2018年9月17日月曜日

1977年

1970年代後半でしたか。
この世と、あの世の狭間。
さては、はてはて。
はては、さてさて。
産まれてみようか?。
流れてみようか?
と思っていました。


丁度、2年前にあっちの世に行った兄が
「あっちは最悪だぜ。重力なんてもんがあるからな。行っても数年は立てねぇし、飯は不味いし、クソだぜ」
と言っていたので、どうしたものか?と思っていたのですが、あの世と、この世の狭間で兄が嘘つきで、生まれたのではなく、流れた癖に、さも『あっちの世』を知ったような口ぶりが、私は余り好きではありませんでした。

他にも

「あっちの世は毎年、ゴジラが来て暴れるので生活が大変だ」
「ピンク・レディーは解散してるし、TVも面白くない」
「エルビス・プレスリーも調子が悪いし、ロックは死んだ」

と色々と法螺を吹いておりました。

「まぁ、産まれてみて、馬鹿々々しければ死んで、もう一回、植物だとか蟻だとかで過ごせば良いか」

と輪廻と因果の輪から脱げ出せない奴が、思うような事を、輪廻と因果の輪から抜け出せないなりに思っていました。


とは言え、産まれてみると「なるほど。此れは酷い世の中だ」と痛感するのです。ピンク・レディーは解散していましたし、ゴジラは襲ってきますし、何よりエルビス・プレスリーは死んでいました。しかし、TVは面白いし、沢田研二はプレスリーよりも格好良かったですし、『アイドル水泳大会』で「オッパイ、ポロリ」は素晴らしいものでした。

絶望的と言うワケでもないし、かと言って楽観的とも言えないし、
「なるほど。此れがブルースって奴か」
と思いながらも、ブルースなんだか、リズムでandでブルースなのか、分からずホゲホゲと20年間、草深い九州の夜を過ごしていました。


上京して、長年、高円寺。
演劇だったり、シンセサイザーだったり、トランペットだったり、ヌイグルミ作りだったり、ウダクダウダクダッダッと過ごしていたのですが、今年、地球よりも重たい腰を持ち上げて、杉並区から出て、世田谷区に。
下北沢も世田谷区もFUCKなのですが、思えば高円寺も中野区も豊島区も港区も、郷里も世界は何処まで行ってもクソFUCKなワケで、何処に住むのかは、どうでも良いのかも知れません。
ここがどこなのか どうでも良い事さ。どうやって来たのか。忘れられるかな。土の香り、このペンキの匂い。
壁は象牙色
空は硝子の色
夜をつかって着くまで
陽気な唄を吐き出しながら
闇へとつっぱしる火の車。赤いお月様と鬼ごっこ
ここは前に来た道、川沿いの道。
雲の切れ目からのぞいた、見覚えのある街 。




どの街も、似たような光景があります。
思えば1998年に唐組に入団した際に、当時の劇団事務所だった『下井草』に行った時に
「なんだか、郷里みたいな風景ですね」
と先輩に言うと
「トウキョウは何処の土地にも似ている」
と言われました。
私は郷里を憎悪しながらも、トウキョウと言う小さな街が好きなので、実は憎悪していないのかもしれません。

ナニハトモアレ、1977年に、あの世と、この世の狭間で「ちょいと降りてみるか」と思った事に後悔はありません。
まさか、あの時に41年も、この世で過ごすとは思いませんでしたが、少なくとも私は、この世を嫌いではないのだと思います。

皆さん。
クソ面倒臭い私を、どう言う形であれど受け入れて頂き、有り難うございます。
36歳くらいで切り上げたかったのですが、ウカウカしていたら41歳になってしまいました。
ボンヤリしている私のことです。
来年もウカウカしているかもしれません。
有り難うございます。


もうちょっと頑張ってみます。
頑張ってみた結果が、ウザい結果になるかもしれませんが、その時はスミマセン。
今後共、宜しくお願いします。
此れを書いてから、普段通り練習します。

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