2019年8月10日土曜日

表現の不自由

あいちトリエンナーレの『少女像』について、ツラツラと書いてみたのだが。
書き終わって思うのは

「考えてみれば『左』と呼ばれる人達も『表現の自由』『多様性』を否定してきたじゃん」

と思った。

https://kodona.blogspot.com/2019/08/blog-post.html






311の直後の脱原発デモの事を思い出した。
場所は渋谷で、高円寺界隈の人達も多く参加していた。

その時に、ある『右翼団体』が参加を表明した。ネトウヨとか保守系じゃなくて、純粋に『右翼』の人達である。

「国を憂う気持ちは同じ」

と言う事での参加表明だった。

私は

「あ、これで市民運動と言うのは一歩どころか大きな前進になるのではないか?。左翼or右翼ではなく、ある目的に向かって全てが一緒になれるチャンスなのかも?」

と胸を踊らせた。




だが、参加している他の団体や個人が、『愛知トリエンナーレ』と同じように

「参加したら殺す」
「一緒に歩いている奴がいたら殴る」

と物騒な事を言って大反対となった。それで、未参加(主宰者側が右翼団体に不参加を申し入れた)となった。
そんな事、おかしいじゃないか。脱原発は左翼、新左翼だけが言える事柄なのかよ?と思う。

それをデモの前に

「おかしいじゃないか!。同じ国を憂う者同士が協力出来なくて何がデモだ!?だから、俺は此処に国旗を立てる!」
と言って国旗を掲げた人がいたが、国旗を掲げた1秒後に殴られていた。


デモの終盤に「何故、国旗が駄目なのか?」と聞いたが「国旗は駄目でしょ。やっぱ」と曖昧な返事だった。
一企業が日本の国土を大幅に奪ったワケで、これに関して右翼も左翼も無いし、国旗を掲げる自由もあったはずだが駄目らしい。
未だに理解が出来ない。



あと『ろくでなし子』さんが自身のツイッターで記載していたが、反レイシスト団体から何故か脅迫を受けたことがあった。
ろくでなし子さんはレイシストではない、にも関わらず。



あと、極端かも知れないけども『はしすみとしこ』って言う保守系のイラスト屋がいるのだけど。
この人の最初の画集が意外な事に売れた。
それでサイン会兼講演会が催されたのだが、これも『反レイシスト団体』の猛烈な脅迫とクレームで中止させられた。


『表現の自由』と血相を変えて激怒する一方。
その『表現の自由を侵害された』と言う人達も『表現の自由』を侵害している。



「いや、表現の自由と言ってもレイシズムとか弱者を貶めるとかは駄目でしょ」
と言う意見もOKなんだけども『制限付きの自由』は『自由』と言えるのか。
『はしすみとしこ』はレイシストだが、「だから、なに?」と私は思うんだよな。だって、イラストとしては平凡な出来だし、要するに『面白くない』作品なのに、何を血相を変えているんだろう・・・と思った。
(レイシズムや弱者を貶める、民族差別、職業差別、障害者差別は手塚治虫がタブーとしていたが、その手塚治虫も、そのポリシーを遵守出来たとは言い難い)
(同時に手塚治虫がアチチュードとしたタブーを、叩き壊す、と言うアチチュードも有りだとは思う)



『自由』って何なのさ?と思う。誰も定義出来ないし、定義した処で守れない。
女子高生とSEXするのは条例違反だが、山羊や犬とSEXする自由はある。それを『性の自由』とも言えるわけでさ。




随分、前の話だけども。

国分寺の『フリー・即興ジャム・セッション』に呼ばれたので演奏した。
その頃、私はトランペットを演奏する事にウンザリしていた。
もっと、メチャクチャで、もっと電力を使った音楽をやりたい、と思っていた。
真面目に吹いてもトランペットと言う楽器は『即興演奏』と言うか、デレク・ベイリーみたいな演奏は不可能である。
それで、自作のピック・アップをトランペットに装着して、ループマシンでトランペットを殴る音でノイズを作る。
延々とハウリングさせた。
トランペットを吹いたのは1分程度だったと思う。
最後はアンプにトランペットを投げ付けて終わり・・・と言うモノで個人的には満足が行くものだった。
共演者を徹底的に無視したい。
無視した処で、無視は出来ない。
だから、やりたい。
と思った。



後日、怒られた。

「ちゃんと共演者の音を聴きながら演奏しなきゃ駄目だ」

と言う。

「ほな、ブルースのセッションでエエやんけ!。フリーなんだろ?。合唱団体じゃねーんだろ!?」

と言い返したが

「音量は共演者の音量に合わせ、演奏は共演者と共に作れ」

と一点張り。

そんな演奏の、何処が『フリー・インプロージョン』なのか理解に苦しんだ。



坂口安吾の『天皇論』と同じで

『思想の自由』
『宗教の自由』
『表現の自由』

を高らかに、血相を変え、仰け反りながら、雄鶏さながらコケコッコー!と叫ぶ人ほど、その都度、『自由』の定義を変えながら『自由』を奪っていくんではないか?って気がする。



あと、『愛知トリエンナーレ』の企画者が「日本から自由が遠ざかった」みたいな事を言っていたんだけど、あれは負け犬の遠吠えなんだよな。
『自由』って生きるうえで大前提だけども、旧約聖書の頃から『自由』を奪われて、『自由』を武力なり、何なりの力で奪還している。

もう、これは源平合戦だろうと、桶狭間の戦いだろうと、島原の乱だろうと、同じなワケで。
だから、『表現の自由』を訴える人が、それを『許さない』と言う人達に惨めに、無様に屈服したんだよな。
マヌケだよな、と思う。

あんな屈服をしておきながら「自由」を謳うなんて、ヘソで茶を沸かせられるよな、と思う。

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