『祖母の墓参り』
である。いよいよ、九州地方でも『最田舎』と呼ばれる宮崎県のどうでも良い市(都城市)に突入。
周囲には何もない。
「え?これが『市』なの?ホントに『市』なの?」
と思う。人が住んでいる気がしない。
一応、バス亭があるのだが営利目的のバスは廃線となっているので『コミニティ・バス』しか走っておらず、バス停に時刻表はあるが、時間には来ない。正確な時刻表は原住民しか知らないらしい。
延々と走るが、風景はこんなものしかない。
こんな土地で思想や哲学を抱けると言うのか?
市内だと言うのにコンビニすらない。コンビニのような『小売店』はある。朝9時から夕方5時までの店だ。
だが、その『コンビニのような店』も電気代節約なのか店が暗い。
看板にアパートだか、借家の情報が載せていある。
『家賃6千円』
とか。
月収の1/3が家賃だとすると、この土地では月収1万8千円あれば良い、と言う事になる。
農業しか産業がない場所だが、そんな金額でやっていけるのか?
流石に恐怖を感じる。
で、祖母の墓・・・と言うか納骨堂なのだが。
其処へ行って『墓参り』。
数字を書いた紙を片手に納骨堂をウロウロとする。
で、母が「ほら、あれがタコ公園。あんた達が良く遊んでいた場所だ(方言:ほぉ。あれがタコ公園やんね。あーた達ぃがよー遊びよったとこぉよ)」
と言う。
見覚えがあるような、無いような。
子供の頃。
毎年、夏休みになると祖母と母と姉妹と私で『本家』に行っていた。何故か夜行列車で行っていたのだが、車で5時間の場所に何故、夜行列車だったか?と言うと
①交通インフラが最悪
②電車に乗っても遠回りになる。
③到着すると深夜だとか、無茶苦茶な時間になる。
④深夜に到着したとしても、市内から本家までのインフラが終電を迎えているので困る。
⑤その為、夜行列車に乗り、翌朝に到着するようにしていた
らしい。
如何せん、小学校低学年だったので「夜行列車、すげー!」とかしか覚えてない。
鹿児島の本家にも行っていた。前回の日記で書いた『宮脇さくら』の実家は
『せごどんラーメン』
と言うラーメン屋だが、本家は『養鶏場』だった。
で、祖母に促されて行くとヒヨコが沢山いて、子供だからヒヨコが可愛くて仕方がなかった。
それをボンヤリと見つめていた人がいるのだが、それが『宮脇さくらの親父』である。
多分、既に中学生だったと思う。
夏休みだし、凄く楽しかった思い出しかない。
当時、私は学校で『協調性がない』と言われ続けてYMCAのキャンプなんぞに行かされていて、其れが死ぬほど嫌だったので、本家で過ごすのは自由で良かった。
タコ公園は辛うじて覚えている気がする。
墓参りが終わってから『トシちゃん』と言う人に会いに行く。
この『トシちゃん』ではない。
私は初対面である。
関係としては
私の
母の
父の
兄の
息子
である。トシちゃんの親は31歳で死んでしまったので祖父が可愛がっていたらしい。
そんなトシちゃんは既に70代だが、面白い話がある。
トシちゃんは幼年期の頃から好きな女性がいた。幼馴染に恋をしていたわけである。
時代が時代なので、集団就職で大阪へ。
その幼馴染の女性も集団就職で大阪へ。
相手の幼馴染もトシちゃんの気持ちは知っていたのだが時代が時代だし、まだ子供だ。
だが、周囲は知っていたので
「今で言う、ストーカーよねぇw」
と言う。
集団就職で大阪に行き、二人とも大阪に住処を作った。
「○ちゃん、大阪にいるよ」
と聞いたトシちゃんは何とか食えるようになったので、「ここぞ!」とプロポーズに行った。
ところが幼馴染には既に彼氏と言うか「良い人」がいて
「あらら・・・遅かったわね・・・」
とフラれた。
途方に暮れながらトシちゃんは電車の中で友人に「俺、フラれちゃったよ・・・」と言うと、友人が案じたのか「じゃあ、俺の家の妹が余っているから貰ってくれよ」と言う事で、結婚。
二人は長年、別々の生活を送った。
トシちゃんは船員をしていたのだが、色男で各港に女がいる、と言う有様だったらしいが。
其処へ幼馴染は夫が何かで死んだ。49歳の頃だ。
トシちゃんは母親が病気になったので郷里に帰郷したい、となった。だが、妻が「あんなド田舎は嫌だ。行くなら別れる!」と言うので離婚(夫婦仲は悪かった)。
で、2人とも宮崎県の辺境へ帰郷。
そこでバッタリと出会い、トシちゃんは既に50代だが人生2度目のプロポーズ。
それで結婚している。
幼馴染を延々と想い続けるなんてドラマ化決定!と思った。
で、本家へ到着。
その本家だが母親曰く
「この辺は部落っちゅうか、一番、貧乏やったんよねぇ」
らしい。
「あの畑が爺ちゃんの畑やったんよ」
と言う。
軍人→大日本帝国陸軍最前線兵士の生き残り→農業→国鉄
と言うのが祖父の職業履歴なのだが、農業をやって、辛苦の末に畑を増やしたが祖父の『兄』が
『真光教』にハマってしまい、当時は家長制度が強い時代だったので、畑を奪われたらしい。
で、その本家へ。
だが、この辺で頭が疲れてきている。幼い頃だったし、記憶が断片的にしか残ってない。
それに当時と、今では身長も違うので見える景色が全く違うし、何しろ私にとっても30年前の話だ。
行くと記憶の遠くにある、ボロ屋敷が見えてきた。
それが私と妹が遊んでいた家だ、と言う。
記憶喪失の人が、記憶の旅をするような、と言うか。覚えている気がするし、まったく覚えてない気もする・・・と言う感じで頭が多少、混乱する。
腕には甥が「・・・此処、何処だよ?」と言う怪訝な表情。
思えば甥は車が動き始めると眠る。グースカと眠って、起きたら違う光景が次々と広がるのである。
そりゃ大変だよな、と思う。
軽く挨拶だけして帰宅した。
母曰く、母親も夏休みと冬休みは本家へ帰省していたらしい。母親の『祖母』と、である。
夏休みは楽しかったらしい。
小さな小川が流れているのだが60年前は川も大きく、水量もあった。
「其処で泳いだり、牛を洗ったり、豚の出産を手伝ったりねぇ・・・。で、生まれた豚と駆けっこしたりしてねぇ。楽しかったねぇ・・・」
と母親の口から『楽しかった思い出』なんて聞くのは初めてだ。
「で、豚が可愛くてよ。『仕方がないからミヨコにやる!』っち豚を一匹貰ったんよ。嬉しかったねぇ」
「で、その豚はどうなったの?」
と聞くと
「そら、持って帰るワケにはいかんからねぇ。養豚場をやっていたから、其処に渡して」
「で、豚汁になったわけだ。何だか『豚らしい生涯』だよね」
と笑った。
で、ようやく実家に向かって車を飛ばす。
車の中で母親から『宮崎県の辺境地帯での民俗学』を聞く。
冬休みは凄まじかったらしい。
今でもそうだが、宮崎県と言うのは交通インフラが壊滅的である。もう、地震が来ようと、津波が来ようと、核実験が行われようと、何の変化もないんじゃないか?って位にド田舎である。
恐らく『血縁関係』と言うのが当時の地方や、貧困層にとっては可也、大事だったのだろう。と言うか、大事と言うより『娯楽』的な意味合いも大きかったのではないか?と思う。
『一族が集まる』
と言うのが田舎の人は好きだしなぁ。
母親と、祖母はインフラなんてないから『山道』をオニギリを持って
「素麺と赤白のお餅を持って親族中に配るんよ。山道よ?『何処まで歩かされるんやろ・・・』っち思ったもんよ。キツかったねぇ。あんな山道をホイホイと行くんやから昔の人の足腰っちゅうのは信じられんほど、頑丈やったんやろうねぇ」
と言う。
山を一つ越え、二つ越え・・・と、真冬にやるんだから、そりゃキツいだろうなぁ。
で、高速道路へ。
其処で甥が疲れ果てたのか大泣きし始めた。
「ギャー!ギャー!・・・・・・・・・・・・・・・・ギャァァァァッァァァァァァァァァァァァァッァァァ!!!」
もう、渾身の力を込めて泣く、と言う感じ。
ギャァァー!
ギャァァァァァァ!
SAに寄ると「うんこ」だった。あとは疲れ。
ベビーカーに乗せているのだが、ベビーカーって安全性は高いが、子供としては拘束されるワケだから辛いよな、と思う。
然し、私も流石に前日に母親の
①恨み
②妬み
③嫉妬
④怨念
⑤思い出
を延々と助手席で聞かされているのである。私も疲れ果てて来た。余りにも疲れたので「運転、変わろうか?」と言うのだが、車とTVが大好きな母はガンと拒む。
で、姉が変わることになったが、姉も運転出来ず、母親が運転することに。
私は母親に『ペプシ:ストロング』を飲ませて実家へ。
其処へまた
①大雨
②霧
③雨
④晴天
⑤スコール
がアホみたいに繰り返えされる。九州地方は山が多い事と、日本海側に属する事もあり天候の移り変わりが激しい。
「最近やね。こんなに天気がおかしいのは」
と言うのだが、私が高校生の頃も酷い天気だった。30分かけて髪をセットしたのに帰宅はずぶ濡れってのが良くあった。
「ちくしょう!こんな土地、早く出て行ってやる!」
とお気に入りの洋服と、髪型を粉砕する天候を恨んだものである。
それに九州自動車道は山の中にあるので、余計に天候が不安定。
何とか実家に辿り着いた。
帰宅したら楽器の練習をしようと思っていたのだが、疲れて、そのまま眠った。
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