過去があったので有りえなかった。座内オーディションなので一幕目の途中で唐さんを激怒させる事は絶対に避けたかったから。
辻さんは、コミュニケーションもあったし、何処か信頼出来たし、何しろ役者陣では最高にCOOLと言うか看板役者だったし、支持が具体的だったからお願いした。
ある意味、中性的とも言える優しさがあり、同時に厳しい人でもあったし、『唐十郎の戯曲をどう演じれば良いのか?』を具体的に教えて貰える人だと思ったから。
唐組はバイト禁止の劇団なのだが、座員は夏と真冬に稼いで公演に挑むしかなく(ツアー中は月給が出るのだが、それでは食えない。何しろ月給1万円)辻さんもバイトなんぞをしたかったと思うのだが、快く引き受けてくれた。
その際の戯曲は『動物園が消える日』が選ばれた。
何故、傑作とは到底、言えない『動物園が消える日』が選ばれたのか分からないが、確かアレは書籍化されていたのかも。
当時、唐十郎の戯曲は嘗てと比べて殆ど書籍化されていなくて、唐組時代は『電子城』くらいしかなかった。
多分、誰かが戯曲を見つけてきたんだと思う。
座内公演は一応の建前としては「新人達が自主的に行うモノ」と言う規定だったので(当然だが自主的ではない)稽古場などは新人達が探してくる。
セットはダンボールで作る。
衣装や小道具はナントカ、調達する。または衣装は劇団内で保管してる場合もあったので、其れを使う。
座内公演の稽古は『其処に唐十郎が居ない』と言う事で気が楽だった。気が楽、と言うか部活的な感じだった。
本公演の稽古の緊張感はトラウマとなるレベルだったし、唐十郎と言うのは『座長』と言うより『神』に近く、恐ろしかった。
だが、座内公演の稽古は恐ろしい先輩方もいないし、自分達(新人)でやる、と言う事もあり楽しみでもあり(演じたくても、春公演は役がなかった)、辻さんの演出も最低限だったし、具体的だったし、ユーモラスでもあり、遣りやすかった。
堀本さんは「黒木の、あの台詞がなってない」と言う事で何故か、岩倉さん、と言う私の一世代上の先輩が付きっきりで、毎日、2時間~3時間の練習をさせられていた。
正直、岩倉さんの指示や演出は意味が分からず
「えーっと、俺は多分、台詞を言えているはずですが・・・」
と思いながらも「もう一回!」が蚕糸の森公園に連呼した。
あの頃の思い出と言うか、引越の為に部屋を掃除していたら1998年公演『眠り草』の台本が出てきた。
汚さないようにファイルに入れていたのだ。
其れを今、読んでみると客観視と言うか冷静に分析出来る。
唐さんの戯曲は『文体』であって内容ではない。
基本的に『台詞劇』なので、台詞を噛まずに言えれば、其れだけで成立する完成度である。
だから、戯曲が出来た時点で99.99999999%は完成されており、『当て書き』と言う「役者に合わせて書いている」と言うのは実は違っていて
『誰がやっても8割は完成する』
と言う完成度なのである。だから、小学生でも上演は可能である。派手なセット(大量の水やテント崩し等)は、其れこそが唐十郎の演出であり、基本的には
①台本を覚えられること
②台詞を噛まずに言えること
が可能であれば上演可能である。唐十郎の戯曲と言うのは其れだけの強度があった。シェークスピアやチェーホフ、ベケットやイヨネスコと並ぶ程の強度と骨格がある戯曲であり、その戯曲と言うものは『唐十郎の文体』に依る部分が多く、あの文体で唐さんが『ソウル市民』や『ゴドーを待ちながら』、『セールスマンの死』、『マッドマックスⅡ』を書けば、それは唐十郎の作品になるのである。
唐十郎と言う天才戯曲家はテント芝居でも水しぶきでも、アングラでもなく、其れは明治文学から続く純文学的な『文体の発明と開発』だったんだと思う。
あれから20年の時間が経つから、そんな事を言えるけど当時は分からなかった。
岩倉さんの素人演出もワケが分からなかったし。堀本さん、日高さん(今は世界中を飛び回る役者になっている)、大垣さんに相談するが、心半分は「駄目なんじゃないか?」と思い、心半分は「此れ以上、何をやれと?」と思っていた。
戯曲以上の事をやるスキルはなかったし、そもそも唐さんの戯曲は役者が戯曲を超えるスキルを求めるモノでもない。
それは『状況劇場』での『風の又三郎』だろうと、岸田戯曲賞を受賞した『少女仮面』でも、そうだったと思う。
演出の辻さんからは、特に何か言われた覚えはない。辻さんは、その事を分かっていたんだと思う。
辻さんから駄目出しされたのは1幕目が終わる際に、重要人物を私が目撃して
「あ!」
と言う台詞は何度もダメ出しされた。たかが「あ!」だが、されど「あ!」である。
書きながら笑えてくるのだが「あ!」だけで何度、やり直させられたか。
私が座内公演で演じた役は久保井研氏が演じた役だった。「似ている」とは言われたが、久保井研氏のような演じ方は出来ないし、唐組の先輩達は皆、叩き上げの強者で、真似する事は不可能だったし、ビデオを見て盗むって事も出来なかったし(そもそも劇団内にビデオがなかった)。
『辻組』だった新人公演は途中で逃げ出したオオツカと言う奴(私と同期)を捕まえに言ったり、泣いたり、笑ったりしながらも、神様:唐十郎の前で演じる。
好評ではなかったが、少なくとも全員が全力だったし「終わった・・・・」と言う事でグッタリした覚えがある。
その後に、新人達だけで打ち上げを行い、中袴田克秀さんと言う3世代上の先輩だけを先輩として招いて呑んだ。二次会でオオツカがトイレでゲロまみれなって倒れた。
後日、辻さんに感謝会と言うことで呑んだと思う。辻さんが嬉しそうだったし、その表情で「なんとか、なった」と思った。
座内公演が終わってから秋公演の準備が始まった。
3回目の上演となる『秘密の花園』だった。初演は本多劇場だったが、改訂版はテント。主演は飯塚澄子様(当時の唐組のクィーンである)。主演は堀本能礼さん。
春公演が終わって、当時の看板役者だった金井良信さんが退団したので、大久保貴さんが客演。
1年前の公演なので役に過不足がなく新人には役が回ってこなかった。
その頃から退団を考え始めていた。
退団の事を最初に話したのは日髙啓介さんだった。日高さんには、何処か「全てを受け入れてくれる」と言う感じがあった。
確か、日高さんも退団を考えいてた頃だった。
退団を考え始めたのは、やっぱり『堀本能礼』、『辻孝彦』『唐十郎』だった。
劇団が辛くて、って言うのも大きかったけども、其れは経済的な問題であり私は最終的に親に仕送りをお願い出来ていた。
劇団生活は思えば楽しかったんだと思う。物凄く辛い部分もあったけども、毎日が最高に『濃い』し、集中力のピークを維持される毎日は20歳の私には、何処か楽しかった。
だけども、自分が『堀本さん』『辻さん』のような役者に成れるのか?と言う疑問が湧いて来た。
当時、憧れていた役者は
『堀本能礼』
『辻孝彦』
『え~りじゅん』(ex野戦の月)
『金井良信』
『稲荷卓央』
だった。唐組は年功序列だから、長く在籍すれば役は付く。其れは問題ではない。
自分が憧れる、または何時かは乗り越えなければ生らない役者のレベルの高さと、自分が伸ばせるスキルの長さを考えると、無理だった。
言ってしまえば上記のような役者になれないんだったら、意味がない、と思っていた。
九州と言う封建的な土地の、福岡県と言う封建的な県の、北九州市と言う封建的な市から、東京に出てきたので、0か100か、と言うか。
そう言う覚悟じゃないと、当時は出れなかった。
堀本さんや辻さん、金井さんみたいには成れない。
それは時間が解決するのか?。例えば10年間在籍すれば彼等のような演技が出来るのか?
よしんば10年と言う時間が解決するとしても、20歳にとって10年は長すぎた。
「待ってられない!」
と思った。
もう一つは、20歳特有なんだと思うけど、唐さんに憧れて上京した。唐さんの元に入団と言うか潜り込む事には成功したけども、やっぱり唐さんは天才過ぎる。
20歳のクソガキですら畏怖、畏敬してしまうほど、天才だった。
「天才!」
とはネットでは、よくある形容詞だが唐十郎と言う人は掛け値なしに天才だった。戯曲家としても破格だったし、演出家としても破格だった。
マイルス・デイビス自叙伝に「バード(チャーリー・パーカー)は天才だった。間違いなくな」と言う記述が多いのだが、唐さんはチャーリー・パーカーのような大天才だった。
上記のように10年間、在籍して私が在り得ないけども堀本さんや辻さんを凌ぐような(ホンっと在り得ないが))「素晴らしい役者」になったとする。だが、それは私の手柄ではなく『唐十郎の元にいる黒木一隆』でしかない。
唐十郎に憧れて、唐組に在籍するのではなく、唐さんがやってない事で頑張るしか無い・・・と思った。
で、私も逃げちゃうのだが。
唐組には「退団します。有り難う御座いました」と言う物はない。逃げるだけである。逃げるのだから、座員が追手として来る。
今の『一般社団法人』としての唐組は違うかも知れないが、私がいた頃はそうだった。
だから、3日ほど逃げた。
辻さん、堀本さんと再会せずに20年。
思えば、当時、上京して新宿で迷子になっていた頃とは何もかも違う。
演劇は辞めてしまった。
私にとって唐組、唐十郎、堀本さん、看板役者達と言うのが『演劇』であり、其れがTOPだった。
だから、最高峰まで行ってしまった以上、次はないって言うか。
唐組の頃は全く吹いていなかったトランペットを吹いている。
集団行動である演劇ではなく、ソロ演奏になっている。
45kgだった体重は60kgになっている。
松屋や吉野家を高級食店と思わなくなっている。
唐さんが「アウンサン・スーチーの家の前で公演をやりたい」と当時、言っていたのだが、アウンサン・スーチーではなく、NYとかCPHで吹いている。
新宿や雑司が谷ではなく六本木。
20年前と共通項が一つもない。
退団して、2年程してから唐組を観に行った。以来、観に行ってない。
堀本さんは家族葬。
辻さんは役者として葬儀。
役者バカが役者バカとして死んだ事は乾杯出来る事だと思う。本当に馬鹿げた、馬鹿☓1000みたいな奴が九州のクソガキの人生を変えちゃう演技を続けながら消えていった。
そんな馬鹿野郎な人達が、馬鹿野郎なりの最高の最後だったんではないか?と思う。
俺は、俺は、俺は此れを書きながら堀本能礼、辻孝彦、と言う人物について考えている。
彼等は音楽家ではない。
だが、芸事者として俺は彼等に少しでも追いつけているのだろうか?と思う。
俺は、20年間、必死でやってきた。
18歳で芝居を初め、21歳で退団するまで必死だった。其れからの20年間も必死だった。
出来ない事を行い、無理のあることを行い、失敗を成功に変え、言葉も分からない国に行ったり、演奏中に骨折したり。
でも、私の40年と言う人生で『重要なエポックメイキング』は1998年の『唐組/秘密の花園:鬼子母神特設テント』であり、其処で見た堀本さん、辻さん、金井さんに憧れて郷里を後にした。
人生に「もしも」は無いんだと思う。
だけど、一年に1~2回は「あの頃、あと一年でも唐組に在籍していたら」とか考える。
郷里で親の稼業を次いで、呑気にDJなんぞをやっていたら、とも思うし、『秘密の花園』ではなく『動物園が消える日』を観ていたら、とも考える。
追悼ってワケじゃないんだけども。
私の人生に決定打を与えた人が消える、ってにのは想像以上に辛いな、と思う。
俺は、1998年の堀本さんや辻さんに近づけているのか?全く駄目なのか?
どうなんだろう。
どうなんだろう?
どうなんだろ。
そんな事を思う。
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