2018年9月8日土曜日

梶原一騎

梶原一騎を昨年から研究している。



最初は『あしたのジョー:BL版』に衝撃を受けて、『あしたのジョー』を再度、読み直して、劇場版も見直す事から始まる。

『あしたのジョー』はボクシング漫画のように見えて、実のところ『明日の為の其の一』とかの手紙以外はボクシングについて描かれてはいない。
矢吹丈のようなボクシング・スタイルはギリギリ、戦前の『ピストン堀口』までであり、戦後の日本初の世界チャンピオンである白井義男の頃には消滅している。

で、ピストン堀口はパンチドランカーで廃人になったしな。

まぁ、良くも悪くも『戦前ボクシング』を代表する人だったんだろう。「殴られるので殴り返す」と言う事で相手のパンチの全てを喰らいながら・・・って言う(だが、当時としてはテクニックもフットワークもパンチ力も凄かったはずなんだが、そう言う意味不明な戦法をとっている)。



『あしたのジョー』は前半と後半に分けられる。

前半→不良少年がボクシングに出会うまで。
後半→贖罪の旅

「彼のアイドルであり、恋人である力石徹を殺してしまった自分』
『日々、洗練されていくボクシング・スタイル』

この二点が重要で、野獣のようなボクサーではなく洗練されたテクニシャンと言う二極性。

だが、力石徹と言う十字架の為に、敢えて

①無茶苦茶な強敵(ともすると矢吹丈より1~2ランク上)
②無鉄砲な戦法(ピストン堀口的な)
③異性とのデートすらしない。
④ファイトマネーが入っても気にしない。
⑤力石徹の死後は、あれほど気に入っていたドヤ街とは距離が出来る。

贖罪なのでボクシングでなくても良いのだが、矢吹丈と死んでしまった力石徹を結びつけていたのはボクシングだった。
其れだけでである。
其れだけの為に、ボクシングを続けた。
其れだけの為に、本来はテクニシャンとして悠々と戦えるはずが『力石徹戦』と同じモチベーションとファイトスタイルを維持した。
其れだけの為に、廃人確定だとしても構わなかった。

矢吹丈のパンチ・ドランカーはホセ・メンドーサ戦よりも遥かに前に始まっていたはずである。

本人は其れに気がついていたはずだが、問題は其処ではなかった。


そう言う意味で梶原一騎、及び「ちばてつや」にとっても、日本漫画界においても、だが『少年漫画』と言うモノが、純文学の領域、または凌駕する事は可成り稀なのだが(少女漫画は萩尾望都の登場により純文学となったが)、『あしたのジョー』は、『ブラックジャック』よりも前に、殆ど『初めて』と言っても良い

『漫画が純文学を凌駕した瞬間』

なんだと思う。内容としてもストーリーとしても夏目漱石的と言うか、少年漫画と言うよりは明治から始まる日本純文学である。






そんなワケで。



「梶原一騎って、どんな人だったんだろう?」

と思うのは当然である。と言うか私は何かに興味を持つと、その人を徹底的に調べあげてしまう。
サミュエル・ベケットに興味を持って延々と調べていたら、アンドレ・ザ・ジャイアントの試合まで見る事になる(サミュエル・ベケットとアンドレの家は近所だったんだよな。で、巨大なアンドレがスクールバスに乗れない事を哀れんで、ベケットが小型トラックで送り迎えをしていた)。


で、梶原一騎について調べる。


其処で感じるのは『途方もない文学コンプレックス』と言うか。

『あしたのジョー』は梶原一騎とちばてつや、と言う二人がぶつかり合った爆発みたいなものである。
だが、其れ以前に梶原一騎は相当な文学コンプレックスである。

売れっ子になっていた頃に「ヤリたいこと」ってのが

『へミングウェイの『武器よさらば』みたいな小説を書きたい。』

なんだよな。此のへんが梶原一騎らしい、と言うか。『巨人の星』の父親に代表されるように『古典的な師弟関係』『古典的な日本人』を書くワリには『ヘミングウェイ』と言う『超近代アメリカ文学』と言うか。

だから、『指輪物語』だとか『シェークスピア』だとか「それ、マジで古典じゃん」って言うモノではなく、近代アメリカ文学を通じて、古典的なモノを書きたい、って言う屈折した感じが凄い気がする。


梶原一騎がデビューして、スキャンダルで墜落するまで。

日本に梶原一騎的な思想を持つ人達はいなかった。『よど号ハイジャック事件』では「我々は『あしたのジョー』である!」と言っているが、梶原一騎は政治的思想はなかったし、連合赤軍も全共闘も右翼も左翼も関係なかっただろうし、其れに対して理解・無理解以前だったと思う。

梶原一騎の作品を読みながら、政治的思想が出てくる時は、漫画家が伏線を貼っただけである。


しかし、読みながら正直、苦痛とも思えるモノが多い。


梶原一騎の作品は基本的に


①カラテ
②プロレス
③女
④妙な贖罪(『愛と誠』『天下一大物伝』)
⑤誤解と偏見


である。『愛と誠』や『昭和一代女』のように純文学路線を狙い、格闘技が出てこないモノもあるが(梶原一騎は基本的に純文学志向である)、矢張り『カラテ』『プロレス』は必須である。

その最もたる作品が

『空手バカ一代』
『プロレス・スーパースター列伝』
『空手地獄編』
『空手地獄編:牙』

と言う珠玉の駄作たちである。『空手バカ一代』が果たした功績は凄まじいモノである。
其れまでマイナー格闘技・・・少なくとも全国大会すらなく、沖縄地方の超マイナー格闘技であった空手と言う意味不明な格闘技を2020年の東京五輪の種目にまで持って行き、大山倍達と言う、言ってしまえば単なる『喧嘩が強いオッサン』をスターにしたんだから。

極真空手を調べてみると、ホンっとアホと言うか、そのボスである『大山倍達』の胡散臭さは半端じゃなくて(公式戦は皆無)(伝説の9割以上は嘘)、その弟子達もカラテと言う意味不明な格闘技の事しか考えてないアホばかりなので、中学校を卒業しているのか、どうか怪しい連中ばかりである。


梶原一騎と大山倍達の初対面は、梶原一騎が大山倍達の元に行った際に漬物石を持参して

「此れを割って頂けないでしょうか?」

だったらしい。

そう言う純朴で素朴な人柄だったんだろうなぁと思う。

そう言う純朴で素朴な人だったからこそ、極真空手と大山倍達に心酔出来たし、カラテと言う意味不明な格闘技にも接近したし、
そう言う純朴で素朴な人だったからこそ、初期の大山倍達道場のアホ達に心酔出来たのかも知れない。



長くなりそうだし、続く。

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